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もはや英語は学ぶ必要がないのか 「グローバル人材」について考える

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

 10月27日、livedoorニュースに「「ほんやくコンニャク」は不要?翻訳機とスマホで外国人と会話できる時代へ」と題する記事が掲載された。

 ソースネクストが発表した翻訳デバイス「ポケトーク」やグーグル翻訳など、利用してみればわかると思うが、日常会話レベルの翻訳に関しては、ほとんどこれで事足りるレベルにまで進化している。このままいけば、専門性のある本や論文もまた、自動で翻訳される時代が来ることだろう。英語のできない筆者としては、願ったりかなったりである。

 もはや学校で英語を学ぶ必要はないのか。このことについて、大学でグローバル化推進委員会に入っている筆者は、かねて考えを巡らせてきた。結論からいえば、いまの形の英語学習は、必要なくなっていく。しかし、それでもなお「英語を学ぶ」ことは、これからも意義を持ち続けるのだと思われる。二つの観点から、そのように言えるだろう。いずれも、言語は文化そのものであり、言語文化は人間の思想に大きくかかわってくることに起因する。

 一つは、将来学問を行う上で、必要である。英語は単純な言語であって、一つの単語には様々な意味が含まれる。例えば Right という言葉には、正直、正統、右、右翼、まっすぐであることなどの意味が含まれる。それから、社会規範上の意味においては、複数形では「権利」を意味するが、単数形では「法」を意味することもある。哲学においては、単に正しいこととは異なる「正」が訳語として充てられたりもする。その単語が使われるときの文脈によって、まったく異なる意味を持つようになるのである。すなわち、例えば倫理学や文明論といった学問を学ぶために、英語学習は必要である。いまなおラテン語学習が必要なように。

 もう一つは、グローバル人材とは何であろうかという観点からみたときに、必要性が明らかになる。グローバル人材とは、単に英語をうまく扱える人のことをいうのではない。そうではなく、異なる文化の人たちとともに活動できる人のことを、グローバル人材というのである。この場合、「英語を学ぶ」というよりは「英語を用いて学ぶ」という意味において、英語学習が必要になるといえよう。英語を使う人たちと一緒に、英語を用いて活動することには、教育上の意味があるように思われる。

 学習とは何であろうか。よき人間を育成することをモットーにする、わが皇學館大学の取り組みについて紹介しながら、考えを進めていきたい。

マレーシア海外インターンシップ

 皇學館大学の学生は、立地の事情によって、あまり異文化の人たちと触れ合う機会がない。そうであれば、他の国の人たちと出会ったときに、生来の日本人の性格があらわれてしまい、うまくコミュニケーションをとることができなくなるだろう。

 これを解決するには、実際に海外に出て、異文化の方々と触れ合うしかない。しかも、一つの目的のうちに一緒に活動することで、英語を扱うということがどういうことなのかを経験的に理解することができれば、さらによい。アクティブラーニングの真の意味は、学生らが自ら学びに参画し、困難に直面しながら、自分たちの手で課題を解決する力を得られるところにある。知識を習得することではなく、実際に前に進む姿勢や意欲を育成するところに、その本来の意味があるといえる。

 そのような学びの機会として、筆者が本学に赴任して二年目の昨年から、クローバー電子の協力のもと、マレーシアでの海外インターンシッププログラムを行うことにした。同社はレジスターや電卓のOEM、ODMなどを行う会社であり、多くの一流企業の製品の製造を受託するほどの品質を誇る会社である。そのマレーシア法人に出向き、実際に現場に出て働くのだ。頑張るしかない。

 実は、本日は大学の文化祭が開催されており、午後は体験報告会が行われた。発表したのは、以下の学生である。

3年 川島 彬良

3年 田中 勝陽

3年 鈴木 遼

3年 小林 昂平

3年 森 峻佑

3年 宮前 雄介

3年 山本 涼太

3年 近藤 孝昭

1年 高山 典聖

 彼らはいずれも、英語が得意ではない。しかし、彼らが口をそろえて言っていたのは、今回のインターンシップに参加した目的は、英語を学ぶことではなく、英語を使うということにあった、ということである。すなわち、使ったことのない英語を用いて、行ったことのないマレーシアに行き、やったことのない作業を進めるという体験がしたかった、というのが、彼らが研修に参加した理由である。その目的は、成長することにあった。困難を乗り越えて、人として成長したいと思ったからこそ、研修に参加したのである。

 現場では、英語のほかにマレー語が用いられる。英語は何となくならわかるだろう。しかし、マレー語はそうはいかない。学生は試行錯誤によって、どうにか会話を行う必要がある。それからマレーシアには、マレー系、中国系、インド系と、おもに3系統の人種がいて、そのため文化がひしめき合っている。ある文化では常識であることが、別の文化ではそうではない。そういったこともまた、働きながら肌で感じることができたことだろう。最後にマレーシアは、アジアの中で急速に成長を遂げている国の一つである。そのような、経済成長における勢い、ダイナミズムというものもまた、学びとることができたように思う。

 発表は、生き生きしていた。学生だからうまくはない。それでも、生き生きしていたのである。学生らはそれぞれの思いを口に出し、本音で語っていた。自分は成長し、変わることができたと。それでいいと思う。優秀かどうかではなく、努力することで成長できたかどうかが重要なのだから。

英語は手段だ

 「「日本経済、一寸先は闇」なのは当たり前だ 考え方から変えていこう」の中で述べたが、今後AIやロボット、IoTといったものが台頭するなか、未来の見通しは立たなくなっている。しかし、いかなる社会が到来しても、それに対応するための姿勢、マインドがあれば、人間は変わることができる。求められる能力を得続け、成長することをやめさえしなければ、人間はいつまでも生き続けることができるのである。

 英語は、学ぶ必要があるのだ。なぜなら、これからグローバル化が進み、われわれは来るべき社会の中で生活する必要があるからだ。英語はコミュニケーションの手段に過ぎない。いかなる手段も、それを用いる際には目的が存在する。その目的が生きることであるならば、若干でも英語を用いて働いた経験があれば、これからも前を向いて、グローバル社会において働くことができるのだろう。ゆえにこれは、技術の問題というよりは、心の問題である。心の育成のために、英語学習が用いられる。

 趣味レベルでよければ、英語を学ぶとか英語を使うといったことは、自己目的になってもよいかもしれない。しかし、われわれがグローバル社会において生を営むにおいては、英語という言語と、それが用いられるところの背景について、理解しておかなければならない。人は、得体のしれないものに不安を覚える。不安が、人間の行動を抑制する。得体のしれないものを理解可能なものとすることで、人間は主体的に行動することができるようになるのである。

 すべての教育は、人間の成長のためにある。知識や技能は、人間の成長のための手段である。自らの未来のために、努力によってそれらの技能を身に着けようとすることは、人間の成長にとって意味がある。その成長は、来るべき社会における成長であり、これからも「よく生きる」ための成長である。

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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