日本人も「ブラック・ライヴズ・マター」と無縁じゃない! 音楽や映画から知る、その理由(後編)

(写真:ロイター/アフロ)

いったい「差別」はどこから生まれるのか? 誰がそれを「生み出した」のか?

(承前)

 前編にて、僕は3つの項目において「ブラック・ライヴズ・マター(BLM)」運動について解説した。フロイドさん事件にて怒りの火蓋を切られた人々が掲げる「この旗印」について記した。こんな項目だった。

1:「ブラック・ライヴズ・マター」運動は、なにを目指しているのか?

2:「スポティファイのBLMプレイリスト」から学ぶこと

3:邦訳は「黒人の命も大切だ」でいい

 こちらの後編では、より深く踏み込んでみたい。アメリカの黒人が矢面に立たされている(そして全人類が無縁ではない)「制度的人種主義」の正体、そもそも「レイシズム(Racism)」とはなんなのかについて、書いてみよう。

4:フロイドさんが不当に命を絶たれた問題の本質は「単純な人種差別」ではない

 前編の冒頭で書いたように、これは「肌の色」に端を発する差別ではない。「先にシステムがあって」そして肌の色に帰結する、そういう順序の差別だということだ。

 ではこのシステムの「最初」とは、なんだったのか? まずは、言うまでもなく奴隷制度だ。労働力として「たまたま」有益だったから、アフリカ人はアメリカに連れて来られた。黒人が奴隷だったから輸入した、わけではない。その逆だ。奴隷貿易に関わった西欧人が、アフリカ人を「たまたま」奴隷にしたところから、この「システム」は始まった。「白」が支配する側(経営者)で、「黒」は最下層の労働者だという図式だ。産業革命によって、機械がその場を奪うまでは。

 つまりこれが「制度的人種主義」の起源だ。こんなもののせいで、いまだに「肌が黒い」というだけで、ありとあらゆる「先入観」に晒されて、不利益をこうむっているのが、アフリカン・アメリカンはもちろん、「アフリカ以外の地にいる」ほとんどすべての黒人だということだ。

 この「システム」について、ブルース・スプリングスティーン「アメリカの原罪」言うジョージ・クルーニー「アメリカの最大のパンデミックは反黒人レイシズムだ」言っている。一方スパイク・リーは、この問題は奴隷制度が始まった400年前から続いているとしつつも、アメリカだけが差別をしているわけではない、として「レイシズムこそがコロナウィルスより先の、世界的パンデミックだ」BBCに述べている

 ゆえに僕は、こう考える。「レイシズム(Racism)」を「人種差別」と日本語訳するのは、近年ごく普通のことになっているが、明らかに間違っている、と。人種差別は「Racial Discrimination」であって、「Racism」は「人種主義(場合によっては「民族主義」)」とするのが正しい。

 つまり「人種主義」が悪なのだから、「人種に基づいて称賛する」ことも、やはり本質的に間違った行為だ。たとえば「黒人はリズム感がいい」「黒人はバスケが上手い」――これらも全部、あからさまな「人種主義(Racism)」だ。「アジア人は数学が得意」「アジア人は清潔好き」も、もちろん同じだ。

 要するに「ステレオタイプ的な人種観」によって人を分類すること、そのものが「真の人権侵害」へと容易につながるのだ。「人種観に基づく悪口」だけが悪い、わけではない。

 そしてこの「ステレオタイプ」とは、「制度的人種主義」によって長年煮詰められたものであって、ゆえにその偏見には一切の例外なく、すべてが「完全なる邪悪」へと直結している。このことの恐ろしさを描いたホラー・コメディが『ゲット・アウト』(17年)だった。真のレイシズムの、吐き気をもよおすその醜悪さを(笑いとともに)鑑賞することができる、見事なエンターテインメント作品だった。

5:人種的ステレオタイプこそが「支配の道具」だ

 自分でもどこか悪いんじゃないかと思うぐらい、〈ガーディアン〉の記事を読んでぼろぼろと涙を流したことが僕にはある。いまでもそれは、オンライン上にある。アフリカ出身の俳優、ジャイモン・フンスーがフィーチャーされた、インタヴュー記事がそれだ。

『シャザム!』(19年)や『キャプテン・マーベル』(同)、そしてなによりも『グラディエイター』(00年)のジュバ役での彼の姿を覚えている人は多いはずだ。このときは『ターザン:REBORN』がらみの取材で、2016年11月に記事は掲載された。

ガーディアンより 筆者キャプチャー画像
ガーディアンより 筆者キャプチャー画像

 ちょうどマーベル・ドラマの『ルーク・ケイジ』がスタートする時期でもあった。あの『ブラック・パンサー』も、動き始めていた(フンスーはTVアニメーション版の『ブラック・パンサー』で、主人公ティ・チャラの声を演じていた!)。そうした状況、黒人のスーパーヒーローものが続々と映像化されている状況について「10年前ですら、想像できないことだったよ」として、フンスーは歓迎の意を表していた――のだが、その発言のなかに、こんなのがあった。ここに僕はショックを受けた。

「黒人たちが自分を重ねられるヒーロー像を抱けるというのは、ものすごくいいことだ。きみは想像できるかい? 息子のこんな発言を聞いたときの、僕の悲惨な胸のうちを。彼はこう言ったんだ。『僕は肌が白くなりたい。そうすれば、スパイダーマンみたいに壁を登れるようになるから』――彼はスパイダーマンやバットマン、そのほかみんな、白人のスーパーヒーローしか見たことがなかったからね。息子のその言葉を聞いたとき、僕はとにかく、ああ……自分のすべてが、粉々に砕け散ってしまったんだよ」

「自分自身を認識することは重要だ。ものすごく、重要なんだ。それこそがストーリーを伝えることの価値なんだ。ファンタジー・ストーリーを創造する理由はこれで、だから僕らは創造によって、この現実の人生の状況を、はるかに超えることができるんだよ」

 フンスーの言葉どおり、実写映画版『ブラック・パンサー』(18年)は空前の大ヒットときわめて高い評価を同時に獲得した。また、黒人少年マイケル・モラレスを主人公としたスーパー・アニメーション『スパイダーマン:スパイダーバース』(18年)も、見事な大成功をおさめた。

 これらの作品は、「黒人層に受けた」だけじゃない。まるでマイケル・ジャクソンがポップの歴史を塗り替えたときのような、音を立てて歴史が変わる瞬間の一部となった、そんな現象だった。

 しかし、こうした肯定的な歴史の流れのかたわらで、人目につかない側溝の底のヘドロだまりのような場所で、蓄積し続けていた「憎悪」の集合意識が牙を向いた。醜いバックラッシュが、幾度も幾度も、間欠泉のように吹き上げていた。それがフロイドさん事件にまで、つながってしまった。

6:日本人も「制度的人種主義」の傘下にある

 明治時代の「脱亜入欧」から挙げるべきか。日本こそがアジアの盟主であり、東アジアのなかでは(?)最も白人に近い優越種なのだという無根拠な思い込みが、日本人の一部には連綿とあるようだ。そこから侵略戦争につながって、ひどい失敗に終わったあとも(いや「失敗したからこそ」)中国および南北朝鮮に出自を持つ人々への「いわれなき」偏見と憎悪は、かなり陰湿に根深くある。本質的な自信のなさの反射なのだろう。

 だからまるで、白人至上主義者が「黒人だというだけで」黒人にいちゃもんをつけているかのごとき醜悪と、驚くほどにまで似通った心性を持つ人が、ここ日本にもいるようだ。これについては、こちらの一連の論考に詳しく書いた。

 ひとつ、19世紀末の世界において、のちの時代に「愚行」とされるブーム(帝国主義など)に遅れてのっかろうとして、手弁当でこの「レイシズム・システム」を作り上げてしまったのが日本だ、ということだ。だから「ステレオタイプに基づいた人種偏見」の多寡という観点で見ると、日本はかなりハイスコア(つまり、悪い)国だというのは、国際的な常識になっている。

 単一民族幻想というのが、まず諸悪の根源だ。これこそ「制度的人種主義」にほかならない。だから平気で「日本人は民度が高い」なんて言う。政治家に端を発する「日本のおっさん」は、年がら年中、百年一日のごとく「こういう話題」が大好きだときている。

(だいたい「民度」なんて奇妙な言葉、どうやっても一語で英語にすることすらできない。日本語にとらわれきった人の頭のなかにしかない「珍概念」だ)

 純日本人、純ジャパなどという、どこからどう見てもレイシズム以外の要素は一片たりともないおぞましい概念を、あたかも「誇らしいもの」であるかのように掲げる人もいる。これは正しく末期症状と言うべきだろう。多文化が当たり前のように共生する、健全なる市民社会を指向する「以外の道はない」現代において。

 だからと言うべきだろう、日本は依然として世界に冠たる「女性差別」大国でもある。これもまた、無意味な家父長制の名残りなども含む「システム」ゆえだ(侵略戦争やったのと、1セットの失策だ)。日本の人で「BLM」運動に向かう人々の原動力、心のなかで燃えさかる炎の性質を実感してみたいときは、「女性に対して」日本社会が押しつける各種の不合理を点検してみるといい。きっとそれは、とてもよく似ているはずだ。

 たとえば「女だというだけで」進学も、就職も、すべて「女向けシフト」にて対応される。「女だから」家事を好んだり、あげくは介護も喜んでやるものだ、と「決めつけられ」て、事実上「押しつけられ」て、人生を規定されてしまう――つまり、ひとりの人間として、固有の魂を持つ、かけがえのない「個人」に対しての、最低限の敬意を得る「ずっと以前」の段階で「お前は女なんだから、女がやるようなことをやってればいいんだ」とされる……つまり、人間である前に「ステレオタイプのひとつ」として、他者に勝手に規定されてしまう、わけだ。ここには「屈辱」以外のものは、なにひとつない。

 他者を勝手に「道具のように」とらえる。その前提で「使役」しようとする。それら全部が「された側」にとっては、許しがたい冒涜となる――このことの歴史的教訓は、いくらでもある。こうした種類の、およそ人類が想像できるかぎり最も酸鼻きわまる「悪い例」こそが、「アメリカなどにおける、黒人に対する制度的人種主義」の真実なのだ。

 だからジョン・レノンが72年に「女は世界の奴隷か!(Woman Is a Nigger of the World)」と題した曲を発表したのは、歴史的必然でもあったわけだ。グレタ・トゥーンベリが最強のパンク・ロッカーみたいに輝いているのは、当然のことなのだ。

7:求めるものは「平等」しかない

 ゆえに、フロイドさん事件を報じる日本の報道でよく見かける「白人警官」という物言いにも、かなり問題があると僕は考える。前編の第1項に記した「BLMの要諦」をよくご覧いただきたい。どこにも、ただの一箇所も「白人が悪い」とは、書いていない。実際問題、黒人の警官が黒人の市民に対して不当な暴力を振るう例だってある。

 つまり、表面的な「人種間の対立」ではないのだ。最終的には、事実対立しているわけなのだが、しかし「そうならざるを得ない」間違ったシステムにこそ、問題があるのだ。黒人を殺す「白人の」警官ですら、大きな意味ではもちろん被害者なのだ。

 だから、怒りをもって挑む相手は「この制度そのもの」にほかならない。これを、変えていかねばならない。「このまま」を維持していたほうが、お金が都合よく回って、さらには「自分たちにとってだけは」都合のいい社会が続いていく――と考えている人々の、その「考え」をも、変えていかねばならない。あるいは、そんな制度にのっかって野放図に他者を弾圧することを、もう一瞬たりとも許してはならない。そこに Justice はない。バランスを欠いた不平等があるだけなのだから。

 今回の一連のデモのなかで、問題視され、是正を求められているものに、政府職員の「限定的免責(Qualified Immunity)」がある。これは公務遂行中の職員を訴訟から守るために考案された米国連邦法の法理で「これがあるゆえに」警察官の行き過ぎた暴力、人権侵害につながっている、という見方があるのだ。つまり今回の戦いの一里塚は「ここ」だと言うこともできる。司法制度の改革を、求めているのだ。最低でもそこに手をつけないかぎり、悲劇はいつまでも続いていくのだから。

(日本語で読めるものだと、こちらの記事が詳しい)

 フロイドさん殺害にかかわった警官全員の収監や訴追だけで終わるのではない。「いつの日か」こんな行動を起こさなくてもいいような、真なる「平等(Equality)」を人と人のあいだに行き渡らせる、そんな社会を実現しなければならないのだ。

 サム・クックの名曲「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」も、前編にて紹介したBLMプレイリストに入っている。1964年、公民権運動の真っ只中に発表されたナンバーで、理想の実現までの長い道のりについて歌っている。しかしそこに、悲壮感はない。気高さと、胸躍る歓びだけがある。まるで船乗りが航海時に見上げる星のように、高所から「歩いていく人」を導き、そして鼓舞し続ける、清浄なる息吹きに満ちた極上のソウル・チューンだ。

 いつの日にか、かならず――。