北朝鮮テレビから削除された劉雲山――習主席の親書を切り裂いたに等しい

1月9日、北朝鮮の国営テレビの画像から、それまでいた中国党内序列ナンバー5の劉雲山の姿が削除されていたことが分かった。「中国はどう反応するのか?」ということが注目されている。中国から見たこの意味を分析する。

◆習近平の親書を切り裂いたに等しい

1月7日付の本コラム「北朝鮮核実験と中国のジレンマ――中国は事前に予感していた」で、2015年10月10日、中国共産党中央委員会(中共中央)政治局常務委員会委員(チャイナ・セブン)の党内序列ナンバー 5の劉雲山が北朝鮮を訪問したと書いた。このとき劉雲山は実は習近平国家主席の親書を携えていて、そこには核実験をしないようにという趣旨のことが書いてあったと、中国政府関係者から聞いている。

謁見台でハグし、手を握って万歳の形に両手を高く掲げて喜びを表眼した金正恩(キム・ジョンウン)第一書記は、あの世界中が見ている画像の中から、スパッと劉雲山の姿を削除して、あたかも劉雲山はそこに存在していなかったような画像を、1月9日の北朝鮮国営テレビで報道させていたことが分かった。

これは習近平国家主席が劉雲山に託した親書を切り裂いたに等しい。

中国の怒りは、普通ではない。

現時点では、中国はこの情報をいっさい報道しないという手段を選んでいるだけでなく、いつもは気軽に取材を受けてくれる中国政府関係者は、初めて「ノーコメント」と回答した。「私はそんな事実を知らない」というのだ。

それくらい、中国にとっては「あってはならないこと」が発生したということができる。

ここまでコケにされてもなお、中国は「唇なくば、歯寒し」と言っていられるだろうか?

(唇:北朝鮮、歯:中国)

◆中国ネット空間における民意

中国政府系の香港メディアである鳳凰ウェブサイトは、昨年末の日韓外相会談以降、いくつかの質問をネットユーザーに投げかけ集計を取っている。新たな事象、たとえば北朝鮮の核実験などが発生すると、それに沿って新たな質問項目が増えている。

その中に「北朝鮮はすでに中朝関係なんてどうでもいいと思っているのではないのか?」という質問がある。

それに対して現時点における回答は96.22%が「北朝鮮は中朝関係などどうでもいいと思っている」と回答している。

またネットユーザーのコメントとして、たとえば、

・河北省のユーザー(2016-01-11):北朝鮮という、こういうゴミ国家は(中国は)サッサと捨てるべきだ。

・黒竜江省のネットユーザー(2016-01-11):正常な道を歩もうよ。中国政府が北朝鮮の(経済)支援などをするから、北は世界中の制裁があったとしても、何も怖くないのだ。だから中国は、どんなことがあっても北朝鮮に乳を与え食糧を送ることを徹底的にやめなければならない。そうやってこそ初めて、あの「金デブ」(金正恩のこと)に妄想的な野心を抱くことをやめさせることができる。

・広西チワン族自治区のユーザー(2016-01-11):中朝関係がここまで来てしまった主な責任は中国にある。

・甘粛省ユーザー(2016-01-11):その通りだ!中国がアメリカの挑発を受けて、自ら創りだしたものさ。中朝関係が良い方が、中国には有利なのさ。

などがある。

◆民意を気にしている中国政府

中国のネットユーザーは、よく現実を分かっている。

その通りだ。

「唇なくば、歯寒し」ということのために、中国(歯)は唇である北朝鮮を温存させてきた。

しかし、そろそろ限界だろう。中国が今後、もう一度、北朝鮮との友好関係を再構築しようという試みはしないだろうと思われる。

習近平国家主席が北朝鮮訪問より先に韓国を訪問したのは、中国建国以来、初めてのことである。それは金正恩に対する「お仕置き」であり、少しは反省させようと試みたためであると、中国政府関係者は言っていた。

少なくとも昨年9月3日に北京で挙行された軍事パレードに、金正恩の代わりに崔竜海(チェ・リョンヘ)・朝鮮労働党中央委員会書記が出席したため、劉雲山を北朝鮮に派遣した。その劉雲山を「消した」となれば、中国政府も民意に一定程度、配慮するしかなくなる。

中国は、普通選挙ではない一党支配体制を布いているだけに、反政府は政権転覆につながる。自民党がダメなら民主党をとか、共和党がダメなら民主党をといった党の選択はできない。その分だけ中国は実は民意が怖いのである。

民意はもう「いい加減にしろ」というところまで来ている。「なぜおれたちの税金で北朝鮮という国全体を養ってあげなければならないのだ?」という思いは、中国人民の多くに行きわたっている。

少なくとも、国連安保理等における制裁が具体化すれば、中国は拒否権を行使することなく制裁に賛同し、かつ実行するだろうと考えられる。

中国の、日米や韓国との関係に関しては、また別途論じることにしたい。