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変えれば、変わる ― 市民の後押しで進む気候政策

江守正多東京大学 未来ビジョン研究センター 教授
(写真:イメージマート)

建築物省エネ法可決にみる希望

改正建築物省エネ法が六月一三日に参議院で可決され、成立しました。二〇二五年度より、すべての新築の建築物に断熱などの省エネ基準への適合が義務付けられます。僕はこの法律に詳しいわけでも、成立に深く関わったわけでもありませんが、今回はこのことを手掛かりに書きます。というのも、この法律の成立の過程に、日本社会が気候危機に立ち向かう上での一つの希望が見えたように感じたからです。

気候変動問題について講演をしたりインタビューを受けたりすると、必ずと言っていいほど「では、私たち一人ひとりはどうしたらよいのでしょうか」という質問が来ます。このとき、質問者が素朴に期待している答えは次のようなものです。――私たち一人ひとりの意識改革が必要です。どんな小さなことでもよいので、今日から自分にできる範囲でCO2の排出を減らしてください。小まめに電気を消してください。エアコンの設定温度は控えめにしてください、なるべく車に乗らず歩いてください……。

しかし、もちろん僕はそんなふうには答えません。そのような心がけにまったく意味がないとは言いませんが、二〇五〇年までにCO2の排出量を実質ゼロにするのが目標なので、そのような取り組みでは明らかに歯が立ちません。また、人々の関心や価値観は多様なので、みんなが「意識改革」をしてくれるとは思えません。あなたの心がけの効果は、CO2のことなどまったく気にしないで生活している誰かによって簡単に打ち消されてしまいます。

僕の答えは「システムの変化を後押ししましょう」です。つまり、誰もが意識せずに生活してもCO2が出なくなる形に社会の仕組みが変化することを望み、その実現のためにあなたにできる働きかけをすることです。グレタさんも”We need a system change rather than individual change.”と言っています。そのせいもあってか、日本でも気候変動問題に強い関心を持つ人たちの間では、「システムの変化を起こす」という考え方が、かなり浸透してきた印象があります。

アクションがシステムを動かした

しかし、ここからがまた問題です。システム変化の必要性を理解して活動する人たちは、日本では極めて少数派です。Fridays For Future Japanなどの声を上げる若者は「意識が高い」と言われて敬遠されがちですし、彼らがネットで紹介されると「じゃああなたは電気も使わないし車も乗らないんでしょうね」みたいな頓珍漢なマウントを取りにくる人が湧きます。

環境NGOも日本社会ではほとんどまともに認知されておらず、その存在を知った人の多くにも「自分とは関係ない極端な意見の人たち」「何にでも反対しているうるさい人たち」くらいにしか思われていないようにみえます。

僕の想像では、人は他人が立派な発言をしているのを聞くと、自分がその人より劣っていると言われているように感じ、またはその問題に無関心でいる自分が批判されているように感じ、ついつい反発したくなる心理が働くのではないかと思います(僕自身もたまにそういう気持ちになります)。そして昨今は、そんな感情がSNS等に大量に吐き出されて可視化されていきます。

そのような中で、システムの変化を求めて声を上げ続ける若者やNGOの人たちは、ほとんど報われることがないまま、世間の無理解なバッシングに傷つきながらも、それでも声を上げ続けているのかもしれません。これではまるで苦行です。

そこに一筋の光が差したように見えたのが、冒頭で触れた「建築物省エネ法」でした。今年一月に国会が始まる時点で、この法案は国会提出法案のリストに入っておらず、「検討中」とされていました。報道によれば、参院選を控えたタイトな審議日程が見えていることから、提出法案の数を絞ったことなどが理由とされます。日本社会の脱炭素化のために一日でも早く通すべきこの法案が後回しにされたという事実から、政府・与党における気候変動問題の優先度がいかほどかが窺い知れます。

それでは困るということで、竹内昌義教授(東北芸術工科大学)をはじめとする省エネ建築の専門家などが声を上げ、オンライン署名が始まりました。気候変動問題に強い関心がある市民のグループがこれに共鳴し、署名を盛り上げ、地元の議員にメッセージを送るなどのアクションを多数行なったそうです。署名は一万五〇〇〇筆が集まりました。住宅関連の業界団体からも、法案の早期提出を求める声が上がりました。

私事ですが、僕自身も一市民として署名に参加し、署名の拡散のために少額ですが寄付をしました。それから三月には、たかまつななさんのYouTubeチャンネルで政治家や専門家が集まり脱炭素の議論をした際、「建築物省エネ法を審議してください。また、審議すべきだという声が選挙に影響すると思われれば審議することになるのだから、市民一人ひとりが声を上げましょう」という趣旨の発言をしました。

そして法案は四月二二日に閣議決定され、五月一二日に国会に提出されました。当初は、「検討中」の法案が今国会中に審議に回ることはまずあり得ない、それが起きたらミラクルだと言われていたそうです。そのミラクルが起きました。アクションを起こしていた人たちの歓喜の声が一斉に聞こえてくるようでした。

僕はこのことは、社会システムの脱炭素化を求めて声を上げる一人ひとりの市民にとって、重要な成功体験になったと思います。もちろん、市民(僕を含め)の声がどれくらい本質的に貢献したかはわかりません。実際に効果的だったのは、専門家と業界団体の声や、国会議員内部のダイナミクスだったかもしれません。しかし、そうだったとしても構わないと思います。重要なのは、そこに参加した市民の一人ひとりが、自分が参加したアクションがシステムを動かしたという実感を得ることができたことです。

今まで僕は、「一人ひとりにできることは、システムの変化を求めて声を上げることです」と答え続けていましたが、日本においてはそれで実際にシステムが変化する明確なイメージを持てていませんでした。ヨーロッパなどからは、百万人規模の市民が声を上げ、選挙において緑の党が躍進するといった事例が聞こえてきますが、日本の現状はそれとは程遠かったからです。

しかし、今回の成功体験を得たことで、「声を上げれば、変化は起きうる」という実感が僕自身の中にも湧きました。「声を上げても実際には何も変わらないかもしれないけど、それでも声を上げるべきだ」という考え方も大事だと思いますが、これだと苦行になってしまうかもしれないので、多くの人にお勧めするのには若干気が引けました。これからは「声を上げれば実際に変化が起きることがあり、それが起きたときの達成感は半端ないですよ」と自信をもって勧めることができます。

「常識」を変化させる大切さ

今回の法律で義務化される省エネ基準はまだまだ物足りないもので、これは第一歩に過ぎないと聞きます。しかし、今回のような法律ができることによって「常識の変化」が起きることが重要なのだと思います。つまり、これまでは家を建てる際に施工費を抑えるために断熱などをあまり気にしないことが常識だったのでしょう。これからは高断熱・高気密の家を建てることが新しい常識として急速にそれに取って代わることが期待されます。そもそもそのほうが、施工費の上乗せは冷暖房費の削減によって回収できるし、その上に健康にも良く、快適なのですから。

日本人の大多数が、今回の法律ができたことを認識していないでしょう。しかし、その人たちも、将来に家を建てる機会があれば、当たり前のように省エネ住宅を建てることになります。そのことによって、日本社会が脱炭素に向けて一歩前進すると同時に、家を建てた本人が得をするのです。これが「常識が変わる」ということだと思います。

似たような事例で僕がいつも引き合いに出すのは、二〇〇三年に施行された「健康増進法」により、受動喫煙の防止が施設管理者の努力義務になったことです(現在は改正されて、義務になっています)。それまでは、どこでもタバコを吸ってよいことが常識でしたが、この法律を境にタバコは決まった場所でしか吸ってはいけないことが新しい常識になりました。この法律をまったく認識していなかった大多数の人々や、当初は反発していた人も、いつの間にか新しい常識に従うようになりました。そして、この法律ができた背景には、嫌煙権訴訟を闘うなどの形で声を上げた市民の存在があったのだと思います。

次に注目されるものの一つに、東京都の新築建築物への太陽光パネル設置の原則義務化(一定規模以上の事業者に八五%以上の設置を義務化)条例案があります。本稿執筆時点でパブリックコメントが募集されており、今年度中の改正を目指すとされています。反対意見も多く聞かれますので、制度設計に丁寧に反映することが重要でしょう。しかし、ひとたびこの条例が施行されれば、ここでも常識の変化が起こるものと期待されます。

関心を持った市民が社会を見渡せば、このような常識の変化の芽に気づくことができますし、すでに行動している仲間と出会うこともできます。新しい常識の芽を育てることに参加し、成功体験を積み重ねることによって、実感を伴ってシステムの変化を後押しする市民が日本でもどんどん増えていくことを期待しています。

(初出:岩波『世界』2022年8月号「気候再生のために」)

転載にあたっての追記:この原稿を書いた少し後に、驚くほどぴったりと、ここで書いたことの見本のような方が紹介されている記事を見つけて、うれしくなりました!

東京大学 未来ビジョン研究センター 教授

1970年神奈川県生まれ。1997年に東京大学大学院 総合文化研究科 博士課程にて博士号(学術)を取得後、国立環境研究所に勤務。同研究所 気候変動リスク評価研究室長、地球システム領域 副領域長等を経て、2022年より現職。東京大学大学院 総合文化研究科で学生指導も行う。専門は気候科学。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)第5次および第6次評価報告書 主執筆者。著書に「異常気象と人類の選択」「地球温暖化の予測は『正しい』か?」、共著書に「地球温暖化はどれくらい『怖い』か?」、監修に「最近、地球が暑くてクマってます。」等。記事やコメントは個人の見解であり、所属組織を代表するものではありません。

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