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あの時の反省はどこへ?~松橋事件で再審開始確定を引き延ばす検察

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授
福岡高裁も熊本地裁に続いて再審開始を認めたのだが…

 「引き返す勇気を持つ」――検察は、7年前のこの誓いをもう忘れてしまったのだろうか。

 約33年前に熊本県の住宅で1人暮らしの男性が殺された「松橋事件」で、熊本地裁に続いて福岡高裁も再審を認めたが、検察側はそれを不服として最高裁に特別抗告した。その対応からは、検察が冤罪を作った郵便不正事件の大事な教訓である「引き返す勇気」の大切さはどこかへ置き忘れているように見える。しかも検察は、同高裁での即時抗告審を、郵便不正事件で冤罪作りに加担し、処分を受けていた検事に担当させていた。不当な取り調べによって殺人犯にされたと訴える老人の雪冤を、あれだけの冤罪を作った検事に阻止させようという構図には、驚きを禁じ得ない。

唯一の有罪根拠である自白が崩れた

 松橋事件は、1985(昭和60)年1月、当時の熊本県松橋町(現在は宇城市)の町営住宅で、59歳の男性が殺害された事件。懲役13年の有罪判決を受けて服役した宮田浩喜さん(84)は、出所後も無実を訴えてきた。認知症が進んだ宮田さんに代わって成年後見人の弁護士と長男が、再審請求を行った。昨年6月、熊本地裁が再審開始を決定。検察側が即時抗告したが、先月29日に福岡高裁がこれを棄却した。検察側は今月4日に特別抗告した。

 この事件では、「自白」以外に宮田さんと事件を直接結びつける証拠はない。熊本地裁、福岡高裁とも、弁護側が提出した新証拠によって、その自白の信用性が大きく揺らいだと判断した。

燃やしたはずの左袖は検察庁にあった

熊本地検にあったシャツの断片をつなぐと、完全な形で復元された。
熊本地検にあったシャツの断片をつなぐと、完全な形で復元された。

 自白によれば、犯行の前に、切り出し小刀の柄に血がつかないよう、古いスポーツシャツの左袖を切って巻き付け、犯行後はそれを外して風呂の焚き口で燃やした、という。

 宮田さんは捜査段階で当該シャツの現物を示されており、調書には次のような供述が記されている。

〈ここでつなぎ合わせて貰いましたところ、4片に分かれており、切れ目も合ってほぼシャツの型になりましたが、左側袖が肩口から全部ありませんでした。私がこの左袖を切り開いてウエスとして使っていたものを切り出し小刀の柄の部分に巻いたり、自転車のハンドルを拭いたりしたもので、あとで風呂焚き口に燃してしまったのです〉

 しかし、再審請求弁護団が検察庁に保管されていた証拠を確認したところ、問題のスポーツシャツは5つに切り分けられていたが、焼き捨てたはずの左袖もあり、布片5つを合わせると完全に復元できた。左袖部分に血痕などもついていなかった。

 しかも、この小刀に布を巻き付ける等の行為は、当初の「自白」には出ていない。警察が押収した小刀を鑑定した結果、血液の付着が証明できないと判明した後、突然「柄に布を巻き、刃は犯行後に研いだ」という話が登場する。最初の自白から2週間以上も経っていた。本件では、他の点でも、このように捜査の進展に合わせるような「自白」の変遷がみられる。

 加えて、弁護団が新証拠として提出した、犯行に使われたとされる切り出し小刀と遺体の傷の大きさが合わないとする法医学者の鑑定も、自白の信用性を揺るがせた。

宮田さん宅から押収され、犯行に使われたとされた小刀。警察の鑑定で血液の付着は検出されていない
宮田さん宅から押収され、犯行に使われたとされた小刀。警察の鑑定で血液の付着は検出されていない

「自白の核心」が揺らいで

 熊本地裁は、この2つの証拠によって、犯行に使用した凶器の特定とその具体的な使い方という「自白の核心」の信用性が揺らぎ、自白全体の信用性を動揺させたとし、他の新証拠や確定審での宮田さんの供述など全証拠を総合的に判断。「自白のみで有罪認定を維持できるほどの信用性を認めることは、もはやできなくなった」として再審開始を決定した。

昨年6月、熊本地裁で再審開始決定が出た
昨年6月、熊本地裁で再審開始決定が出た

検察の主張を理路整然と退けた福岡高裁

 これに対し、即時抗告した検察側は、スポーツシャツの件は宮田宅に同様の布きれが「多数」あったので取り違えただけだとか、弁護側の鑑定とは異なる意見もあるとか、熊本地裁は新証拠もないのに確定判決の心証形成に介入しているとか、種々の主張を並べて、熊本地裁の再審開始決定を批判。その取り消しを福岡高裁に求めた。

 しかし同高裁は、こうした主張を証拠に基づいて一蹴。判断方法についても、そのプロセスを理路整然と説明し、「原決定は、新証拠の存在を根拠にして、判決裁判所の心証形成に介入しているのであり、その判断手法は違法、不適切なものではない」と退けた。

地裁、高裁の相次ぐ判断の重み

 日本の司法は再審開始には、極めて高いハードルが課している。裁判所は、概して裁判のやり直しには消極的で慎重。冤罪であれば再審開始決定が出されるというものではない。たとえば名張毒ぶどう酒事件では、第7次再審請求で一度再審開始決定が出されたにもかかわらず、検察の異議で取り消されてしまった。弁護団はその後も確定判決の矛盾を指摘する新証拠を出し続けているのに、今なお再審は開かれていない。

 そんな中、松橋事件で熊本地裁、福岡高裁が相次いで再審を認めた意味は重い。請求審、即時抗告審といずれも再審を認めたのに、最高裁がそれをひっくり返して再審の扉を閉ざした事例は、私は聞いたことがない。

引き延ばし、先送りの道を選んだ検察

再審を求めている宮田さん(支援者提供)
再審を求めている宮田さん(支援者提供)

 近年の再審事件では、東電OL殺害事件や東住吉事件など、検察側は高裁段階までは争うが特別抗告を断念したケースもある。2人が放火殺人に問われた東住吉事件では、燃焼実験によって自白の信用性が崩れたことが、再審開始の決め手になった。事件と被告人を結びつける唯一の証拠が自白であり、その信用性が崩れた松橋事件でも、検察が同様の判断をする期待もあった。支援者らは、宮田さんが高齢で病床にある事情も訴え、検察に対して特別抗告を断念するよう求めた。

 しかし、検察側は争い続け、再審請求審を引き延ばし、再審開始の時期を先送りする道を選んだ。

郵便不正事件の教訓

村木厚子さん
村木厚子さん

 厚生労働省局長だった村木厚子さんを巻き込んだ郵便不正事件では、大阪地検特捜部の主任検事による証拠の改ざんだけでなく、不適切な取り調べによって被疑者や参考人に事実と異なる供述を強いたことなども発覚し、検察の体質が問われた。最高検は独自の検証を行ったが、その結果を発表する際、検察組織のナンバー2だった伊藤鉄男次長検事は、事件の教訓について次のように述べた。

〈捜査段階において、当初の見立てに固執することなく、証拠に基づき、その見立てを変更し、あるいは、引き返す勇気を持って、捜査から撤退すること。さらに、公判段階においても、最終的に有罪判決を得ることが著しく困難であると認められる場合等には、引き返す勇気を持って、公訴取消しを検討することなど、適切な検察権行使の在り方を周知徹底することであります〉

 その後、最高検が策定した「検察の理念」にもこう書かれている。

〈あたかも常に有罪そのものを目的とし、より重い処分の実現自体を成果とみなすかのごとき姿勢となってはならない。〉

〈無実の者を罰し、あるいは、真犯人を逃して処罰を免れさせることにならないよう、知力を尽くして、事案の真相解明に取り組む〉

 この「理念」に従うなら、再審請求審においても、有罪の確定判決にことさら固執したり、再審開始の引き延ばしが目的のような姿勢はとらならないだろう。

 検察は、自ら策定した誓いを忘れてしまったのではないか。

冤罪を作った張本人が……

福岡高検(福岡高検ホームページより)
福岡高検(福岡高検ホームページより)

 しかも、福岡高検が即時抗告審を、郵便不正事件で重大な役割を果たした國井弘樹検事に担当させていたのには驚いた。再審請求審はたいてい非公開で行われ、マスメディア向けに渡される決定要旨にも検察官の名前は出ていないが、決定書には即時抗告審に提出した書面を出した検察官名が記されている。私はそれを見て、國井検事が本件即時抗告審を最初から最後まで担当していたことを知った。

 國井検事は、郵便不正事件の捜査で、問題の主任検事の下で偽の証明書を作成した厚労省係長の取り調べを担当。自らの罪は素直に供述していた係長をさらに追い詰め、村木さんが関与していたする検察側の筋書きを押し付けた。そうして作成された調書などを元に村木さんは逮捕されており、國井検事はいわば冤罪を作った張本人。さらに証拠改ざんを知りつつ放置していた問題もあり、発覚後、減給や戒告などの処分を受けた。検察官適格審査会の審査にもかけられたが、なぜか罷免にはならなかった。法務省法務総合研究所国際協力部教官に異動し、ミャンマーへの法律支援などを行った後、検察の現場に復帰していた。村木さんに対する謝罪もなく、自身の行いに対して、どのような反省をしているのかは分からない。

 こうした”実績”のある検事に、雪冤にかける老人の願いを阻止する役割を担当させるという福岡高検の感覚は、私の理解を超える。

最高裁に求められるもの

 今回の決定書からは、検察側は本件を「怨念に基づき、計画的に、抵抗を許さない態様で、確定的殺意を持って敢行」したものと断定する主張を展開していたことが読み取れる。福岡高裁は、これを「所論は、確定判決の説示と明らかに異なった前提に立つものというほかない」などと退け、宮田さんと被害者の関係も「そのような怨念を抱くことになると言い切れるようなものではない」と述べ、ことさらに宮田さんに悪しき犯罪者のイメージを植え付けようとする検察側をたしなめている。

 こうした主張の仕方を見ても、郵便不正事件の反省と教訓はわずか7年でかすんでしまい、正義の実現より組織の面子を重んじる体質に逆戻りしたのではないかと、大いに危惧している。

 最高裁は、このような検察の姿勢に反省を促すためにも、迅速に特別抗告棄却の決定を出すべきだろう。

最高裁判所
最高裁判所
ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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