Yahoo!ニュース

オウム事件、被害者たちの24年~犯罪被害者の権利を求めて

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授
集いで行われた対談(右から假谷実さん、高橋シズヱさん、伊藤芳朗弁護士)

 目黒公証役場事務長拉致事件と地下鉄サリン事件が起きて24年。オウム事件を契機に、犯罪被害者がおかれる状況は大きく変わった。それを先導してきたのは、被害者自身だった。両事件の遺族である假谷実さんと高橋シズヱさんが、16日に開かれた「地下鉄サリン事件から24年の集い」で、この24年を振り返る対談を行った。題して「被害者の権利獲得から死刑まで」。コーディネーターは、オウム真理教被害対策弁護団の一員で、假谷さんの代理人の伊藤芳朗弁護士が務めた。

事件直後は「想定外」「心が固まった」

目黒公証役場事務長拉致事件の被害者假谷清志さんの長男実さん
目黒公証役場事務長拉致事件の被害者假谷清志さんの長男実さん

――一言で「被害者」といっても一様ではない。自分が被害に遭った方もいれば、御遺族もいる。御遺族でも、事件の予兆があるなしなど、それぞれ違いがある。

假谷  父の妹がオウムに入信して、出家を求められた時に、道場から逃げ出し、我が家に逃げ込んだ。「オウムから逃げたい」」と言うので、オウムとどう立ち向かうか準備を進めていたところでの事件だった。

高橋  私は、(助役だった)主人は霞ヶ関駅で働いていて、3月20日の朝、突然、主人が病院に搬送された、と言われた。まさか鉄道マンがそういう事件に巻き込まれるとは考えていなかったのでびっくりした。

壊された平和な暮らし

――被害に遭われた直後、どういうことを感じられていたか。

假谷  相手はオウムだということは覚悟していた。ただ、大人を、まだ明るい時に、ワゴン車に押し込む、というのは想定外。まさかそんなことをするとは思わなかった。驚きだった。

高橋  突然だったので心の準備もなく、心が固まってしまった。家族も同じ屋根の下に暮らしながら、事件のことを話せない。子どもたちもお父さんのことを語れない。メディア攻勢がすごくて、ドアをあけると取材者がどわーっといる状態。一人取材が終わると次、という感じで、朝早くから夜遅くまで、質問されるがままに、事件のこと、主人のことを話した。強制的に話させられた感じだったが、語ることで、実際に事件はあった、と自分なりに納得するところがあった。

 けれど、子どもたちはそういうことが全くなかった。私とも、事件のことは話さない。その話をしたら泣くしかないから。子どもたちの方が気を遣ってくれたんじゃないかと思うくらい。その点、子どもたちに申し訳なかった。本当に、事件でうちの中をめちゃくちゃにされた。

假谷  うちの子は1歳半と3歳半。あとお腹に1人いた状態で、子どもには事件のことは話していない。でも3歳半の長男は、「おじいちゃん、帰ってこないね」というので「遠いところに出掛けているんだよ」と言った。子どもには、大きくなるまで面と向かって話したことはなかったが、テレビでバンバンやっていて、おじいちゃんの写真も出ているので、だんだん感じていったのかな、と。

――仲の良いご家族だったようだが。

假谷  私は1歳の時小児マヒになり、右足が3級の障害者です。今では考えられないですが、小学校に入る時に地元の小学校が入れてくれない。両親は、自分たちが先に死ぬからひとり立ちさせなきゃというので、かけずり回って普通の小学校に入れてくれた。それには感謝している。

 大学入る頃から、競馬とか麻雀とか共通する趣味があった。私は帰るのが夜遅くなるが、父は残業なしで定刻に帰って孫と遊ぶ生活をしていた。

高橋  旅行が好きだったし、車も好きだったので、事件直前は旅行に行く計画を立てている最中だった。子供達がお金出し合って、「これで行ってきて」と言ってくれて、家族で旅行の計画を楽しんでいた。この旅行が実現せずに残念だった。

マスコミの関わり

――マスコミとの関係はいかがだったか。

假谷  事件が起きてすぐに父は殺されていたが、当時は、我々は誘拐事件ということで、生きていると思い、待ち続けていた。警察も機械を設定して24時間いた。当時は外向けに発信する情報は警察と打ち合わせ、極力少ない情報しか発信していなかった。次は誰が狙われるのか、という緊張の中で毎日を過ごしていた。

 強制捜査が始まってからは、幹部信者が次々に捕まるのでそういう緊張は落ち着いてきたが、父の安否はどうなのかが心配で、なんでこんな事件に巻き込まれるのか、という思いが強くなった。そうなると発信したくなる。半年近くなるとそういう気持ちになった。

――お父様の安否が伝えられたのは?

假谷  幹部が逮捕され、複数の証言があって、假谷清志さんは死んでますと、お盆前に警察から通告されました。

――マスコミではもっと早く死亡説が伝えられていた。

假谷  それより1か月くらい前、我が家にピンポンされて、母が出たら「假谷さん亡くなってます。お気持ちを」と言われた。すごいショックを受けていた。

――マスコミを巡る問題はほかにもあった。

假谷  事件直後、家の周りにみなさんが来ていて、買い物にも出られない。どうしたら帰っていただけるかというので、警察に許可を得て、ドアをあけて、代表の方の質問に少しお答えした。そうすると帰っていただけた。

高橋  最初はすごい取材がたくさんあって、何回も同じことを話すのにくたびれて、「もう嫌だ」と弁護士に泣きついたことがある。でも、説得された。私たちの弁護団は、坂本事件からずっとやっていた弁護士さんたち。地下鉄サリン事件起きる直前は、坂本事件についてはメディアが扱ってくれず、苦労していた。メディアに扱われることの大事さを聞かされていなければ、「いやだ」と言ってドアをしめて終わっていたと思う。

犯罪被害者の状況を変える

――オウム事件の被害者の活動が、被害者の置かれた状況をずいぶんと変えた。

假谷  全国犯罪被害者の会(あすの会)に、2000年の設立当初から参加した。当時、被害者には裁判がいつ行われるかの情報もないし、傍聴席も用意されない。被害者の権利の確立を訴えようと活動した。犯罪被害者給付金も非常に少ない額だったので、せめて自賠責保険くらいまではいかないと、と訴えた。

高橋  民事訴訟を起こした原告が40組からスタートした。被害に遭った人は6200人以上だったが、オウムが怖いということもあって、提訴したのは40組だった。その後、ずっと被害者の権利を訴え続け、2004年に犯罪被害者等基本法ができた。

 私がオウム事件の傍聴を始めた頃は、いつ裁判が行われるかも分からない。裁判に行っても被害者の傍聴席がない。遺影を持ってもいけない。証人として出ても、検事さんの質問に答えるだけで言いたいことは言えない。

 それが基本法ができ、被害者参加制度ができたのは大きい。でも、基本法にはテロ事件の犯罪被害者救済は入ってなかったし、法律ができる前にできた事件には対応してもらえない。それで、私たちは運動のし直しです。また政府や政党に働きかけ、やっと救済法ができた。被害者の会の活動の成果だったと思う。

――刑事裁判には、被害者席もない、というところから始まり、平田信と高橋克也の時に、被害者の訴訟参加が認められた。参加してみてどう感じたか

假谷  被害者参加制度は、私も高橋さんも、自分は利用できないけど、次の被害者のために作っておかなければ、というのでやっていた。でも、平田信の裁判の時に、私も参加できると言われてうれしかった。検察官の横に座って、制限はあるけれど直接質問ができる。死刑囚が出て来た時、傍聴席は遮蔽されているが、我々は表情、身振りを間近で見ている。その時、裁判の当事者なんだなと感じることができた。

高橋  平田の時は特別傍聴を認めてもらえた。実際に高橋克也の裁判で被害者参加できて、質問もできた。最初に「同じ高橋ですね」と声をかけた。17年間も逃亡していて、自分の裁判だと言うのに、全然表情も変わらないし、感情が見えないので、なんとか気持ちを崩したいなと思って言ったんですが、態度は変わらなかった。

 「今までの人生で後悔していることありますか」と聞いたのは、事件のことを後悔していると言ってほしかったから。なのに、彼は子どもの頃のことを語っていた。捕まった時にオウムの本を持っていたし、まだまだオウムから気持ちが離れられないのかなと思った。これがマインドコントロールなんだろうな、と。そういうことを感じられて、被害者参加できてよかったと思った。

地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人で、殺害された地下鉄霞ヶ関駅助役・高橋一正さんの妻シズヱさん
地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人で、殺害された地下鉄霞ヶ関駅助役・高橋一正さんの妻シズヱさん

――真実追究でずっと苦労されてきた。

假谷  父は死体がない。遺体は電子レンジのようなもので一握りの灰にされて本栖湖に流された。どう考えても大人を拉致して帰すはずがないと思う。父の最後が知りたくて、中川や井上にも何回も面会に行った。本当に真実を知りたい一心で今までやってきた。

――真実を知るために民事訴訟も提起した。

假谷  刑事は傍聴するだけで言いたいことも言えない、聞きたいことも聞けない状態だったので民事訴訟を起こしたが、何年もかかって歯がゆい。今回のように被害者参加制度があれば、最終的な真実は出ないとしても、直接質問もできて、被害者としての納得感は高まったのかな、と思う

――95年の頃は、われわれ弁護士も被疑者被告人の人権は語っていたが、被害者の人権への対応が遅れていた。

高橋  弁護士さんたち司法にかかわっている人たちは「そういうもんだ」と思っていたと思う。でも、初めてそういう立場に立つ者は、「え?傍聴席がないの?」ということから始まって、「なんで?」と思うわけです。加害者のご家族は裁判所の廷吏に案内されて特別傍聴席に座る。私たちも事件の当事者なのになんで?と。そういう1つひとつの「え?」ということを、私は言っていきました。「そういうもんだよ」で思ったら、そこで終わり。

 被害者が証人に出る時も、検事さんとどういう質問をするか打ち合わせをする。その時に、遺族同士で話をすると、5人いれば5人とも同じ質問をされる。たとえば「体重はどれくらい減った」とか「収入はどうなったか」と。それが被害のバロメーターみたいな質問をされる。

 ところが、ある時から検事さんの対応が変わってきた。打ち合わせでは、まず「言いたいことはありますか?」という質問がされるようになった。私はこういうことを言いたいと伝えると、そこから質問を組み立ててくれるようになった。

 裁判員裁判の場合は、公判前整理手続の時から被告人の様子を教えてもらえるようになった。裁判が始まると、事細かに説明してくれたり、裁判が終わるたびに説明をしてくれたりする。これだけ長くかかった事件だからこそ、変化はよく分かる。

假谷  まさに検察官の対応が変わった。我々被害者が権利を勝ち得たからこそ、今の状況が実現したと思う。

高橋  犯罪被害者等基本法は、被害者の要望からできた。私たちがいろんなこと言っていって、それを1つひとつ検討してもらった。

假谷  被害者の声が届いた、と思う。

「前例のないことには対応しない」行政を変える

――これまでの苦労を

假谷   被害者にもいろいろな被害者がいる。もう関わりたくない、静かにしてくれ、という人が圧倒的に多い。そんな中で、現状に不満を持っている人が署名運動を始めた。一握りの人がチラシ配って、皆さんもいつ被害者になるか分かりませんと訴えた。

高橋  ロビー活動が大変だった。前例のないことには対応しない、というのが政府であり行政。言ってもなかなか動いてくれない。集会を開いても「持ち帰り検討します」と。それにどうしたらいいか、苦労した。

 大きかったのは9.11の遺族を呼んでシンポジウムを開いた時。9.11の被害者補償はすごく早かった。迅速に対応することの大切さを、感じている。サリン中毒に苦しんでいる人がたくさんいた。とにかく早く対応して欲しいと言ってきたが、なかなか実現しなかった。でも、ある時弁護士さんから「こんなことが実現するとは思わなかったね」と言われたこともあった。前例のないことでも、言っていく事が大事だと思った。

――「こんなことが実現するとは思わなかった」というのは、国の債権放棄。国が教団への債権を放棄して、被害者の賠償を優先することになった。被害者と遺族の微妙な違いもあって苦労されたのでは?

高橋  私たちの被害者の会は、最初は民事裁判の原告から始まった。その頃は遺族が多かった。破産になって被害者が増えて、被害者と遺族が一緒に活動していくようになった。被害者はまずサリン中毒への対応をして欲しい。遺族は経済的問題とか、司法解剖で大変な思いをしたことなど、目的が違う。みんな一緒にというのは、当初はなかなかしづらかった。被害者だけでは難しかったと思うが、弁護士にいい方向に誘導してくれた。

死刑への考えは人それぞれ

――被害者には風化というのはない、と強調されている。

高橋   当事者には風化はない。昨日のことのように覚えている。死刑はすごく大きな出来事ですが、私たちからすれば最終的なものではない。被害者からしてみれば、事件は現在進行形で続いている。遺族のPTSDの罹患率はものすごく高い。私もしょっちゅう笑ってますけど、だからよくなったというわけではない。「風化」という言葉にはすごく違和感を持っています。

――13人の死刑についてどう思うか。

假谷  死刑は刑法上の罰であり、社会のルール。被害者からすると、どうやって償ってくれるのか、ということに関心がある。命の尊さは誰も知っているが、死んだ父は帰ってこない。命が大切だというなら、命でつぐなってもらうしかない、というのが私の考え方。

 ただ、それでも心の傷は変わらないわけで、死ぬまで抱えている。それを少しでもいやしてもらえるなら、死刑以外のやり方もあるかもしれないな、と。たとえば、命の大切さを分かって、多くの人の命を救う活動を行うというのであれば、少しは癒やされるのかもしれない。

高橋  死刑囚13人の中でも、麻原彰晃こと松本智津夫とそれに命令されて事件を起こした人への見方は、私は違う。それは人それぞれで、被害者の会の中でもいろんな考えがある。

 私がそう思うようになったのは、民事提訴して、裁判が始まった時。当然死刑になるだろうし、財産は入信の時に全財産お布施して賠償する財産はない。それでも教団を潰したいので民事裁判起こしたわけですが、その時私は弁護団に「被告の親は何してるんですか」と言いました。そうしたら、地下鉄サリンが起きるまで、親御さんたちは一緒に坂本さんを探していたんですよ、と言われた。その時、この親たちも被害者だなと思った。麻原以外の死刑囚も、麻原に操られた、ある程度犠牲者なんだと思う

――被害者、遺族はみんな同じで1本調子な気持ち、というわけではない、と思う。ほかにつけ加えたいことは?

假谷  麻原の死刑で、中川も井上も死刑。(罪の)重さの違いはあるのに同じ死刑というのは、モヤモヤしているところはあります。

高橋  学生さんたちに言いたいのは、今の制度がこうだからと順応するのではなく、「これはおかしいんじゃないか」と思った時には、口に出して対策を考えてみる、というのも大事なんじゃないかな、ということ。

(写真は藤倉善郎氏提供。無断転用を禁じます)

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

江川紹子の最近の記事