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ルポ「ヘブロン――第二次インティファーダから20年――」(第3回)

土井敏邦ジャーナリスト
シュハダ通りと他のパレスチナ人地区を隔てるイスラエル軍の検問所

【パレスチナ人を分断する検問所】

 ヘブロン・ツアーのガイド、NGO「沈黙を破る」スタッフ、イド・イブンパズは、さらにシュハダ通りを進み、「ベイト・ハダサ」入植地前で立ち止まった。

 「この建物は、かつてユダヤ人が所有する建物でした。入植者たちは『かつてのユダヤ人の建物に戻ってきたんだ』と主張をします。

 しかし、これは全く馬鹿げたことです。イスラエル政府は、国民に『西岸のかつてのユダヤ人の建物に戻ろう』とは言えません。それは“パンドラの箱”を開けることになるからです。その論理で、パレスチナ人はイスラエルに奪われた1948年(第一次中東戦争による70万人のパレスチナ人の故郷喪失)や1967年(第三次中東戦争による占領)以前の家に戻ることができることになるからです。それはイスラエル人の誰も望んではいません。どんなイスラエル人もその箱を開けたくない。だから『ユダヤ人の財産だから』という言い訳は愚かなことです。それは全く法的な根拠がないのです」

旧市街の中のユダヤ人入植地を象徴する巨大な水タンク。
旧市街の中のユダヤ人入植地を象徴する巨大な水タンク。

 ツアーの一行は、シュハダ通りの端にある検問所まで進んだ。イドは「H1」(パレスチナ人地区)と「H2」(イスラエル人地区)を隔てるその検問所の前で、その役割について解説した。

 「20年以上にわたって、イスラエル軍高官の将軍がこの地区について長期の専門的な分析をしました。その結果 この地区の多くの検問所はセキュリティーのためではなく、ただ『軍の存在証明』のためだとわかりました。

その結果が政府に報告されたとき、政府の回答は 『ここや他の検問所は解体できない。ヘブロンのイスラエル人地区とパレスチナ人地区との分離政策に矛盾するから』ということでした。

 分離政策は政府の公式の政策として明記されています。つまり『中心街のH2ではできる限りパレスチナ人を減らさねばならない。それによって入植者を守ることが容易になり、両者の衝突も問題も減少する』というのです」

イスラエル兵が守る検問所前で説明を聞くヘブロン・ツアーの参加者たち。
イスラエル兵が守る検問所前で説明を聞くヘブロン・ツアーの参加者たち。

 「なぜここに検問所が必要なのか。H1とH2の境界の大半には通行できる道はありません。この道路は舗装されている数少ない道路です。H2内で暮らすパレスチナ人が重い荷物、例えばプロパンガスや洗濯機 冷蔵庫などを運ぶとき、ここを通らなければなりません。他の場所には舗装道路がないからです。だから住民はここへ来て、検査を受けなければならないのです」

 「この検問所がパレスチナ人住民を分割しています。この中に住んでいる者だけが、ここを歩けます。ただ、ここに住んでいても、名前を登録していなければ、歩いてこの検問所を通ることはできず、他の場所から大回りしなければなりません。

 検問所で止められる人たちは『テロリスト』ではありません。検問所に苦しむのは、普通の住民です。ここで暮らしながら、車で通行もできないのです。

 パレスチナ人住民とイスラエル軍との緊張が高まった時やセキュリティーの緊急事態の時、他の地区で事件が起こった時はこの検問所は閉鎖されます。兵士の証言によれば、ある老女が検問所へやって来た時に、『今日は検問所が閉鎖されたから、バイパスで大回りすればいい』と追い返したというのです」

【イスラエル人地区で孤立するパレスチナ人女性家族】

 ヘブロンの著名な平和活動家だったヒシャーム・アルアッザムは、2015年10月、パレスチナ人のイスラエル軍との衝突の最中、催涙弾で呼吸困難に陥り、死亡した。ヒシャームの妻、ニスリーンは子どもたちと、H2(イスラエル人地区)内にある元の家に住み続けている。

 ニスリーンがその家に私を案内した。大通りはパレスチナ人住民には封鎖されているため、いくつもの民家の庭先を抜けて、やっとたどり着いた。家の真ん前にユダヤ人入植地「テル・ルメイダ」が迫っている。

 「家族の者が庭にいると、入植者たちが決まって石やガラス瓶を投げてきました。ガラス瓶の中に尿を入れられていることもあります。水道は、あそこに見える金属の水道管を使っていましたが、入植者が毎日、私たちの水を止めてしまいました。そうやって、私たちを家から追い出そうとしたのです。水が出なくて困ったので、ヘブロン市役所(パレスチナ人地区)が新たにこの水道管をつなげてくれました」

暴行を続ける入植者たちが暮らす「テル・ルメイダ」入植地を指さすニスリーン。
暴行を続ける入植者たちが暮らす「テル・ルメイダ」入植地を指さすニスリーン。

 「家のあの扉にはペンキの跡が残っています。5年ほど前に、英語で、「アラブ人を殺せ (kill) 」「殺戮しろ (slaughter) 」と書かれていました。夫は、入植者によるその落書きをメディアに公開しました。すると、イスラエル民政局のスタッフが来て、ペンキを渡し、『落書きが隠れるように塗れ』と命令しました」

「アラブ人を殺せ!」という落書きがあったドア。ニスリーンがペンキで消した。
「アラブ人を殺せ!」という落書きがあったドア。ニスリーンがペンキで消した。

 リスリーンは夫ヒシャームが亡くなった経緯をこう語った。

 「2003年にイスラエル軍が外出禁止令を出し、街が完全に封鎖されました。私は息子を妊娠し、臨月を迎えていました。病院に行くために、こちら側の通れる道を歩いていたら、入植者に止められ『戻れ! お前たちの道はない』と言われました。仕方なく、6メートルほどのこの崖を夫に肩車されながら降りました。下に着くと 兵士3人が私たちに銃を向けて、『戻って家で死ね!病院にもどこにも行かせない』『パンや牛乳を買いに行くのもダメだ。外出禁止だ!』と言いました」

ヘブロンの著名な平和活動家ヒシャーム・アルアッザム。2015年10月に催涙弾で窒息死した。
ヘブロンの著名な平和活動家ヒシャーム・アルアッザム。2015年10月に催涙弾で窒息死した。

 「夫が亡くなったのは2015年10月21日でした。その日、検問所近くでイスラエル軍とパレスチナ人との間で激しい衝突がありました。イスラエル軍の催涙弾の使い方が尋常でなく、これほどの衝突は初めて見ました。地区一帯がパレスチナ人には立入不可能となりました。

 家に帰ると 夫は昏睡状態で全く意識がありませんでした。救急車を呼びましたが、そもそもパレスチナ側の救急車はこの地区に入れません。H1 H2という地区の区分のためです。救急隊は電話で、『下の検問所が閉まっていて通れない』と言いました。そのため大回りしなければならず、時間がかかりました。夫が昏睡状態だったのにです。救急隊は、歩いて家に辿りつきました。私は近所の人たちに助けを求めました。青年たちが布を使い、夫を下の検問所まで運びました。しかし、兵士は彼らを止めました。 10分間ほどです。この10分間が夫の命の分かれ目でした。夫は心肺蘇生が必要でしたが、間に合わなかったのです。10分の遅れが病人には命取りになりました」

 イスラエル人地区のH2でパレスチナ人が暮らすことは、さまざまな制限を受ける。ニスリーンの夫、ヒシャーム・アルアッザの死はその象徴である。

 「そんな不自由な生活から逃れるために、イスラエル人地区を出て行きたいと思いませんか?」と、私は訊いた。ニスリーンはこう答えた。

 「絶対にありません。理由は一つ、この家は私たちの家だからです。この土地はパレスチナの土地であり、私たちの祖国です。これからもそうあり続けます。私たちには他に行くところはありません」

 「夫は『この家を出るのは遺体になった時』と言っていました。実際、その通りになりました。私も夫のように言います。一生、この家を出て行きません。これまでの困難や 攻撃や殺人事件があってもです。今ヘブロンでは、1948年のナクバ(パレスチナ人が故郷を追われた大厄災)と同じことが行われています。この地区の住民全体に恐怖心を植え付け、とりわけ若者を追い出そうとしています。男女を問わず、若者を狙い殺すのは、このようなメッセージを伝えるためでしょう。『自分たちで出て行かないなら、暴力で追い出すぞ!』というメッセージです。若者たちはとても怖がっています」

ニスリーン・アルアッザム。
ニスリーン・アルアッザム。

 「あなたにとって“家”や“土地”はどのようなものですか?」と問うと、リスリーンはこう言った。

 「家と土地は私の人生の全てです。私たちのオリーブの木は知っています。ここに元々いるのはパレスチナ人であり、入植者たちではないことをです。この入植地が私たちの土地にできたのは1984年です。その以前からこの地に住んでいたのはもちろんパレスチナ人です。“家”と“土地”は私の人生そのものです」

【イスラエル人地区のパレスチナ人学校】

 パレスチナ人の公立イブラヒム男子小・中学校は旧市街のイスラエル支配地区(H2)の中にある。トルコ・オットマン時代の1911年に建設された。ここに通うのはH2で暮らすパレスチナ人の子どもたちだけではない。多くの生徒たちはパレスチナ人地区(H1)から検問所を通って登校している。

 ハッサン・アマール 校長は、イスラエル地区に組み込まれたこの学校の困難を語った。

ハッサン・アマール校長。
ハッサン・アマール校長。

 「生徒たちは通学する時には検問所で止められ、カバンの中をチェックされます。また私たちは車を検問所を越えて学校の前まで運転することは禁じられています。学校で使う教科書やノートなどの教材や学校の家具類は、歩いて手で運ばなければなりません」

登下校の時に生徒たちカバンの中は兵士に検査される。(撮影:イブラヒム学校)
登下校の時に生徒たちカバンの中は兵士に検査される。(撮影:イブラヒム学校)
車は通行禁止のため、教材も人力で運ばなければならない。(撮影:イブラヒム学校)
車は通行禁止のため、教材も人力で運ばなければならない。(撮影:イブラヒム学校)
学校の家具を運ぶ生徒や教員たち。(撮影:イブラヒム学校)
学校の家具を運ぶ生徒や教員たち。(撮影:イブラヒム学校)

 

 「時には 兵士たちが学校の中に侵入してくることもあります。生徒たちが兵士に投石したと言うのです。そんな理由で学校に入ってきて、教室の生徒たちを脅迫します。時には学校で生徒たちを逮捕します。去年、運動場である生徒を逮捕し連行していきました。想像してみてください こんな状況で、どうやって生徒たちは勉強に集中できますか」

授業中に教室に侵入したイスラエル兵。(撮影:イブラヒム学校)
授業中に教室に侵入したイスラエル兵。(撮影:イブラヒム学校)
学校で逮捕・連行される生徒。(撮影:イブラヒム学校)
学校で逮捕・連行される生徒。(撮影:イブラヒム学校)

 「教師たちも検問所で足止めされ、身分証明書をチェックされます。教師たちは全員 PA(パレスチナ自治政府)の教育省が発行する証明書を持っています。教師であることを証明するものです。

 それでも検問所の前には、『15歳から30歳までの男性は通行を禁じる』と書かれています。この学校の教師たちは若いんです。こんな制限の中で、どうやってここで働けますか?」

教員たちも毎日、イスラエル軍に身分証明書をチェックされる。(撮影:イブラヒム学校)
教員たちも毎日、イスラエル軍に身分証明書をチェックされる。(撮影:イブラヒム学校)

 【注・明記された以外の写真は筆者撮影】

ジャーナリスト

1953年、佐賀県生まれ。1985年より30数年、断続的にパレスチナ・イスラエルの現地取材。2009年4月、ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』全4部作を完成、その4部の『沈黙を破る』は、2009年11月、第9回石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞。2016年に『ガザに生きる』(全5部作)で大同生命地域研究特別賞を受賞。主な書著に『アメリカのユダヤ人』(岩波新書)、『「和平合意」とパレスチナ』(朝日選書)、『パレスチナの声、イスラエルの声』『沈黙を破る』(以上、岩波書店)など多数。

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