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「ジャスト・メイク・イット・グレート」 〜スティーブ・ジョブズの成長物語 ピクサー篇(11)

榎本幹朗作家/音楽産業を専門とするコンサルタント
(写真:ロイター/アフロ)

ジョブズはピクサーをコンピュータ製造の会社に変えたが、そのせいで倒産危機に陥ってしまう。大リストラを始めた彼は、CGアニメ制作部門の閉鎖を求めた。そこには後に「トイ・ストーリー」を生むジョン・ラセターもいたのだが───。

音楽産業、エンタメ産業そして人類の生活を変えたスティーブ・ジョブズの没後十周年を記念した毎日連載、二十一日目。

■「ジャスト・メイク・イット・グレート」

 その日、ピクサーの経営会議は荒れているようだった。

 ジョン・ラセターは、自分のブースで待っていた。会議室で何が起きているか、薄々感づいてはいた。いよいよリストラが始まろうとしている。オーナー、ジョブズの戦略ミスでピクサー社は大赤字が続いていたのだ。

 閉鎖すべき部門があるとしたら、まず自分らだろう。コンピュータ販売を生業とするこの赤字ヴェンチャー会社に、アニメ制作部門があること自体が浮いているのだ。机をおもちゃだらけにしている自分などリストラ候補の筆頭のはずだった。

 実際、ジョブズはキャットムル社長に何度かそう提言したという。

 ラセターの方は、同い年のこのオーナーのことが嫌いではなかった。コンピュータの科学者だらけのこの会社で唯一、鋭い文系的センスを備えていたのがジョブズだったからだ。制作中の作品を見せて、ジョブズの感想を聞いたりすることもよくあった。

 ドッと音がして、会議室からずかずかと経営陣のみんながブースにやってきた。ジョブズもいる。キャットムルもいる。上気した顔で、絵コンテを見せてくれと言う。ラセターは理解した。いまこそ正念場なのだ。

 日本から帰って描いた絵コンテは、すでにストーリー・リールに起こしてあった。三秒に一枚の速度で、百枚の絵コンテが次々と切り替わっていく。その映像に合わせて、ラセターが迫真の演技で声をあてていった。ウォルト・ディズニーがやっていた作品プレゼンの仕方だ。

 リールが終わった。ラセターは息が切れている。みながジョブズの顔を見た。彼は感動しているようだった。

 だが制作費は十秒あたり百万円を超えそうだ。会社に金は無い。ジョブズが資産を崩すしか無い。ピクサーとネクスト両社の赤字補填で、すでに彼の個人資産は危険な域に向かおうとしていた。ジョブズはラセターの眼を見て、ただひとこと言った。

「とにかく、最高のものを作れよ (Just make it great.)」[1]

 ワッと声が上がり、やがて「トイ・ストーリー」のプロトタイプとなる「ティン・トイ」の制作が始まった。 

■オスカー像とジョブズの笑顔

Tin Toy on display at the Four Horsemen Exhibit at Comic-Con (CC) 2011 Loren Javier
Tin Toy on display at the Four Horsemen Exhibit at Comic-Con (CC) 2011 Loren Javier

 そして夏が来た。

 CGの祭典は、ラセターの作品をスタンディング・オベーションで迎えた。

 ブリキのおもちゃティニーが、人間の赤ちゃんに追いかけられる。おもちゃの仲間たちは震えている。でも赤ちゃんが転んで泣き出してしまった。心配で、勇気を出して様子を見に行くが…。

 ありえないほど、活き活きと描かれていた。当時のCGといえば立方体や球体を動かすしかできないと相場が決まっていた。人間を描くのは不可能だったはずなのに、ピクサーの連中は不可能を可能にしてみせたのだ。

「写真を凌駕するだけでない。演出は芸術の域だ」と映画芸術科学アカデミー理事は絶賛した[2]。翌八九年、『ティン・トイ』はアカデミー賞を受賞した。短編アニメ部門だった。

 点と点がつながり線となる。このアカデミー賞の受賞がディズニーの目に留まり、やがてジョブズの復活へつながっていくのだが、会場で顔をほころばせる彼がそれを知るはずもない。

 授賞式場では、ピクサーの創業者キャットムルも感慨にふけっていた。学生時代、研究室で出会ったCGは誕生したばかりの赤ん坊だった。彼と共に研究室を飛び出たCGは、二十年近い旅路を経て芸術表現の一員と認められた。

 周囲の反対を押し切ってジョブズの買収を受け入れた、あのときの直感は間違ってなかった。紆余曲折はあったが、結局ジョブズはモノづくりが大好きで、彼の夢を助けてくれたのだ。

 レッドカーペットに立った監督のラセターは壇上から降りる直前、オスカー像を掲げ叫んだ[2]。

「スティーブ・ジョブズ!スティーブ・ジョブズ!ありがとう」

 ほどなくしてチームは、サンフランシスコの波止場にあるジョブズとっておきのレストランに集っていた。最高級のベジタリアン料理を出すザ・グリーンズだ。

「とにかく最高のものを創れ…そう言ってくれましたよね」

 ラセターの言葉に、真っ白なテーブルシートの向かいでジョブズは頷いた。

「はい、どうぞ」

 オスカー像をジョブズの手前に置くと、彼の顔はそのトロフィーよりも輝いた。ジョブズの隣には、後に最愛の妻となるロリーンが座っていた。

 ふたりは付き合い始めて何ヶ月も経ってない。こんな幸福そうなジョブズをラセターは初めて見た。まるで、人生の全てがシャンパンの泡で出来ているような…[2]。

 だがこの年、良いニュースはこれが最後となる。

 ジョブズの運営する会社は倒産の危機に向かっていた。ネクスト社が社運をかけて出したワークステーション、ネクスト・キューブは年間目標一万五千台に対し、実売はたったの三六〇台の惨劇に。ピクサー社も翌年、ジョブズ肝いりのハードウェア部門を閉鎖、大リストラの運命が待っているのだった。

 レストランに笑い声がさざめき、夜窓にはゴールデンゲート・ブリッジの灯が瞬いていた。(続く)

■本稿は「音楽が未来を連れてくる」(DU BOOKS刊)の続編原稿をYahoo!ニュース 個人用に編集した記事となります。

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[1] Forbes, by Carmine Gallo " Steve Jobs' Four Magic Words That Built Pixar" Jun 20, 2012

https://www.forbes.com/sites/carminegallo/2012/06/20/steve-jobs-to-pixar-chief-just-make-it-great/#34d2c4c0252e

[2] Oscar on YouTube Official Channel, John Lasseter on winning an Oscar for "Tin Toy" Mar 21, 2008

https://www.youtube.com/watch?v=lph0JuWv_ko

作家/音楽産業を専門とするコンサルタント

寄稿先はNewsPicks、Wired、文藝春秋、新潮、プレジデント。取材協力は朝日新聞、ブルームバーグ、ダイヤモンド。ゲスト出演はNHK、テレビ朝日、日本テレビ等。1974年東京都生まれ。2017年まで京都精華大学非常勤講師。上智大学英文科中退。在学中から制作活動を続け2000年、音楽TV局のライブ配信部門に所属するディレクターに。草創期からストリーミングの専門家となる。2003年、チケット会社ぴあに移籍後独立。音楽配信・音楽ハード等の専門コンサルタントに。著書「音楽が未来を連れてくる」「THE NEXT BIG THING スティーブ・ジョブズと日本の環太平洋創作戦記」(DU BOOKS)

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