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太平洋を越える執念。弾道ミサイルと風船爆弾

dragonerWebライター(石動竜仁)
北朝鮮の軍事パレードで公開された、ICBMトレーラーと見られる車両(写真:ロイター/アフロ)

 北朝鮮による度重なるミサイル発射、及び核実験が問題になっています。9月3日に行われた核実験は水爆実験と見られ、これに続き新たなミサイル発射も予想されています。アメリカ本土に届く大陸間弾道ミサイル(ICBM)と、ICBMの弾頭に搭載可能な核兵器の開発に北朝鮮が成功すれば、アメリカは北朝鮮の核に直接晒されることになるため、アメリカにとっては深刻な脅威となり、同時に北朝鮮にとっては自国の体制を維持するための切り札となります。

 このように北朝鮮は、核兵器とミサイルの開発を同時並行で進めています。この両者は、現代の核戦略におけるほぼ必須の組み合わせとなっています。核兵器等の大量破壊兵器だけを開発しても、相手国に投射するための手段がなければ直接的な脅威にならないからです。冷戦初期のアメリカとソ連はこの開発合戦を繰り広げており、北朝鮮も米ソに半世紀遅れてこの段階に差し掛かりつつあります。

 ところが核とミサイル競争が始まるよりも前の70年以上昔、全く別のアプローチで大陸間を飛翔し、アメリカを攻撃する投射手段を開発した国がありました。投射手段としても不確実で、搭載するものも大量破壊兵器とはほど遠く、アメリカにとって深刻な脅威足り得ないものでしたが、太平洋の彼方のアメリカまで一矢報いようとする執念は、北朝鮮と同じくアメリカと大洋を挟んで対峙する国として通じるものがあるかもしれません。それが、日本の風船爆弾でした。

ふ号作戦

 1942年4月に日本本土を攻撃したドゥーリットル空襲への報復が検討されましたが、当時は大陸間を飛翔するICBMはおろか、太平洋を横断出来る爆撃機もありません。そこで、日本陸軍の研究機関の一つであった登戸研究所第一科で風船爆弾の研究がスタートしました。第一科は既にソ連に対する爆撃・宣伝用の気球を研究していたため、対アメリカ用の風船爆弾についても研究を任されることになります。この研究は風船爆弾の頭文字をとり、「ふ号作戦」と呼ばれていました。

 風船爆弾は爆弾を敵国まで運び、投下する機能を備えた気球でした。日本では高層で吹く高速の偏西風(ジェット気流)の存在が大正時代から知られており、これを利用してアメリカ本土まで気球を運ぶことが考えられました。直径10メートルの気球は、ジェット気流により2昼夜かけて8,000キロメートル以上飛翔する間、充填された水素の放出や、爆弾投下装置を兼ねたバラスト(重り)投下装置で高度を維持し、アメリカ本土到達後に爆弾を投下、最終的に証拠隠滅のため自爆するようになっていました。

風船爆弾1/10模型(明治大学所蔵、筆者撮影)
風船爆弾1/10模型(明治大学所蔵、筆者撮影)

 1943年8月には陸軍から本格的な研究要請がなされ、生産も計画されます。実際に生産された風船爆弾は、気球部分は和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて製造されており、これは和紙とこんにゃくの組み合わせが水素が抜けにくい構造であったことや、国内で調達可能だったことが理由とされています。製造には動員された女学生が携わりましたが、こんにゃく糊が低温で、工場の水はけも悪かったことから、凍傷や水虫にかかる女学生も多かったそうです。

 風船爆弾に搭載出来る兵器の重量は35キログラムに制限されていました。このため、小型の爆弾や焼夷弾を複数搭載していました。精密に狙うことが不可能な風船爆弾にとり、これでは山火事を狙うのが関の山でした。そこで、早くから検討されていたのが、生物兵器の搭載でした。牛に対して高い感染力を持ち致命的な牛疫ウイルス(2011年に撲滅宣言)を利用した生物兵器が実際に開発・製造され、風船爆弾に搭載してアメリカの畜産業にダメージを与えることが計画されましたが、生物兵器の使用は国際法違反であったことと、アメリカによる報復が予想されたため、実際に使用されることはありませんでした。

風船爆弾(模型)のバラスト・爆弾部(明治大学所蔵、筆者撮影)
風船爆弾(模型)のバラスト・爆弾部(明治大学所蔵、筆者撮影)

 1944年11月から翌3月にかけて、日本から1万発近い風船爆弾が放たれ、そのうちの1割に相当する1000発ほどがアメリカに到達したと考えられています。このうち、一つは原爆用のプルトニウムを製造していたハンフォード核施設への送電線に引っかかり停電を引き起こし、原子炉3基が緊急停止しています。すぐに予備電源で原子炉は復旧しましたが、本格的なプルトニウム製造再開に3日を要したともされています。また、アメリカは風船爆弾の存在を察知しており、日本側に被害情報が伝わらないよう、風船爆弾に関する情報管制を敷いて周知しなかったため、爆弾と知らずに近づいて、ピクニック中の民間人6名が爆発で亡くなっています。

太平洋を越える執念

 到達率1割と不確実なものの一応アメリカに届いた風船爆弾でしたが、精密に狙うのが不可能だったことと、精度の無さを補う大量破壊兵器を搭載出来なかった事から、実際の被害も小さければ、アメリカにとっての深刻な脅威にもならず、大局的には無意味に近い存在で終わりました。このことから、投射手段だけでは脅威たり得ないことも分かると思います。現在もなお、核とミサイルがセットで開発されるのはこのためです。

 もっとも、北朝鮮の核開発が60年間続けられているものなのに対し、風船爆弾は1943年7月の「何か敵をアッと言わせるような手はないものだろうか」という、佐藤賢了陸軍省軍務局長の発言が本格研究の契機となっています。風船爆弾はあくまで窮余の策だったようで、体制の存続を賭けて核とミサイルに数十年取り組んでいる北朝鮮とは、性格が大きく異なります。そして、周到に準備を続けてきた結果として、北朝鮮がアメリカに届く核・ミサイル技術を手にしようとしています。

 太平洋を挟んでの攻撃に大きな技術的障害があった70年前とは直接の比較は出来ませんが、今もなお太平洋を越える執念はあり続けているようです(もっとも、北朝鮮からミサイルをアメリカに撃つ時は、太平洋ではなくロシアを越えて行きますが……)。

 なお、風船爆弾を始めとする登戸研究所の研究活動の一端については、登戸研究所跡地に建てられた明治大学生田キャンパス内の明治大学平和教育登戸研究所資料館で、入館無料で見学することが出来ます。興味のある方は行かれてみてはどうでしょうか。

Webライター(石動竜仁)

dragoner、あるいは石動竜仁と名乗る。新旧の防衛・軍事ネタを中心に、ネットやサブカルチャーといった分野でも記事を執筆中。最近は自然問題にも興味を持ち、見習い猟師中。

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