【連載】17歳の殺人者 第2回 序章 一九八八年二月の「あの日」へ ――まえがきにかえて

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序章 一九八八年二月の「あの日」へ ――まえがきにかえて

その二階建ての家の前に立つと、ヘリコプターの旋回音が蘇ってきた。私の記憶の中で、けたたましい金属の羽音が耳鳴りのように響く。私の記憶は瞬時にして一○年前に飛んだ。この場所に私は何度、佇み、二階の部屋を見上げたことだろう。

その部屋では、ひとりの高校二年生の女性が四○日以上も監禁され、凌辱の限りを加え続けられた挙げ句、殺された。一六歳の女性を殺害したのは、当時一六~一八歳までの少年たちだった。筆舌に尽くしがたい暴行と性的虐待を加え続けられた女性は、誰からも救いの手を差し延べられることなく、最期は誰もいない、暗く、薄汚れた部屋で、消え入るように衰弱死したのだった。かれらは東京という大都会にぽっかりと口を開けた、悪意のエアポケットに女性を投げ入れたのである。

灰色の外壁だった家は取り壊され、新しい家に建て直されていた。新しい住人が暮らしているのだろう。目立つ原色の外壁はまわりの家々から浮き、その家だけがあの忌まわしい事件を知らないかのようだ。

しかし、私の記憶はみるみるうちに蘇り、さかりのついた獣のような目つきをした一○代の男たちの顔つきを思い出した。とくにはっきりと覚えているのが、この部屋で女子高校生を死に追いやり、家庭裁判所から刑事逆送された四人の加害少年のそれである。主犯格A、準主犯格B、女性を監禁した部屋の主C、そしてBの同級生D。A~Cの起訴容疑は、猥褻誘拐・略取、監禁、強姦、傷害致死、死体遺棄、傷害、窃盗で、Dには死体遺棄と窃盗がついていない。

逮捕されたのは四人の他に、Cの同級生が三人。三人は家裁から検察へ逆送致されはしなかったが、家裁の保護処分は重い順に、特別少年院送致、中等少年院送致、保護観察処分、となった。本書には、特別少年院送致された「ヒロ」、中等少年院送致となった「カズキ」が登場する。

この本の大半を占めるルポルタージュの底本になっているのは、私がその事件を記録した『少年の街』(教育史料出版会刊・九二年)である。当時、一年半にわたる刑事公判の終了を待って出版された類書は数冊あったが、後発組であった私は事件そのものの詳述より、事件が起きた街を歩き、中心的に犯行をはたらいた四人に連なる一○代たちの間を漂い歩き、かれらが見たこと、考えたことなどを聞き取った。取材を始めたとき、私は二二歳で、できあがったのは粗削りの「風景」ルポだった。

幸い多くの先達から高評をいただいたが、いま約一○年ぶりに再読してみると若さゆえか稚拙な表現や感傷的な物言いが鼻につき、原型を壊さない程度に加筆・訂正・構成変更をおこなった。また、詫言を言わせていただければ、当時、被害者遺族の方々にお会いできなかったことに私は後悔の念を拭えないでいる。当時は写真週刊誌数誌が売上げ競争にしのぎを削り、被害女性の水着写真を掲載する媒体まであり、守られるべき被害者のプライバシーが侵されるという異常事態になった。被害者へのセカンドレイプといえる。そういう理由もあり、私は被害者の取材に着手しなかった。いま被害者のご自宅は跡形もなく、マンションになっている。連絡もとれない。

被害者の遺族は、癒されぬ怒りと絶望感を抱えたまま、社会の片すみで息を殺して生きておられることは想像に難くない。被害者の父親が簡易裁判所で証言した内容を抜粋して紹介させていただきたいと思う。

〔(娘が)いなくなって約四カ月間、(殺されたことが)分かるまで時間があったわけですが、私も会社を休んだりして捜し回っていました。(殺されたことが)分かってから、妻は十数キロ痩せ、うつ病にかかり、精神科に通っています。誰かがそばにいないと自殺してしまいそうな状況がずっと続きました。事件を報道するマスコミも、記事や雑誌をわざわざ私たちのところに送ってきたり、公判のコメントを求めて大勢の記者がひっきりなしに押しかけてきていました。私は妻に事件の詳細を知らせないようにしていたのですが、残酷な話を知らせてくるので、よけいに妻は精神をおかしくしてしまったのです。ですが、告訴状にサインをするために夫婦で地検に出向いたとき、あまりにも(殺し方が)酷いので告訴状の内容を私が読むなと妻に言ったのですが、妻はあえて読みました。妻は言葉では言い表せないショックを受け、話さえもできない状態になりました。これだけ残虐な殺し方といいますか、親にしてみれば耐え忍びない状況で殺されたというのを思うと、返せと言っても死んでしまったわけですから、(加害者には)一生償っていってほしいという気持ちしかありません。それから、(加害者の)親にも恨みがあり、責任を問いたい気持ちです。(Cの親を指して)同じ家にいながら気がつかなかったというのは、これは殺人幇助にあたるのではないでしょうか〕

この遺族の言葉は私の胸にも突き刺さる。加害場面を克明に書いているからだ。これを読んだ遺族がどんな気持ちになるのか、と問われたら私は答えようがない。それでも私が事実を正確に記そうとするのは、強姦を暴行と言い換えてしまうようなマスメディアの報道に準じたくないからである。少年であっても、こうまで人間は鬼畜になりきれるものなのか、という事実を私たち一人ひとりが背負わなければならないと思うからである。

私がこの事件についてのルポを再び社会に送りだす心境になったのは、書店から姿を消して久しい『少年の街』を図書館で読んだ一○代後半や二○代前半の読者から、この一~二年に十数通の手紙が寄せられるようになったことがきっかけである。かれらはマスコミで騒がれる一○代の若者、とりわけ十七歳の男子による殺人事件に刺激を受け、拙著を手に取ったのだった。一○代による凶行は過去から連綿と続き、他者の生命を奪う「暴力」が一○代という世代と切っても切れない問題であることをあらためて認識した、と彼らは私に書き綴ってきた。それは、少年法の改正などの制度改革も含めた、一○代の「暴力」対策を怠り、小手先の処方妻でごまかしてきた大人社会の責任をも指している。

第一章の内容はすでに述べた。なお、少年の括弧内の年齢はすべて事件当時のものにしてある。被害者の呼称については、地の文では「女子高校生」や「女性」としたが、加害者や弁護人の発言中ではイニシャルをとって「Fさん」となっている。第二章は、「取材ノート」とし、一章の補足とした。現在は二○代後半になった加害少年へのインタビュー、そして加害者の母親の独白も収めてある。第三章は、一九九四年に長野県安曇野で起きた、十数人の高校生男子による殺人事件。第四章は、一九九六年に大阪市で起きた男子高校生による殺人事件。双方とも被害者は一○代の若者だった。第五章は、二○○○年五月に佐賀県で十七歳の男子が高速バスをジャックし、乗客の女性を殺害した事件について書いた。終章は、それらの事件を俯瞰した私の考えを記した。

第一章と第三~四章を読み通していただくと、ある違和感を抱かれるかもしれない。それは第一章と第三~四章を書いた時期には一○年のタイムラグがあることに加え、私の少年事件に対する向き合い方に変化があったからである。第一章は加害少年の心情や生まれ育った背景を描くことに主眼が置かれているが、とくに第三~四章は少年にわが子を殺された被害者遺族の視点に立っている。その理由はあとがきで書いた。

これらの事件はいうまでもなく、この一○年に起きた一○代の少年による殺人事件群の一角である。社会的に大きく取り上げられた事件も、そうではない事件も、人間の命が無残に奪われ、被害者遺族の絶望は同じである。事件の一つひとつのディテールの差異に注目するべきなのは当然だが、共通しているのは、被害者にとってなんの必然性もない暴力であること。そして加害者は冷静にそれを遂行していることである。なにかに対するレジスタンスとしての暴力の延長ではまったくなく「キレる」という自己制御不能の暴発型でもなく、暴力そのものを「目的」にしているかのような気質が加害者側に見受けられる。

では、一九八八年のあの家の前に立ち戻ることにする。

A、B、C、Dが出会ったのはその年の九月頃のことである。女子高校生が監禁されることになるCの自室は、Cが高校を中退した八八年九月頃から、中学時代の先輩や後輩のたまり場になっていた。そこに出入りする者の中に、準主犯格のBがいた。

BがCの家に出入りするようになったのは、Bの中学時代の友人がバイク事故で入院してCの兄と連絡を取り合うようになったのがきっかけだった。はじめBはCの兄と二人でバイクを乗り回していたが、弟のCとも意気投合、つるむようになった。

そんなCに主犯格のAを紹介したのはBである。同年の十月はじめ、Cの兄のバイクが盗まれ、それを探すのをAに依頼したのがきっかけだった。

そんな三人が、当時Aが乗っていた日産シルビアの新車を使って強姦を繰り返すようになったのは、三人が出会ってからたった一週間ほど後のことだ。行動を共にすることが多かったBとCは、決まってAがマージャンをやっていた店に呼び出され、マージャンが終わると三人でAの車に同乗して強姦をするために街へ繰り出した。初めての強姦事件は車から降りたCが女の子に抱きついたが、悲鳴を上げられ失敗、未遂に終わった。しかし、十月中旬以降は手口が巧妙になり、強姦事件を連続して起こしていく。また十月末にはAとBはひったくりで一二万円を強奪したり、衣料品店から二○○万円相当の洋服を盗み出して山分けもした。

出会ってからわずか三週間という短期間のうちに三人は犯行をエスカレートさせていた。

十一月二五日。夜六時頃、AがCの家にやってきて、「今日は給料日だから金を持っているやつが多い。ひったくりに行こう」と誘った。AとCはそれぞれバイクに乗り、CがAの後をついて行く形で自転車に乗った高校生をからかったり、何度かひったくりをやりながら街を流していた。

午後八時過ぎ、自転車に乗っている女子高校生を見つける。AがCに対してこう命令した。

「あの女を蹴ってこい、あとは上手くやるから」

Cはバイクでその女性に近づき、左足で彼女の腰を思いきり蹴り、そのまま角を曲がって彼女の視界から消えた。バランスを失った女性は自転車に乗ったまま転倒し傍らのドブに落ちた。

そこでAが芝居をうつ。Aは近づいて「大丈夫ですか」とやさしく声をかけ、助けおこし、Cのことを「オレも脅された。危ないから送ってやるよ」と詭弁を弄したのだ。Aは女性を近くにある倉庫の暗がりに連れて行き、「オレはヤクザの幹部だ。お前はヤクザから狙われている。セックスさせれば許してやる」と脅し、ホテルに連れて行き、強姦した。

Cはそのままいったん家に帰っていた。Cが家にいるとAから電話があった。

「おまえやりたいか」

「やりたいです」

Aはいったんは「ホテルにこい」と命令したが、最終的にはバイクを借りた友だちの家にくるように指示する。CはBのほかに、たまたま部屋にいたDを誘って出かけた。

Dは二月初旬からCの家のファミコンで遊ぶようになっていたが、Aらの犯行に誘われたのはこの日が初めてだった。Dは、Cの兄とは中学の同級生で、一歳上のDの姉はAの恋人だった。

夜の十一時頃。Aが指定した場所にB、C、Dの三人が到着した。AがDに対して「あいつと話せ」と命令し、Dは女性と話しながら歩いた。A、B、Cはその後をついて歩いていた。

途中の公園で一五分ほど話した後、Aがいきなり「ヤクザの車がきたから隠れろ!」と女性を恐怖に陥れるための芝居をうちながら、Cの部屋に女性を連れ込んだ。時刻は深夜0時を回っていた。

これが、拉致した女性を四○日間以上にわたって監禁、レイプや虐待を加えつづけた挙げ句、衰弱死させ、遺体をドラム缶にコンクリート詰めにして東京湾の埋め立て地に遺棄した、犯罪史上稀にみる残虐な「女子高校生コンクリート詰め殺人事件」の端緒であった。

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