10年程度先のことを考えるなら「強いAI」は禁句にしてもよいのでは?

日経新聞の有料記事ではあるが、総務省若手チームによる未来提言をしたという記事があった。

「上司がAIに」… 総務省若手チームが未来提言

この記事では、今後10年以上先のアイディアをまとめて、彼らが偉くなるころにどうあるべきかを議論していくことになるような話が書いてある。

しかし、そもそもAIには、「強いAI」と「弱いAI」という分類がある。

強いAIとは、よく言われる「AIが人の仕事を奪うのでは?」と言われるアレである。

「汎用AI」とも呼ばれる範囲で、これを仮に人の代替を目指したものと定義しよう。

しかし、もう一つ現実的にあるものが「弱いAI」である。

弱いAIは少し前に話題になったalphaGoや自動翻訳であったり画像認識、音声認識、自動運転、義手や義足等の制御、推薦や予測などの技術である。

こちらは「特化型AI」として主に「人間を支援する技術」であることが多い。こちらは既に実現しているものもあり世界中で開発競争になっている。

現実的には、弱いAIと強いAIとの間には大きな断絶がある。強いAIを実現するのに必要な技術的な進化を「シンギュラリティ」と呼び、簡単に言えば「実現しないかもしれない」壁がそびえ立っている。

日本からシリコンバレーに行ったWebのエンジニアのTwitterアカウントを見ると、非常に多くの人が、弱いAIのコア技術である「ディープラーニング」を勉強している姿をよく見かけて驚いたことがある。(補足しておくとWebを作るスキルとディープラーニングのスキルは全く分野違いである)

AIの脅威論は「人間の仕事をAIが代替するのでは?」と言われるが、むしろ、それより手前にある「日本の仕事を、AIを活用した海外企業によって代替されること」と怖がったほうが良いのではないだろうか。

強いAIについて研究が進んでいる以上、それについて考えるのは大切なことであるが、直近10年~程度のスパンにおいては、もしもドラえもんがいたらどうなるか?みたいな議論よりも、弱いAIについてまだまだ考えることがあるのではないだろうか。

もしかしたら、既にちゃんとやっていて我々の耳には聞こえてこないだけかもしれないが、弱いAIによる産業政策に的を絞った政策提言、規制緩和などの声はあまり聞こえてこないように思えるが、どうなのだろうか。

地味すぎる?

個人的に思っているのは、ドラえもんが登場するよりも前に、人間を支援するAIをネイティブに活用できる「ニュータイプ」たる若者が、ガンダムで言うサイコミュを操作するが如く、AIを活用して対象となる生産性実現に大きな寄与を及ぼす世界である。

それはデイトレのようなところで生きるかもしれないし、天才プログラマが恐るべき生産性を誇るのかもしれない。この「ニュータイプ」たる実力を持った人達と、持たない人達では、デジタルデバイドよりも遥かに大きな格差を生むだろう。

そうなった時に、AIをまとった人間対普通の人間という戦いが発生するのではないかと考えている。こういう概念は、これまでの技術においても、Excelマクロを使える者と使えない者との間での「私頑張ってるのに、マクロで自動化するなんてズルい」などの感情論や、プログラムを書ける者と書けない者の権力闘争などが各所で発生していて、地味に日本の生産性向上の足かせになっているのだが、AI技術を用いることで、そのレバレッジが無視できないぐらいの差を生む時代を想定している。

メディアによるセンセーショナルな見出しに飲まれる前に、目の前にある脅威にしっかり目を向けて淡々とやっていきたいと思う限りである。