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ジョブズがiPhone開発を決断した瞬間〜iPhone誕生物語(6)

榎本幹朗作家/音楽産業を専門とするコンサルタント
ジョブズははじめ、携帯電話事業への参入に懐疑的だった(写真:ロイター/アフロ)

■iTunesフォンの失敗

2004年。Android社が誕生して1年が経っていた。一方、Appleではジョブズと側近たちの間で、携帯電話事業に参入すべきか否か、意見が真っ二つに割れたままだった。

通信キャリアのいいなりで携帯電話を創ってもなんの革新も生まれない。Appleらしい作品はできない。

そう言ってジョブズが参入を嫌がる一方で、彼の部下たちは携帯電話を諦めていなかった。その年間売上台数はもはやパソコンの7倍に到達。時代の中軸が移りつつあるのは間違いなかったからだ。

特に携帯電話にこだわったのが、iPodの開発を仕切ったトニー・ファデルだ。一匹狼の専門コンサルタントだった彼も、今や35歳でAppleの上級副社長になっていた。

当時、ファデルの部下筋だった松井博は日本人ということで、この若き「iPodの父」からある頼み事を受けたという(※6)。

それは東京で売れている携帯電話を片っ端から、ファデルのもとへ送ることだった。日本のケータイをファデルは次々と分解して、議論を重ねていた。

「iPodはいずれ日本の携帯電話にやられるかもしれない」

それがAppleの結論だった。

2000年にJ-Phoneが写メールを始めると、カメラ付ケータイは世界的ブームになり、デジタルカメラの凋落が始まった。

音楽ケータイが登場すれば、iPodにも同じことが起こると、Appleの幹部たちは予測したのだ。

すでに日本では、着うたで音楽ケータイが成功をおさめつつあった。日本のiTunesミュージックストアは全く冴えず、売上は着うたの50分の1にも満たない状況だった(※1)。

もし日本のようなことが世界中で起こったらどうなる?

去年の時点でiPodの累計売上はたった200万台。Walkmanの累計販売台数は3億4000万台だった(※2)。

ソニー・エリクソンは音楽ケータイも作っている。それはいずれ、Walkmanケータイになるだろう。日本では着うたという名で、モバイル音楽配信もSonyが主導している。Sonyが本気で反撃してくれば、ひとたまりもないかもしれない。

だがスティーブは、iPodケータイはやりたくないと言っている...。

ファデルの取った次善策は、iPodケータイならぬiTunesケータイだった。携帯電話の契約数はアメリカだけで1億6000万台にも達していた(※7)。そのすべてのケータイにiTunesアプリを搭載するよう営業をかける。

「そうすればiPodの代わりに音楽ケータイを選ぶようになっても、iTunesだけは使ってくれると思った」

とファデルは語っている(※3)。すでにAmazonも音楽配信に参入し、音楽配信はAppleの専売特許でなくなろうとしていた。アジア各国でiTunes Music Storeは苦戦を強いられていた。

ファデルにとって幸運だったのは、ちょうどその頃、最高のパートナー候補がラブコールをAppleへ送ってきたことだ。

1973年に携帯電話を発明した老舗中の老舗、モトローラ社である。

同社のスタイリッシュなフリップ式携帯電話、Razr V3(レイザー・ブイスリー)は空前絶後の大ヒットになっていた。結局、iPhoneが登場するまでの3年間、Razrはアメリカで売上1位を独走し、累計1億4千万台も売っている。

渋るジョブズも、モトローラからiTunesフォンを出す案には同意した。

モトローラ社は喜んだ。これでRazrに続くヒット製品も、うちのものだと考えたのである。

翌2005年9月、Appleの特別ミュージック・イベントでジョブズはiTunesケータイを発表した。

「今日、紹介するのはiTunesフォンだ」

ジョブズの背後には、無骨な携帯電話、Rokr(ロッカー)の写真が映し出された。客席からはいつもの歓声が上がらず、静まり返っている。Razr V3とは打ってかわって、Rokrのデザインは冴えなかった。

「この正面のボタンを押すと、あっという間にiTunesが使えるんだ。いつでもどこでもね」

日本のiモード・ボタンとそっくりのiTunesボタンを押すとケータイの小さな液晶にiTunesもどきが立ち上がった。観客から反応が返ってこない。

その後、モトローラやシンギュラー(現AT&T)のCEOが登壇するが、会場は凪いだままだった。

ようやく盛り上がったのは、ジョブズがジーンズのコインポケットを指して、ジョークを飛ばした瞬間だった。

「このポケットがなんのためにあるか、やっとわかったよ」そう言って、そこからiPad nanoを出した瞬間、わっと会場は沸き、いつものよう拍手と歓声が鳴り続けたのだった。

イベント後、苦虫を噛み潰したモトローラのCEOに、記者の言葉が投げつけられた。

「ザンダーCEO、iPod nanoに持って行かれましたね」

モトローラのCEOは、

「nanoなんて知るか!」と吐き捨てるのが精一杯だった(※4)。

その月、Wired誌には「こんな電話が未来?」という見出しが躍ったが、無理もなかった。

携帯電話の10キーのせいで、iPodの優れたユーザー・インターフェイスは破損していた。楽曲も100曲しか入らなかった。自分の持ってる曲を全部ポケットに詰め込めるのが、iPodだったはずだ。さらに、携帯電話から曲をダウンロード購入することも出来なかった。

「前に進まなければイノヴェーションは生まれない」

というジョブズの言葉は正しかった(※5)。

顧客価値こそイノヴェーションの原動力だ。既得権益保護、そんな後ろ向きの姿勢で創ったiTunesケータイには、どこにもイノヴェーションが起きていなかった。

「モトローラみたいなアホ会社と付き合うのは二度とゴメンだからな」

イベント後の会議で、ジョブズはファデルたちにそう凄んだという。

アイザックソンの伝記ではこれがiPhone計画のきっかけとなっている。だが、その後出たフレッド・ボーゲルスタインの『アップルvs.グーグル』によると、それだけではなかったようだ。

「真の問題は、モトローラと契約したときには、もう業務提携の理由が消え失せていたことだ」

とファデルは弁解する。

2004年11月のU2スペシャル・エディション発売以降、iPodの人気は爆発した。

わずか200万台だった累計販売台数は、2004年に1000万台、2005年に4200万台、2006年に8800万台、そしてiPhoneの登場する2007年には1億4100万台にまで到達。

iPodは名実ともに「21世紀のWalkman」となったのだった(※6)。

もうiTunesケータイのような消極的な防御策は不要だった。ジョブズからiTunesケータイの興味が急速に失せていった。

しかし、iTunesケータイを見切った理由はそれだけでなかった。

癌の転移がみつかっていた。

つまらないことに時間を費やす暇はジョブズになかった。残りの命を燃やすに値するものを彼は探していた。そしてこの時すでに、それを見つけていた。

■iPhone計画の決断。次なる革命へ

「そこのロッキングチェアにずっと座ってたよ。歩く気力もなかった」

リビングにいたジョブズは、自宅で作家のアイザックソンにそう言った(※1)。押しのけても絡みつく倦怠感に、やがて来る死を意識せざるをえなかったろう。肝臓に三箇所、転移がみつかっていた。

膵臓の半分を摘出する手術は、ジョブズの体からエネルギーをほとんど奪い取ってしまった。

「結局、エネルギーが回復するまで6ヶ月くらいかかったよ」

世界的なiPodブームのきっかけとなったU2スペシャル・エディションの発表イベントで、ボノとジ・エッジが演奏し終えた後、ジョブズはさっそうと壇上へ駆け上がって会場を沸かせた(※7)。だがそれは術後3ヶ月であり、歩くのもきつい時期だったのだ。

終演後、親しい友人だった記者のスティーブン・レヴィは楽屋裏のジョブズに会いに行った。

イベントの空気に、iTunes革命の成功を感じ取ったジョブズの目は、心なしか潤んでいたという。

「私が見たのは、感傷に浸る彼の姿だった。その時の彼は、確かにこみ上げる感慨を噛み締めていた」

レヴィは自著にそう書き記している(※8)。レヴィはジョブズに近づき、ねぎらいの言葉をかけた。

それから開演前にかかっていたBGMについて尋ねた。前年没したジョニー・キャッシュが、ビートルズの「In My Life」を歌ったカヴァー曲で、強烈に揺さぶる響きがあった。

あのBGMは君の選曲なのかという問いに、ジョブズは「そうだ」と答え、選曲に込めた想いを話し始めた。

「あれはキャッシュが録った最後のレコーディングに入ってる曲なんだ」

キャッシュは妻の死から四ヶ月後、糖尿病の悪化で妻の後を追った。その死の狭間の四ヶ月間に録った曲だった。

あの曲には、やるべきことをやり通し、貫くべき信念を貫き、あるべき自分であり続けた男の姿があるんだ。その彼が、死に別れて間もない妻に向かって歌いかけている。こんなに豊かな音楽はめったにない...

「音楽はこんなにも人生に力を与えてくれる。僕にとって、そんな曲のひとつなんだ」

レヴィはじっと聞いていた。ジャーナリストのレヴィに、ジョブズは不治の病と戦っていることを打ち明けることはできなかった。Appleの幹部ですら、知っている者はわずかな時期だったのだ。伝記を書いたアイザックソンには、後にこう話している(※9)。

「癌と診断されたとき、神だかなにかと交渉したんだ。リードの高校卒業をこの眼で絶対見るってね」

息子の高校卒業は2009年。あと5年だった。

ボノたちとのイベントは、ジョブズの短い晩年で節目となった。次の革命へ、自らを駆り立てていったからだ。

歴史から俯瞰すれば、iTunesは流通革命に過ぎなかったかもしれない(※10)。だが、iTunesミュージックストアに続く「ネクスト・ビッグ・シング」は音楽産業にとって、エジソンのレコード発明に匹敵することになる。

ファデルがiPodケータイを諦めた後も、ジョブズにずっとそれを説得している幹部がいた。その一人がマイケル・ベルだ。ベルはAirportなど、Macのワイヤレス化を進めてきたワイヤレス業界の専門家だった。

「スティーブ、聞いて下さい。携帯電話は、史上最も重要な家電になりつつあります。だけど操作は複雑で、我々の基準から見たら、どの会社もまともなユーザー・インターフェースを作れないでいる。これはMacやiPodが出る前の状況とそっくりじゃありませんか?」

ベルはそう説得を続けていた(※11)。

携帯電話に関して、ジョブズの頑なさがほぐれるきっかけはいくつかあった。ひとつはiTunesケータイを巡るファデルとの議論だ。後にジョブズは取締役会で「徹底的にやられる可能性があるのは携帯電話だ」とiPhone計画の理由を語るが、それはファデルによる日本のリサーチに基づいていたろう。

いまひとつが、MVNOの登場だ。ジョブズは創業家を超えるディズニー社最大の個人株主であり、同社の取締役になっていた。ディズニーが株式交換で、ピクサーを買収したからだ。そのディズニーでMVNOを使った通信事業参入が検討されていた。ディズニー・モバイルだ。

ディズニーのようにじぶんたちが通信キャリアになってしまえば、自由に携帯電話を再発明できるのではないか。そう考えだしたのである。

「ジョブズ氏はiPhoneの発売直前まで、Apple自身を通信キャリアにしてしまおうと考えていた」

没後、とある通信キャリアの経営者がそう述べている(※12)。やるなら総力戦だ、とジョブズは思っていた。会社を賭けることになる。それこそじぶんの余命に相応しかった。

ジョブズの背中を最後に押したのは、部下ベルの次の口説き文句だった(※13)。

「絶対やるべき理由があります。アイブのデザインです。未来のiPodのために作った、空前絶後にクールなあのデザインからひとつ選びましょう。それにAppleのソフトウェアを載せるのです」

2004年の11月7日だった。

運命のメールを送信した日を、ベルは明瞭に覚えている。iPodの世界的ブームを確実にした、U2スペシャル・エディション発表の11日後だった。

送信ボタンをクリックした1時間後、ジョブズから電話がかかってきた。会話は2時間に及んだ。そして最後にジョブズは言った。

「OK。やるべきだと確信した」

(続く)

本稿は「未来は音楽が連れてくる Part 2 スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの (OtoBon)」の続編(夏 発売予定)をYahoo!ニュース 個人用に書き直した記事となります。

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※1 なぜiTunesは救世主とならなかったのか https://news.yahoo.co.jp/byline/enomotomikiro/20171128-00078669/

※2 Source: CTIA-The Wireless Association.

※3 Vogelstein, "Dogfight", pp.26

※4 Idem.

※5 Isaacson "Steve Jobs", pp.570

※6 https://www.apple.com/pr/products/ipodhistory/

※7 榎本幹朗『未来は音楽が連れてくる Part2』第六章

※8 Steven Levy "The Perfect Thing" (2006) Simon&Schuster NY ,Chapter Download pp.175

※9 Isaacson "Steve Jobs", pp.538

※10 榎本幹朗『未来は音楽が連れてくる Part2』第七章

※11 記述から会話を再現。Vogelstein, "Dogfight", pp.29

※12 後藤直義、森川潤著『アップル帝国の正体』(2013年)文藝春秋、pp.128

※13 Vogelstein, "Dogfight", pp.29

作家/音楽産業を専門とするコンサルタント

寄稿先はNewsPicks、Wired、文藝春秋、新潮、プレジデント。取材協力は朝日新聞、ブルームバーグ、ダイヤモンド。ゲスト出演はNHK、テレビ朝日、日本テレビ等。1974年東京都生まれ。2017年まで京都精華大学非常勤講師。上智大学英文科中退。在学中から制作活動を続け2000年、音楽TV局のライブ配信部門に所属するディレクターに。草創期からストリーミングの専門家となる。2003年、チケット会社ぴあに移籍後独立。音楽配信・音楽ハード等の専門コンサルタントに。著書「音楽が未来を連れてくる」「THE NEXT BIG THING スティーブ・ジョブズと日本の環太平洋創作戦記」(DU BOOKS)

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