「善意のモラリスト」のSNSスクラムでネット議論が無理ゲーだと思わされた「#私たちのフェミニズム」

「フェミニスト」の言動は、しばしば先鋭化しすぎる。(写真:ロイター/アフロ)

 ハフポスト日本版の「#私たちのフェミニズム」、高崎順子氏の「もっとフラットに“フェミニズム”を語る機会はないだろうか。専門家でなくても、より身近な“私ごと”として、この言葉に触れられないだろうか」という問いかけには共感できるし、初っ端に西村博之氏を据えるということは賛否両論上等で、シャンタル・ムフ氏の闘技的民主主義のようなアプローチなのかな、と期待していたところ、後編で竹下隆一郎編集長が出てきて「前編の記事にはたくさんのご批判をいただきました。記事ではこうした企画意図や取材のルールについての丁寧な説明が不足していたと感じています」といい、西村氏の見解について注釈を入れるべきだったと反省・謝罪の弁を入れていて思いっきりズッコケた。

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 この記事には、主にTwitterでの「フェミニスト」から激しいバッシングが寄せられていたが、一方で自身がフェミニストだと公言しているアーティストのろくでなし子さんのように「何が問題なのかわからない」という意見も上がっている。

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 また、編集部の姿勢については、三浦瑠麗氏が「そもそも媒体として対談を申し込んだ相手に対して失礼すぎないか?」というのに同感だ(ただし、筆者は西村氏が取締役を務める未来検索ブラジル子会社の『ガジェット通信』でライター・編集として関わっているので、若干のバイアスがあるかもしれない)。

 上野千鶴子氏や宮台真司氏、小谷真理氏、小山エミ氏らがジェンダーフリーやフェミニズムに関して過剰に攻撃されていることを論じた『バックラッシュ! 』が刊行された2006年以降、ネットにおいてフェミニズムを語る人は格段に増え、Twitterの普及によって爆発的に増大し、今や「一大勢力」になっているように感じる。当事者が「嫌だった事」をカミングアウトして社会改革につなげようという「#MeToo」もそういった潮流の延長にあると考えてよいだろう。

 「男女平等」が未だ十分でないといった意見には頷ける部分もあり、「フェミニスト」が必ずしも社会に対して影響力を発揮できていないというのは事実だと思う。だが、Twitterにおける「フェミニスト」は「一大勢力」であり、なおかつ攻撃的なツイートを繰り返しているという印象が拭えない。今回のハフポストの企画で、西村氏に噛み付いた「#KoToo」提唱者の石川優実氏のツイートなどその典型のように感じる。

 個人的には、女性がハイヒールを望まずに履くことのない社会を目指すというアジェンダには賛成だ。ただ石川氏のツイートの数々は、批判者に対して喧嘩腰すぎて、おいそれと言及する気になれない(ここで挙げることにも相当勇気が要る)。彼女に限らず「フェミニスト」は、自身の正義を信じて疑わない「善意のモラリスト」になっているのではないだろうか。

 ここで唐突に「善意のモラリスト」という言葉を使ったが、これは筆者が2011年に西武百貨店渋谷店美術画廊で開催された『SHIBU Culture ~デパート de サブカル』展が、本社に入った苦情によって中止に追い込まれた時に、「見えない批判者」を指した言葉だった(参照)。この時は「顔が見えないが影響力を発揮した存在」という定義だったが、Twitterで自身の思想や考え方と違う相手をやり込めて論破するという姿勢は相通じるものがあるように思う。

 「フェミニスト」が「善意のモラリスト」であると感じるのは、例えばハフポストの前編で触れられている日本赤十字社の『宇崎ちゃんは遊びたい!』コラボのポスターへの批判などが典型だが、同じような事例は三重県志摩市をPRする萌えキャラ碧志摩メグの公認撤回や、京都市交通局の地下鉄・市バス応援キャラクター太秦萌・松賀咲・小野ミサが掲示されることに批判が集まった事例(参照)など、2015年頃より顕在化してきている。「“女性”を見世物として扱われるのが嫌」という意見は、あくまで好悪の話のはずが、正義の話にすり替わっていて、しかも当人はそれを疑っていない。だからそういう人は「善意のモラリスト」と呼ぶに相応しいのではないかと思う。

 また、特にTwitterでは「反フェミニズム的」と見なされたものに対して、不特定多数からリプライが寄せられるという現象が数多く見られる。これは批判された当事者のみならず、どちらの立場でもない「中庸」の人から見ても、かなりの圧力だと感じられるのではないか。もちろん、「フェミニスト」関連の事象だけではなく、政治家や公官庁、企業、芸能人の不祥事の際にもたびたび起こることだが、もはや事件被害者にマスメディアが大挙して取材に殺到する「メディアスクラム」にも似た、「SNSスクラム」と呼べる現象のように思える。今回のハフポストの企画で起こっていることもまさにSNSスクラムで、当事者がパニックになってもおかしくないし、だからハフポスト編集部も説明と謝罪の弁を掲載するという選択をしてしまったのだろう。

 前述したように、男女平等という観点で日本社会はまだまだ不十分なところが多々ある。それについて何らかのアクションを起こすということについて自体に疑義を唱える人は少ないだろう。ただ、自身の思想を他人に強要しているかのように読める言動は別だ。西村氏の指摘したポイントはまさにここだし、それについて多くの「フェミニスト」が反駁し、ハフポスト編集部が謝罪をしたという「成果」は小さいものではない。何しろ、Twitterのリプライの「数」によって企画の方向修正を迫られ、実行したように見えるからだ。「フェミニスト」の多くは「自分たちは少数派」という意識なのかもしれないが、実際に「好きなキャラのポスターが差し替えられる」「ネットメディアの編集部が謝罪する」だけの力を結集させている。「反フェミニズム」の人たちはともかく、どちらでもない中庸の人たちにとっては脅威だし怖い存在として見られることに対して、少しばかり敏感になった方が良いように思う。

 ところで、ここではTwitterなどネットでフェミニズム的なツイートをしている人を「フェミニスト」とカッコつきにしてきた。本来のフェミニストならば、「好き」か「嫌い」から離れたところで、男女の格差や社会の目指すべき姿について論理的に議論を重ねてきたという認識だからだ。ハフポストの記事の反応でも、「単にひろゆきさんが嫌いなだけじゃん」というリプも散見されたし、そういうバイアスがかかった意見が交じることで本来の議論が混乱する。そういった意味でも、「善意のモラリスト」だらけになったTwitterにおいて、議論を喚起するというのは無理ゲーになりつつある、という認識を強くした次第だ。