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ルポ「ガザは今・2019年夏」・4「『殉教』を願い続けた少女」

土井敏邦ジャーナリスト
「殉教」という願いをかなえたウィサール(2018年8月/ポスターより)

 ――「殉教」を願い続けた少女―

 

【離婚し極貧の母子家庭】

 2018年5月15日、「ナクバの日」(1948年のイスラエル建国によって故郷を追われたパレスチナ人の大惨事を記念する日)に当たるこの日、ガザ地区中部の国境で14歳の少女がイスラエル軍に射殺された。「帰還のための大行進」と呼ばれる国境デモに参加中の出来事だった。

 事件から3か月後の8月、私は母親リーム・アルマーナ(42)を訪ねた。14歳の少女がなぜ国境デモに参加し、どのように命を奪われたのかを聞くためだった。

 全身に黒いベールを被った母リームから、その表情をうかがい知ることができるのは、顔で唯一露出している両目と、ベールの下から発せられる声だけである。

 リームには長男(21)を頭に6人の子がいたが、夫と離婚した。その元夫は子どもたちの養育費はまったく支援しない。長男も仕事がなく、全く収入のない家族は、慈善組織の支援だけに頼って暮らす極貧生活だった。

娘の遺影の前で語る母親リーム(2018年8月/筆者撮影)
娘の遺影の前で語る母親リーム(2018年8月/筆者撮影)

(Q・十分な収入もない中、どうやって暮らしていたんですか?)

「子どもたちを気にかけてくれる人たちがいます。私たちは最低限の施しで足ります。娘が亡くなってから支援されるようになりましたが、以前は慈善団体に行っても、『父親に子どもを渡しなさい。あなたが支える必要はない』と言われました。でも私は父親のように、子どもを見捨てることはできません」

(Q・娘さんは将来、結婚して家族を作るとか、生きる希望は持てなかったのでしょうか?)

「私と子どもたちはずっと苦しい生活を送ってきました。借家住まいで、(離婚した)夫からはお金どころか便りもありません。生きている間にいい日が来るなんて娘は思いもしなかったんでしょう。だからウィサールは殉教して天国に行く日だけを夢みていたんです」

(Q・中学を卒業して進学するとか、将来について話さなかったんですか?)

「よく話しましたが、『うちの状況では高校も大学も無理』とウィサールは言っていました。私たちの絶望的な状況は想像以上です。とても言葉では伝わりません。これでも前より、ずっとよくなりました。

 娘に一度もお小遣いをあげたことがありません。学用品は校長先生にもらっていました。先生は私たちの状況を知っていたんです。収入がないので、何一つ用意してあげられませんでした」

【国境フェンス前での祈り】

(Q・どういう娘さんだったんですか?)

「穏やかで優しく、そして素直で敬虔な子でした。一番の望みは殉教することで、いつも神にそうなるように祈っていました。

 デモに行くとき毎回、『殉教してくる』と言っていました。毎週金曜日、朝に国境へ出かけ、夕方に帰ってきては泣いていました。訳を聞くと、『殉教できなかった。来週も行く』と言っていました。デモで催涙ガスを吸い、危うく死にかけたこともありましたが、帰ってくると、『殉教したい』と言うんです。その繰り返しでした。

幼い頃から「殉教」を願っていた(遺族提供)
幼い頃から「殉教」を願っていた(遺族提供)

 生前、娘は長い時間、礼拝していました。何を祈ったのか聞くと、こう答えました。

『私が神に望むのはただ一つ、殉教すること。それから家族がもっといい生活を送れるように、ご加護を祈った』と。最も強い願いは殉教することだったんです」

「『ナクバの日』の前夜、娘は私にこう言いました。

『お母さん、私は頭を撃たれて、痛みを感じずに死ぬよ。お祖父さんの傍に埋葬してね。私が天国に行けるように施してね』『今日、学校のテストも終わったから、もう誰にも迷惑をかけない。これが皆と食べる最後の夕食よ』

 そう言うと、『思い出に』と歌を唄ってくれました」

「あの朝、私は不吉な予感がして、娘が家から出られないよう扉を閉め切りました。娘を閉じ込めたのは初めてです。すると娘は、『この日をずっと待っていたのに遅れちゃう』と泣きわめき出しました。遂に私は観念して鍵を開けました。

 私は娘に言いました。『行かないで。ケガをしても治療するお金もないし、以前のように助けてくれる人もいないし、負担は全て負傷者の家族が負うのよ』と。すると娘はこう答えました。『いいえ、私はケガなんてしない。ケガをせずに殉教するから』」

「いつもは私にキスとハグをするのに、その時はしませんでした。鍵を持って走って出て行きました。すぐに姿が見えなくなりました。

 2時間半ほどして、彼女の殉教の報せが届きました。一緒に行っていた弟のムハンマドが知らせに来たんです」

「娘がデモに行く時はいつも不安でしたが、私は、ウィサールはデモの最後列で見物しているだけと思っていました。でも殉教した後に目撃した人から聞きました。娘は最前線の若者に石や水を渡すなど、できうる限りの参加をしていたというんです。

 まさかウィサールに、国境フェンスの前に絨毯を拡げて祈るほど勇気があるなんて…。威嚇射撃をされても動かず祈り続けたそうです。そしてパレスチナの旗をフェンスに立てて戻りました。イスラエル兵は群衆の中に戻った娘を狙撃しました。流れ弾ではありません」

娘の殉死の様子を語る母親リーム(2018年8月/筆者撮影)
娘の殉死の様子を語る母親リーム(2018年8月/筆者撮影)

「他人から聞くウィサールの行動を未だに信じられません。娘がデモで何をしていたか、本人は私に全く話しませんでしたから。殉教してから、聞いて初めて知りました。

 例えば、殉教の2日前の金曜日、催涙ガスを浴びて病院に運ばれた直後にデモに戻るということを3回も繰り返したこともです。その時の写真では、目が腫れているのがわかります」

【娘は誇り】

「最後の日、ウィサールは出かける時にポケットからお金を出して、家族一人ひとりに配りました。最後に1シェケル(30円)が残り、上の息子がふざけて、『お前が死んだら、その1シェケルもらうよ』と言ったら、娘は『だめよ。これはお母さんのだから』と言って、私にくれました。もうお金を使うことはないと直感していたのでしょう」

「『今日は一緒にご飯は食べない』と言って出て行き、実際にそうなりました。信仰の篤い人間には自分に起こることがわかるんですね。

家族が送り出した子どもたちが重傷を負ったまま病院で放置され、ケガの治療もできず、傷口に虫がわいてきたら、悔やんでいるでしょう。ですから、ウィサールが負傷して長く苦しむのではなく、殉教したことを神に感謝します」

殉教する直前のウィサール(遺族提供)
殉教する直前のウィサール(遺族提供)

「殉教の報せを聞いた時は、形容しがたいほど涙があふれ出ました。氷が胸の中に入ってきて、ゆっくり融けていくような感じでした。そして神に感謝できるようになりました。娘が重傷や無残な姿で戻ってくるのではなく、娘が望み通り殉教できたことを。神が娘をお選びになったことを。しかし娘を失った気持ちはとても形容できません。泣かずにはいられません。離別は辛いものです。

 でも娘が逝ったことを私たちは悔やんでいません。娘は私たちの誇りです」

(Q・娘さんが殉教を望んだ理由は、苦しい生活から解放されたかったからではないですか?)

「困難な状況にある人間は、神の御元でのよりよい生を求めます。病気や何かの問題を抱えている人も、あの世で安らかに暮らしたいと願うでしょう。神は娘をお選びになりました。必ず、娘を最上の楽園に導かれるでしょう」

ジャーナリスト

1953年、佐賀県生まれ。1985年より30数年、断続的にパレスチナ・イスラエルの現地取材。2009年4月、ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』全4部作を完成、その4部の『沈黙を破る』は、2009年11月、第9回石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞。2016年に『ガザに生きる』(全5部作)で大同生命地域研究特別賞を受賞。主な書著に『アメリカのユダヤ人』(岩波新書)、『「和平合意」とパレスチナ』(朝日選書)、『パレスチナの声、イスラエルの声』『沈黙を破る』(以上、岩波書店)など多数。

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