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まちづくりは「クソダセェからやりたくない」とのこと

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(写真:アフロ)

 各地でまちづくり活動が盛んに行われている。筆者もまた、文句しか言わない「ある地域」を除き、いくつかの活動にかかわっている。

 筆者は地方大学で教鞭をとっており、学生と一緒に様々な活動をしているのだが、数年前にふと気づいたことがある。それは、学生らにまちづくりの活動をもちかけると、微妙に嫌そうな反応をすることだ。ほかの活動には積極的な姿勢をみせるのに、である。

 つっこんで聞いてみた。怒らないからなんでも言ってみろと。なお、こういう場合に正直にいうと怒る大人がほとんどなので、学生諸君は気をつけてほしい。大人は汚いのだ。

 そういうわけだから、筆者は怒らないし内緒にもすると確約した上で、本音を聞いた。答えは「クソダセェから」とのことだ。

大人の自己満なまちづくり

 学生らの言い分は、ごもっともである。何人かの学生の意見を、以下の通りまとめてみる。

 まちづくりと称して行われている活動のほとんどは、大人たちの自己満足で行われていて、自分たちは蚊帳の外におかれている。しかも、やっている活動は何の目的で行っているのかもわからないし、ほんとうに地域のためになるのかと疑問のものが少なくない。

 なかには面白そうな活動もあるが、そういうものは大抵、大人たちが自分のコントロール下においていて、案を出しても通してはくれない。それなのに大人たちは、学生らしい案を出せとか、もっとインパクトのあるものを考えろと無茶ぶりしてくる。そんなことを言うなら、自分がやってみろと。

 納得のいくものが出たからか、期限が近づいてきたからかは分からないが、まれに案が通ることもある。しかし、何か月経っても、プロジェクトは一向に進まない。「検討中」と言われるか、何らかの理由をつけて進められないことを正当化しようとする。できない理由はいくらでも挙げられるし、逆にやろうと思えばできることも多々あるはずなのに。

 「学生のため」という言葉もおしつけがましい。じゃああなたは、私の何を知っているというのか。私が将来何をしたくて、どういう人間になりたいのかを理解しようとしたことはあったか。結局のところ大人たちは、タダで自分たちのことを利用しようとしているだけなのだ。もしくは、失敗したときに学生の責任にしようとしているのだろう。

 だいたい、大人がやっている活動は、センスがないのだ。まずネーミングが悪いし、内容も興味をひかない。おっさん感覚で企画をつくっているものに、自分たちは関わりたくない。東京オリンピックのボランティアのユニフォームや、かぶる日傘なんかの例を見ていても、他人事とは思えない。「そういうのはいいや」と思ってしまう。

 そういうわけで、大人たちのまちづくりには、メリットを感じない。地元に就職したい人たちが参加していればよいと思う。短い学生生活、はっきりいってまちづくり活動に時間を割いている暇はないし、自分たちでもっと面白いこと、成長につながることを探したほうがよい、というのである。

 以上、大人たちはこれらを聞いて、怒り心頭に発しただろうか。もしそうなった大人は「学生のため」などと口が裂けても言ってはならない。本音を聞く姿勢がなければ、学生たちを巻き込んで企画を行うことなどできないのだ。

若い人が住みたいまち

 まとめると、大人たちの動かない姿勢と、活動内容の二点について、学生たちは「クソダセェ」と思っているのである。

 学生らの意見を聞きながら、筆者も反省するようにしている。よって、学生らに提案する活動は、学生が心から面白いとか、成長できると思うものに限定し、無理強いはしない。

 また、心理学者のエドワード・デシがいうように、何らかの報酬を与える外発的動機づけでは、それがなくなったときには活動自体をやめてしまうことになる。よって、参加すれば単位を与えるとか、講義で加点するなどといった手段はとらない。正当なアルバイト代くらいは与えたほうがよいが、それ以上はむしろやる気をそいでしまうことに注意したい。

 では、学生たちはどういう活動がしたいのか。彼らは、自分の力で何かを立ち上げたり、自分が好きなものを人に認めてもらえたり、新たなビジネスを興したりといった活動がしたいのだ。ダサイ大人たちに横やりを入れられるのは、耐えがたい。よく考えた上でのアドバイスは歓迎するが、思いつきで活動をひっかきまわされたくはないのだ。

 これらを踏まえて提案すると、学生たちは結構くいついてくる。筆者の学生たちは、本音かどうかはさておき、楽しいといって勝手に頑張っている。これとか、これなんかが良い例だ。なお、就活のアピールになる的なことをいうと、失敗を恐れて動きが悪くなる傾向がある。ハーバード大学のエイミー・エドモンドソンがいうように、意見や活動を促すには、失敗しても大丈夫だという心理的安全性が必要なのだ。

 アドバイスは、しっかりと勉強した上で、的確に行う。答えを教えるのではなく、考え方を示し、自分で結論を導き出せるよう、具体的に促すのだ。ミシガン大学のクリストファー・ピーターソンがいうように、目標を設定する際には、それを達成するためのプランも同時に示されなければならない。それを一緒に考えることは、学生らも悪い気はしないものだ。

 最後に、まちづくり活動などと言わない。昨今の学生たちは、大人たちが自分に恩恵を与えないばかりか、いいように利用しようとすると思っている。助け合いという言葉を使いながら、実際には助けてもらうばかりの大人に、嫌気がさしているのだ。まちづくりという言葉には、もはやそういう臭いがプンプンしているのである。

 学生たちのつくるものは、たしかに影響力の小さなものかもしれない。それでも学生は、一歩を踏み出した。自分がつくったものであれば、人は愛着もわくというものだ。かくして学生たちは、自分の力がまちのために貢献できることを知り、日々の活動を通して成長していく。本当の意味で地域を担う人材へと、おのずと変わっていくのである。

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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