ルーツは武田武士団:氷解した会津藩の特別さ

大河ドラマに最近はあまり興味を持ちませんが、ブログ「武田武士団を基盤とした会津武士団の誕生」を読んで15年来の謎が氷解する思いがしました。明治維新の東北地方で会津藩の特別さは際立っているからです。幕末動乱期の京都守護職として活躍、孝明天皇から「会津藩を頼りとしている」旨の「御宸翰(ごしんかん)」を賜り、それにもかかわらず維新戦争では朝敵になって、白虎隊などで知られる壮絶な会津戦争を戦い抜いて果てました。

明治維新の原動力になった薩長土肥など西国諸藩に比べて、ひとからげに守旧派とされる東北諸藩で、会津藩は全く違うと感じたのは、15年前に「インターネットで読み解く!」第54回「明治維新(下)循環社会から膨張社会へ」を書いたからです。そこで会津戦争の砲撃戦について、リンク先が無くなっている引用資料を含めてこう書いています。

「城にたてこもった会津兵の守備は固く降伏させる事はできなかった。倒幕軍も包囲したものの決定的な攻城兵器を持たず勝負の決着はなかなかつかないと見られていた。八月二六日、会津城の近くの小高い丘、小田山を占領したことにより佐賀藩多久兵のアームストロング砲を山上に運び上げ会津城内へ砲撃を開始した」

「アームストロング砲の破裂弾がタイムヒューズ付きで着弾と同時の破裂ではなかった」「弾丸は着弾後、数分間経過して破裂し、現在のように着弾前、着弾、着弾後に爆発するように細かく操作することができなかった。砲弾は発射の時、砲弾の導火信管に火がつくと飛翔中も燃え続け着弾後、十分な時間が経ってから破裂するようになっていた」

「打ち込まれた砲弾を水に濡らした厚布で砲弾の導火線を消して爆発を防いでいた。山川大蔵夫人も城内に打ち込まれた砲弾を処理中に砲弾が破裂し戦死している。籠城中の城内でのアームストロング砲弾の処理は婦女子の役目だったようで、通常は打ち込まれた砲弾を爆発しても被害が及ばないところに運ぶ余裕があることを示している」

熱く焼けて、いつ爆発するか分からない砲弾を、塗れ布で包んで運ぶ仕事。当時の大砲の多くは砲弾を前ごめしており、その際に未燃焼の火薬が暴発して砲手の命を奪うことがたびたびあった。新式のアームストロング砲は砲弾を後ろからこめる形式に改良されていたのに、旧式の大砲を扱う砲手と変わらない勇気と判断力を、保守的とされている、会津の女性達が発揮したであろうことに、少なからず感動した。

最初のブログに戻ると、会津松平家の始祖保科正之は二代将軍秀忠の庶子で「武田信玄の次女見性院に育てられ、その伝手で信濃高遠城主保科正光の養子となった」「保科正之は会津入りに際して高遠時代の家臣を重用し高遠からの人材流出をもたらした一方で、会津が与えられる直前に藩主であった山形藩や保科氏入部以前の会津藩主であった加藤氏の家臣団の採用はほとんど行わなかったという。正之が会津入りしたときの知行取り以上の家臣は四二七名で、そのうち前者の山形藩時代の鳥居氏旧臣の家臣は三〇名、後者の加藤氏旧臣は三一名と、旧武田遺臣の信州武士が会津武士団の中核を占めた」となっています。

豊かな西国諸藩に東北を代表して対峙できた会津藩は、武田信玄が育て、戦国時代に特別な存在として知られた武田武士団にルーツを持っていたのでした。徳川時代は停滞の時代でしたから二百余年にわたって気性・気質を維持することは可能だったでしょう。