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【連載】暴力の学校 倒錯の街 第7回 知美の学園生活

藤井誠二ノンフィクションライター

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知美の学園生活

生徒と教員の反りが合わない。教員は自分の「指導」に従わない生徒を好ましく思わず、生徒は教員にムカつき、愚痴をこぼすご日本中どこの学校にでもある光景だ。

生徒が教員に「ムカつく」理由の大半は「校則」に由来する。意味のない、不合理な校則が横行し、教員はそれを守らせることに汲々とする。たいして意味のないこととわかっていながら、「校則だから」という理由だけで理不尽なふるまいを教員は生徒にする。あるいは、それこそが「教育」だと自信を持っている教員も多い。

だから、生徒と教員が馬が合うなんて、ほとんど聞かない。生徒は教員に期待しないほうがいいし、教員は生徒と信頼関係ができるなんて幻想は捨てたほうがいい。互いにいがみあったまま、生徒は学校という時間を通り過ぎていけばいい。掃いて捨てるような、次から次へと流れ去っていく日常の光景で終わっていけばいいのだ。多少の痼が生徒の心に残るかもしれないが、そんなものはその先に続く人生の中で償却してしまえばいい――私はそう思っている。

福岡県飯塚市にある近畿大学附属女子高校二年の情報処理コース(通称は就職コース)に通っていた陣内知美も、副担任の宮本煌にムカついていた。宮本も知美に手を焼いていた。どこにでもある生徒と教員のありふれた「関係」だった。

知美は、陣内元春と明美の長女として一九七九年一月十八日に飯塚市で生まれた。新飯塚駅からクルマで十分ほど走った静かな住宅地に、両親と二歳上の兄といっしょに知美は暮らしていた。

《明るく活発で口も達者な子でした。母親か何か言うと、それか十倍になって返ってくることもありました。でも、私が注意してもそれを根にもつタイプの子ではなく、サッパリした性格で、友だちも多く、男女の区別なく誰とでも付き合っていました。小さいころから病気一つしたことはなく、たまに風邪をひくぐらいでした》(供述調書より概要、以下同)

こう母親の明美は言う。

地元の中学校で陸上部に入り、短距離走を得意とした。が、二年生のとき、勉強に専念するために陸上部をやめている。飯塚市内にある、普通科と衛生看護科(通称看護科)を持つ近大附属に入学したのは、一九九四年四月のことである。明美が言う。

《知美が通っていた高校に服装などについて校則があることは知っていました。知美が入学したときに校則について記載してある書類を見て、スカートの長さ、ソックスの色、髪の色や下着の色、それに遅刻をしないことなど、たくさんの校則があることを知りました。知美が高校に入ったあと、校則に違反して学校から注意を受けたのは、私が知る限り二回だけです。

一回目は一年生の十月ごろで、タバコの件で注意を受け、学校内で一週間の指導を受け、ひとりで英語や漢字の書き取りをしたり、反省文を書かされるなどの指導を受けたと聞いてます。

二回目は二年生になった今年(筆者注・九五年)の五月頃、ポケベルを持っていたということで注意を受けました。ここのポケベルは長男の一孝か知美の誕生日にプレゼントしたものでしたが、このポケベルはレンタルで知美に与えていたもので、知美が学校から取り上げられたあと、私が受け取りに行きました。学校へ行くと、担任の棚町先生からポケベルの件や成績のことなどについて注意を受けたのです。

知美は一年生のときは、担任が女性の先生だったこともあってか、よく先生の話をし、顔が生き生きとしていました。しかし、二年生になってからは、友だちの話はするものの先生の話題はほとんど出なくなりました》

一時的に没収された娘のポケベルを取りに、明美が同校に出向いたとき、副担任の宮本とも進路指導室で会っている。宮本は知美が遅刻をすることを咎め、朝は何時に家を出るのか、帰りの時間は何時なのかを聞いた。

その直後、知美が宮本について「あの先生、よく叩くっちゃ」と言ったのを明美はいまも覚えている。が、そのときは宮本が知美を叩くのか、他の生徒を叩くのかは知美は口にしなかったが、「叩かれんごとしとかなね(叩かれないようにしないとね)」と明美は注意しておいた。それ以降、宮本については知美から聞いていない。

知美は宮本についての不平不満を親友の山岸景子(仮名)にも漏らしている。知美と山岸は、一年、二年と同じクラスで、学校への行き帰りは同じバスに乗った。

《知美は明るくて、人の世話をするのが好きな性格で、クラスでもリーダー的存在でした。知美はたまに学校へピアスをして登校することもあったのですが、決して不良ではありませんでした。知美は思ったことをそのまま口に出して言い、私たちに対しても何でもはっきり言うのでたまにはムカッとすることもありましたが、私は一~二年がいっしょですので知美の性格はよくわかっていたから腹は立ちませんでした。

宮本先生には、二年になってから初めて簿記を習いました。二年一組の副担任で私たちの担任の棚町先生がいないときには代わってホームルームをされることもありました。私の宮本先生への印象としては、大人げなく、自分の機嫌が悪いとビンタをする、目をつけている人に対しては特に厳しい、というふうに感じていました。大人げないというのは、宮本先生は自分の思いどおりにならないと子どものようにすぐに怒り出す、ということです。そのようなとき、宮本先生の機嫌が悪ければ平手で頬を殴るのです。宮本先生からは遅刻したり、簿記の教科書を忘れたりした場合、すぐにビンタされ、それが何回も続くと目をつけられるのです。私のクラスでは高田純子(仮名)さんが、宮本先生から一番目をつけられていました。彼女が教室でみんなのいる前で宮本先生から何回もビンタをされているのを見たことがあります。

知美はピアスの件で宮本先生からビンタをされたことがありましたが、そのときは一発だけで終わりました。私が見た感じでは知美が宮本先生から特に目をつけられていたとは思っていません》

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ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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