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福島からの証言・11

土井敏邦ジャーナリスト

(和田央子さん/撮影・土井敏邦)
(和田央子さん/撮影・土井敏邦)

【和田央子】(15年5月10日・収録)

【概略】結婚を機に福島県南部の鮫川村に移住した和田央子さん夫妻は、原発事故から1年後、村の近くに「仮設焼却炉」を建てる計画があることをテレビニュースで知った。放射物質に汚染された稲わらを焼却するすれば、煙突から放射性物質が濃縮されたガスが漏れる危険性がある。和田さんは「焼却実証実験」について専門家に相談したら、「環境がめちゃくちゃにされる。今いる大人が闘わなければいけない」と鼓舞された。

(Q.福島から東京へ来る経緯は?)

 結婚を機に東京の方から移住をしてきまして、それまでは私は東京の生まれ育ちで田舎がないんです。北区で生まれ育って、足立区に20年いまして、そのあと台東区に移って...。まもなく結婚を機に福島に移り住みました。夫は田舎暮らしを志向していました。その理由は「都会でエネルギーを膨大に使った生活をしていていいのか」という問題意識からだったんです。その時は、私は理由をよく理解できていませんでした。なんとなく面白そうだから、じゃあ行こうかと付いてきてしまったという感じです。

 20代の時に7年間、大手コンピューターのメーカーで働いていました。会社ではエネルギー資源、例えば紙を大量に毎日毎日使うんですよ。それを見ていて「これはおかしいんじゃないか。こんなことしていていいのか」という問題意識を毎日感じていました。「ここは私がいる場所じゃない」というのを常々感じていたんです。会社は自分の生き方とは合わないと感じながらいたんです。

(Q.なぜ福島だったんですか?)

 2001年でした。(震災の)10年前ですね。私は不勉強で原発のこと何も知らなかったんですけれど、環境問題のNGOで知り合って結婚した夫は「基礎知識」程度は勉強していて、浜岡原発をすごく気にしていたんです。浜岡原発は、南海トラフの地震がいつ起きるかわからない状況で、「もし浜岡原発で事故が起こったら、東京にはいられなくなる。北に逃げるしかない」と考えたらしいんです。

 親がまだ健在ですから、「親に何かあった時にすぐに帰れる場所がいいだろう」ということで、「じゃあ、福島」となったんです。浜岡原発を避けて東北に来たにも関わらず、福島で原発事故に遭ってしまったという皮肉な運命だったんですけど。

(Q.福島でもここを選んだ理由は?)

 会津など豪雪地帯では2人とも都会育ちで雪は慣れていないので、住めないだろうと。なるべく暖かいところがいいだろうと、夫がネットで調べて、アイターンを積極的に受け入れているところでヒットしたところが川俣町の山木屋でした。物件を紹介してもらいに山木屋に行って、ほぼ決まりかけていたんですけれど、いざっていう時に大家さんの方から「やっぱり、貸さない」と言われてしまいました。それが「運命の分かれ目」でした。そのまま山木屋に住んでいたら、私達はここにいなかったでしょうから。

 仕方なく探しなおしたところ、次にヒットしたのが鮫川村だったんです。鮫川村でアイターン、Uターンの積極的な受け入れことが始まったばかりでした。それで鮫川村の方に紹介していだたいて、最初の3年間は鮫川村に住んでいたんです。そこは畜産業と農業の村です。

(Q.仕事の目安はあった?)

 それは夫が東京にいた時に、半分NGOが立ち上げた化粧品会社があったんです。自然派化粧品で、一切化学物質入っていません。それをずっと手掛けていたものですから、その伝手で商品を預かって発送するという仕事ができるっていう目途が一つありました。都会で倉庫を借りて商品を置いておくとすごくお金がかかってしまうので、田舎の土地の安いところで商品をあずかって、東京から指示を受けて発送をやると、その仕事を毎日やっていました。

 その後、私は大の「パン食好き」で、毎朝パンじゃないとダメなんです。、周りにお店が何もないので、自分で作るしかなかったんです。やり始めたら天然酵母パンが楽しくて、一気にはまってしまって。住んでからすぐパンを作り始めて、自分で作ると作り過ぎてしまって食べきれないものですから、道の駅の農産物直売所に余った分を置かせてもらえないかと、相談したら、「パンまだ全然おいていないからいいよ」って言われたんです。それで気を良くして、そこから毎日張り切って作り始めたら、「もっと持ってきて」って言われるようになるなりました。それからは朝も夜も振り回されるようになり、本格的に機械を導入するまでになったんです。

(Q.家はどうしましたか?)

 家は一軒家を借家しました。最初3年間、鮫川村にいたときはすごく安い家賃で借りていたんですが、すぐ近くに土地付きのいい物件があると紹介されて、それが目と鼻の先の塙町でした。私は動物を飼いたかったので、、動物が伸び伸びと飼える環境がいいだろうと思って、今の所に移ったんです。

今の所も借りていますが、ただ同然の家賃です。年間3万円のところです。大家さんに「じゃあ固定資産税だけ払ってくれ」って言われて。

(Q.震災当時はどうしていましたか?)

 ちょうど夫とパンを作っている最中で、出来上がって袋詰めをしているときにガタガタってきて、「うわぁ、これは尋常じゃない!」ということで慌てて外に飛び出したんです。もう家がつぶれるくらいの勢いでした。木造のすごく古い家で、箸が転がるくらい傾いているところなんですけど、幸いなことにそのときはコップが1つ落ちただけで何の被害もありませんでした。原発から60キロ離れていますが、放射能がここまで到達するのは時間の問題だとすぐに悟りました。

(Q.よく残りましたね)

 1週間、東京の実家の方に避難したんです。私は動物を置いていくことができないといって、ヤギ2匹と、それと犬、猫合わせて10匹くらいでとても全頭は連れて行けません。その時の私は40歳で放射線の影響を気にして、夫が「何が何でも避難しないといけない」と言うので、犬猫の半分だけ連れて実家に避難しました。1週間だけ避難していて、(置いてきた)動物たちが死んでしまうのではと心配で、夫はすぐに戻ってきたんです。

(Q.その頃の数値は?)

 その頃は測定器がないものですから自宅の線量はわからないですね。幸いなことにテレビがついていました。電気は一瞬だけ消えてすぐに回復したんです。原発が爆発していく様子も全部テレビで見ていました。

(Q.福島に残るかどうか考えました?)

 それはもう散々考えました。1週間、東京に避難していた間に、ペットを抱えている被災者の方が非常に困っているのを目の当たりにしました。「これはなんとかしないといけない」ということで、ずっと実家でインターネットから情報収集をしていました。ペットを連れている人も避難所に入れない。寒い時期で、ペットと一緒に車の中で寝泊まりしたり、ペットがいるために自宅が離れられない人もいました。ほとんどの方が置いて行き、置いていかれたペットはその後は死ぬしかない。「これはなんとかしないといけない。ペットを抱えている方の預かり支援をやろう」と思って1週間で戻ってきたんです。

(Q・焼却実証実験について、どのように知ったんですか?)

 2012年の9月にNHKのテレビニュースで「稲わらの焼却実証実験をやります」と流れました。始めは何のことかわからなくて、「稲わらを燃やすって、野焼き程度かな」って捉えていたんです。その後に毎日新聞が流した報道によると、「その事業が7年間で7億3千万円」というのです。そこで「あれ?稲わらを燃やすのになんで7億3千万円かかるんだろう?」と思いました。鮫川村のことがニュースになること自体がすごく珍しいことでした。

 「あれ、鮫川村だ」と「7億3千万」の二つに「おかしいな」と感じたんです。ツイッターを見ていたら、この問題を何回も繰り返し発信していました。何か警告を発しているような気がして、その人に問いかけてみたんですね。

 「これ、なんで7億3千万円もかかるんでしょうね?」って。

 その人は知らない人でしたが、すぐに返信が来て、「環境省の調達情報の中に仕様書が出ています」という内容でした。そしてその仕様書をツイッターで添付して送ってくれたんです。

 それを開けたら、もうびっくり仰天でした。「焼却実証実験」では焼却炉を建てるための事業でした。つまり稲わらを燃やすための仮設焼却炉を建てるというのです。その住所がなんと自宅からすぐの所だったのです。それにびっくりしちゃって。それまではポカーンとしていたんですが、一気に目が覚めて、「これは大変だ」と。

 帰ってきた夫にすぐに伝えると、夫も血相変えました。そのとき夫は集落の役員やっていたものですから、すぐに集落内の班長さんや区長さんに報告に行ったんです。そしたら皆さん、「これは大変だ!」と一様に驚かれました。「何とかしないといけない」ということで、とりあえず町会議員に相談しました。

 そうしたら、「町政懇談会っていうのをやるといいよ」というアドバイスをされました。「町政懇談会」を行政区単位で開くと、町長をお呼びすると来てくださるからということでした。「じゃあ、さっそくそれをやろう」となったのが2012年の10月です。

(Q.わらの焼却施設ができるのに関して何が一番危機感を持った?)

 「汚染物」を集めてくるということ、それを焼却すればやっぱり煙突から漏れるはずでし。それも濃縮された高濃度のガスとなって、煙突から漏れるということは容易に想像がつきましたので、ものすごい危機感がありました。

 私はその時には焼却炉のことで頭がいっぱいでした。なんとかしなきゃと。最初は、やっぱり逃げたい一心でした。

 その時にいろんな専門家の先生にも相談してたんです。長野県の「関口鉄夫」先生という元信州大学の方に相談しました。仕様書を送って見てもらったら、すぐに電話をあり、「なんてひどいんだ!」と言われました。「焼却炉の処理能力が199キロ/時になっている」というのです。

 「200キロ/時になると『廃棄物処理法』に引っ掛かり、『生活環境調査』とか手続きがややこしくなるので、200未満のギリギリの能力にして、そういった手続きを全部すっ飛ばしてやっているんだろう」と関口さんは言いました。つまり「廃棄物処理法」に引っかからないように工作したんです。それを一目で見抜いて、烈火のごとく怒って、「また環境省はこんなことやっているのか!」という感じでした。私もそれを聞いてびっくりして、「環境省はとんでもないことをやろうとしているんだ」ということを知ったんです。

 なおかつ仕様書の中に「公道から見えないように建設すること」って書かれていたんです。。それも私の不信感を増幅することになりました。「これは何かあるぞ」と。私は「何か暴かなければいけない」という気持ちにも駆られました。

(「焼却実証実験」が行われる鮫川村の焼却炉を示す和田さん/撮影・土井敏邦)
(「焼却実証実験」が行われる鮫川村の焼却炉を示す和田さん/撮影・土井敏邦)

 ただその時には何もわからなかったので、恐怖でいっぱいでした。だからいろいろ調べながらも、一方で、とにかく逃げることをずっと考えていました。住民運動も恐らくダメだし、たぶん、もう止められないだろうから、関口先生に「私たち引っ越したいんです」と相談したこともありました。そしたら、関口先生は、「あなたたちが逃げれば子孫が困りますよ。そうやって国のやる事から背を背けていると、どんどんそういつもののが、いいように造られてしまって、環境がめちゃくちゃにされる。そして結局は、子孫にそのツケを押し付けることになる。だから今いる大人が闘わなければいけないんだよ」と私を諭しました。

 でも、最初はそんな言葉を容易には受け入れられませんでした。泣きながら、半べそかきながらやっている感じでした。「そんなこと言われても、私たちだけじゃそんなことできません!」と。

 一つずつ情報開示請求を出したり、村に対して質問書を出したりということはやってたんですけれども、「いつ手を引こうか」と思いながらやっていました。

(Q.関口さんの意見を村人に伝えましたか?)

 伝えました。先生に来ていただいて学習会をここの公民館で2回ほど持ちました。そのときは全部チラシを配って呼びかけたんです。やっぱり内心、皆さん反対してましたし、そんなものすぐ村の近くに建てられてメリットは何も無いですから。

 2012年の終わりまでは農産物の出荷が全くダメになってしまい、みんな、やっぱり困っていたわけですね。これ以上そういったものが持ち込まれるのかと、またこれが第二の原発事故みたいに、風評被害になるのかといった不安が皆さんすごくあったんです。だからけ参加者は60~70人ほどはいたと思います。

 塙町全体で1万人弱です。少子化で毎年どんどん少なくなっているんですけど。町全体に広報は物理的にできないので那倉の集落の方に通知をしました。集落は200人くらいです。集まったのは、そのうち60~70人です。けっこう関心はあったんです。

 ただ、その日その日の生活で、多くの人が手一杯なんだろうなというのをすごく感じます。とくに農村部です。農業で生計を立てているところは、切実な問題です。農業をやっている方、漁業をやっている方、みなさん原発事故よりも、自分の生活を立て直すことでいっぱいいっぱいです。そこを国も原発事故の隠蔽にいいように利用している構図ですよね。

(福島県各地で建設中、またはすでに完成した仮設焼却炉/資料提供・和田央子さん)
(福島県各地で建設中、またはすでに完成した仮設焼却炉/資料提供・和田央子さん)

(都会、たとえば東京に戻ることも考えていますか?)

 今は考えてないですね、やっぱり動物もいるので。

 この問題をとにかく追及していきたいというのが先にありまして、夫は引っ越したいんですけど、わたしはとにかくこの問題を追及していきたいって思っているんです。

(Q・なにが自分をそこまで思わせるんですか。許せない?)

 もちろんその許せないっていうのもあるし、いまずっと一緒に、この鮫川村の問題がもちあがった当時からずっと支援してくれている専門家、藤原寿和さんという方がおられます。ずっと親身になって関わってくくれています。40年間、東京都の環境局に勤めてた方です。その人は化学が専門で、ずっと大学でノーベル化学賞をめざして研究に邁進していたのですが、あるとき厚生労働省の前で座り込みをやっていた水俣病患者さんに出会って、そこで生き方ががらっと変わっちゃったんです。

 自分がやってきた科学っていうものが、こんなに人を苦しめるのかということに愕然として、それまでの生き方を一切変えられたんです。それで浜岡原発の反対運動にのめり込んだりだとか、ということで後々に東京都の環境局に就職されて、常に公害の最前線で戦ってきた人です。その人の生き方にすごく感銘を受けて、すごく影響をされたというのはあると思います。

(Q・この焼却炉の問題と闘って、自分の人生観や価値観とか変わりましたか?)

 相当変わったと思います。若いころから環境問題の意識が強かったです。NGOの一端に関わってはいたんですが、受け身で諦めもあったんです。変えられないじゃないかという、すごく諦めの境地でいたんですが、藤原さんのような生き方をしておられることを知って、積極的にそれを変えていく行動を起こさないと変わらないということを強く感じました。

 脱原発もそうです。「脱原発運動」を一生懸命やっている武藤類子さんたち「福島の女たちの会」を見ていたら、やっぱり諦めないんですよね。結果が思うようにいかなくても、そこで「また次、また次」と諦めないで継続していくことの強さですね。そういうことでしか状況は変えられないし、たとえ変わらなくても、そういうことをやっていかないといけないなと感じました。

 すべての人が諦めちゃったら、そこで終わっちゃうわけです。すべてにおいて、諦めてはいけないんだな、っていうことをすごく感じるようになりました。

 自分がいま一番大切だと思うのは、できるだけ環境を壊さない生き方をしていきたいということです。自分はそう心がけてきたつもりだったけど、問題を積極的に知ろうとはしてこなかったです。問題を知ったうえでの具体的な行動を起こさなかった。それは反省をしています。 どんどん破壊されている環境を見ながら、諦めるのではなく、諦めない人たちと繋がって、諦めない文化を継承していかなければと思います。(了)

ジャーナリスト

1953年、佐賀県生まれ。1985年より30数年、断続的にパレスチナ・イスラエルの現地取材。2009年4月、ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』全4部作を完成、その4部の『沈黙を破る』は、2009年11月、第9回石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞。2016年に『ガザに生きる』(全5部作)で大同生命地域研究特別賞を受賞。主な書著に『アメリカのユダヤ人』(岩波新書)、『「和平合意」とパレスチナ』(朝日選書)、『パレスチナの声、イスラエルの声』『沈黙を破る』(以上、岩波書店)など多数。

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