博士号を取るまでの5年をどう社会は挽回させるか?という問題

このような記事が日経新聞の記事に出ていた。

日本企業、博士採用増で生産性低下 経済研究センター分析  :日本経済新聞

(上記のリンク先は、はてなブックマークのコメントページである。夜が明けたら「日本企業、博士使いこなせず? 採用増で生産性低下 」というタイトルに差し替わったらしい)

ここのコメントによると、

「1995年以降、生産性が増加していない。1995年以降博士が増えた」の2点を示しただけですよね。

とのことで、一次ソースと論点が違うじゃないかという指摘を受けている。

しかし、そういうツッコミとは裏腹に、こういう記事が出ること自体が問題を内包していて、第一に、博士号取得者への能力の期待を研究における専門性だけで測ると、その専門性が産業界の要望とずれた瞬間に5年無駄にした人という烙印を押されてしまうのが問題である。(もしくは、まだ社会が追いついていない可能性もある)

仮にそれを覆すとしたら5年先の世界を予想した就職マーケティングが必要になる。それができたらとても有能な人であるので、イノベーションを作るという意味でも目指すのは全く悪いとは思わないが、社会人経験がない学士卒の学生が修士に入って、5年先の予想ができて社会でひっぱりだこになるとしたら、例えば東大の大学院で最短?レベルで博士号を取られた落合陽一さんのようなビジョンとスキルが必要で、それはそれで素晴らしいものの、天才性頼みとなると教育課程という言葉からは違和感を感じる。

あくまでも博士課程は教育課程なのだから、そこで培われた何かと産業界に求める何かが一致した場合にのみ有用で、それ以外はいっそ忘れてしまうくらいが望ましい。学部卒であれば、むしろ大事な何かを忘れすぎで学歴がただの就職パスポートみたいになっているわけだが、そこが主流人材の日本の状況において、学部卒と比べて5年の遅れを取り戻すだけのメリットを見出してあげないと、社会的に博士に行くのは不利だという結論になってしまう。

先日、個人的に思った博士号取得のメリットは以下の記事に書いた

社会人における博士号取得のメリット

要は、一つの研究プロジェクトをたった一人でクロージングさせ、経験も豊富で、頭がめちゃくちゃ良い教授陣に納得してもらう形でプロジェクトを論文にまとめて公聴会で発表して認められたと言う部分に必要なやりきった力や負けなかった力は社会人でも符合する部分があるよという話である。

多くの学生は、研究を進めるために過去の論文を調べていくと、すでに似たような研究やより有用な研究論文が見つかって、自分の研究への無力感を感じることが多いと言われている。そりゃ先輩方にも自分より優れた人間なんて山ほどいるので、自分が考えることなんて所詮ワンオブゼムでしかないのだ。人一人にできることには限りがあるという絶望感を知ってからが本当の勝負で、どのように差別化要素を見つけて学位論文としてクロージングしていくかを負けずに考えていかないと、時間は覆水盆に返らずなのだから、学位取得に向けてかけてきた時間を無駄にしてしまう。研究内容や専門性の良し悪しとは別に、あくまでも学費を支払う教育課程なのであるから、限られた時間の中でどうクロージングさせたかというのは問われてしかるべきなのだ。

研究というプロジェクマネジメントにおいて負けなかった部分と、それ以外にある研究の専門性の部分は、それぞれ要素として存在していて、どちらを評価するか?というのがあると、まだ救われる部分はあるかなと思うが、世の中の博士への見方は後者の専門性に偏っているのが現状であろう。

そこで培った研究力や説得力、根性であったりが、よく言われる「体育会系は兵隊に最強」のような抽象概念を見出さないと。上司がわからないから面倒くさい人材として見るのが問題ということである。

また、博士号持ち側も同じ部類の意識が必要なのかもしれない。つまり、5年の不利をどう挽回するか?の意識が博士号持ち側新卒の側に求められる。

まず仕事自体は専門性の枠に囚われず、どんな仕事でもチャレンジする気持ちが求められる。研究は自分の理想を追求することは不可能ではないが、社会はそんなことはない。政治力などと言われる、つまらない制約も含めてやれないことが沢山ある。それとそれとを考える筋肉をつけないと、以下の様なことを言われてしまう。

提案力や構想力が乏しく、企業の応用研究に対応できる博士人材が大学で育っていない

専門性に期待し杉

しかし、博士号を取った根性があれば、ちゃんと社会人力を身につけさせてあげることで短期間で挽回できるハズである。これは意思決定者や人事に対するお願い。

そして博士号を持つ人材に期待したいのは、その先に存在する「不確実性の中から何かを見つけていく力」である。

個人的に思うところとして、博士課程における研究というのは、自分自身にとって不確実な状態から研究をはじめ、アウトプットを作り出すための教育訓練であると思うべきで、もう学位取得が終わったのなら極論として、そこで培った専門性などは捨ててしまえ、とさえ思うところはある。少なくともその専門性にこだわることが、社会人としての柔軟性に欠けると言われる理由なのであれば、それに表向きこだわり続けることは不利になる。でも、こっそりこだわり続けていれば、どんな仕事でも何らかしらの関連性というのは見えてくるもので、そのような抽象レイヤーで社会への貢献度や自己満足度を得られるのも、博士号取得者なら得意なハズである。こっそり社会人として野望を持っておいて、偉くなってから活躍し始めるのもよかろう。「急がば回れ」である。

AIやブロックチェーンであれば、自分の専門研究がそのまま産業界でも続けられるかもしれないが、シリコンバレーが目の鼻の先に見えているITでさえ、学術界と産業界が繋がるように見え始めたのは、ここ最近の視野である。それは、(株価的にも)行き着いたIT産業の先に必要とされてきたものが、例えばAI技術が「不確実性の塊」であることが挙げられる。それまでは海外に存在するWeb化ビジネスをうまく模倣することで儲かったわけだから「ギアが一段上がった」のが原因である。産業界が海外のマネをしていればよい間は、不確実性に対する研究が海外に外注されている以上、そもそも不要なのだから、自分たちでチャレンジを始めるぐらいまで産業が成熟しないと、博士卒の学生が本当に活躍するようなステージはやってこない、とさえ言えてしまうのかもしれない。

そのステージがやってきた段階で、博士号で培えるような不確実性へのチャレンジに必要な努力と根性が求められる。でも、もはや別に学位はなくても不確実性へのチャレンジする人はいる。頭のいい人同士の戦いだから気をつけて!

そのようなステージを探せるだけの転職力や交渉力、もしくは独立起業して技術ベンチャーを作るなどと言った社会人力が必要だということになるが、そこは博士課程で学ぶことはできない。つまるところ5年の不利をどのように挽回して、やりたいことをやれる世界にアプローチできるか?という社会人力が博士号を取った人には求められるという理由である。それを就職先頼みとして他人に委ねるのは、不確実性に対する生き方ではないと思う限りである。

だから、がんばっていきましょう。自分自身もそういう学生を良き社会人となるように支援できるようにビジネスを大きくしていかないと!