英BBCも慟哭、急逝のDJアンドリュー・ウェザオールの偉業が与えた、日本音楽シーンへの影響とは?

Andrew Weatherall - 12 Mar. 2016(写真:Shutterstock/アフロ)

巨星の、あまりにも突然の死去

 現地時間2月17日、ロンドン市内の病院にて、DJおよび音楽プロデューサーのアンドリュー・ウェザオールが肺塞栓症にて急逝した。56歳だった。このニュースを、BBCを始め、英リベラル系高級紙のガーディアンなどがとても大きく報道した。日本で言うとNHKや朝日新聞に該当するようなメディアが、最敬礼の姿勢で追悼の意を表した。

17日付ガーディアン電子版の訃報記事より
17日付ガーディアン電子版の訃報記事より

 これを不思議に思う人もいるかもしれない。なぜならばウェザオールは一種の有名人ではあるが、イギリスにおいてすら「老若男女だれもが知っている」人ではなかった。音楽で大金を稼いだセレブリティでもなければ、ましてやスーパースターではまったくない。エルトン・ジョンでもなければ、カルヴィン・ハリススティーヴ・アオキみたいなスタジアムを満杯にするDJだったことは一度もない。なのに、上記の状態だったわけだ。

 このことの意味と、彼の成した功績についてここで簡潔に記したい。なぜならば、ここ日本の音楽シーンにすら、まさに「不可逆」の一大変化をもたらした偉人のひとりこそが、彼だったからだ。

 だからもしあなたがウェザオールのキャリアをあまり知らない人ならば、この機会にぜひ、彼の奥深く(ときに不気味なほどに)幅広い音楽世界の一端と接してみてほしい。とくにあなたが、以下のどれかに該当する人だったら……。

彼がいなければ、渋谷系どころか90年代以降の日本音楽シーンは……

 あなたが電気グルーヴのファンだったら。フリッパーズ・ギターの(なかでも第3作『ヘッド博士の世界塔』の)ファンだったら。コーネリアスの、フィッシュマンズの、サニーデイ・サービスのファンだったら……正直言って、すでにある程度の量、アンドリュー・ウェザオールが制作に関わった作品を聴いていないと、じつはおかしい。

 なぜならば日本の90年代以降の「コアな」音楽シーン、とくに渋谷系以降のダンス音楽寄りのシーンに「ほんのすこしでも」興味があった人ならば、(決して全員ではないだろうが、しかし)「ほとんどすべて」の人が「アンドリュー・ウェザオールの業績」に触れているはずだからだ。直接的ではなく、間接的にでも、彼のイマジネーションによって生み出された音楽を「すでに聴いている」に違いないからだ。

 たとえばちょうど、60年代、ポール・モーリアヘンリー・マンシーニが、映画音楽やイージー・リスニングのレコードを通じて「時代の空気」を象徴する作品群を残したように。90年代のウェザオールは、DJプレイと「ミックス」によって、時代の音像を決定づけた。まさに、比類なき影響力を誇る「音楽人」が彼だった。

 この状況は、本国であるイギリスではさらに支配的かつ「決定的」だった。90年代初頭、英音楽シーン全体を揺り動かしていた革命的な大波の先頭にて、ほとんど一騎当千の趣で、時代を画する業績をおさめたのがウェザオールだった。それまで市場の主流だったロックが「ダンス音楽を大きく取り入れていく」その大変動の突端に立っていたのが彼だった。

 なんと言っても『スクリーマデリカ』(91年)が大きい。英バンド、プライマル・スクリームのこのアルバムを、ウェザオールは「革命的な」方法でプロデュースした。このアルバムは、イギリスで売れに売れた。そして、英シーンにとてつもなく大きな影響を与えた。

革命的だったウェザオールのプロデュース法

 どう革命的だったのか?というと、基本彼が「勝手にいろいろ、やりたいようにやった」からだ。つまり、バンドが生演奏して仕上げたベーシック・トラックがあったとすると、これを前に「いろいろ」調整する。マルチ・トラックに収録されているそれぞれの音を、音色そのほか、ひとつひとつ「調整」するのはもちろん、切り貼りもする。

 たとえば、ひとつらなりのドラムとベースのフレーズを切り出して、それを複製して増やして、つなぎ合わせる――いわゆる「ループ」という手法だ。あるいは、バンドの演奏以外のところから音源を持ってきて、それもトラックに取り込んでいく――これは「サンプリング」だ。ありとあらゆるエフェクターやエコーやディレイを「かけまくる」ことも……。

 つまりクラブ音楽、とくにヒップホップ周辺では常道だった発想と手法を、なんと彼は、ごく普通のインディー・バンドだったプライマル・スクリームのアルバムで思いっ切り実践してしまう。線の細いガレージ・ロックや、きらきらしたギターの響きが特徴的なフォーク・ロックが得意だった、地味めな中堅バンドが……このとき「化けた」。このアルバムの彼らは大化けに化けて、スーパースターとなった。同作はあらゆるメディアから、きわめて高く評価され、90年代を代表する名盤としての位置を獲得した。

『スクリーマデリカ』がなにもかも変えた

 僕自身、一体全体、幾度このアルバムの収録曲を聴いたことか。自ら聴かずとも、あの当時、レコード店でもクラブでもカフェでも、友だちの家でもクルマでも、海でも山でも、ヨーロッパはもちろん、アメリカでも両コースト・サイドの都市部なら、足を向けたところの「どこででも」同作の曲は流れていた。さらに『スクリーマデリカ』に影響を受けた曲やアルバムが、この後、雨後の筍のように増殖していった。

 さらに、こんなのも「増殖」していった――ロック・バンドやアーティストが、正規のアルバムが完成したあとに、クラブ寄りの『リミックス』トラックを作ること。それをシングルにして発売してみること。なにはともあれ「クラブ寄り」の雰囲気に、ファッションや音楽性を自己改造してみる、こと……これらの「すべて」ではもちろんないが、しかしかなりのところまでは、『スクリーマデリカ』のすさまじい成功の影響下にあった。

 すなわち、ただただ「アンドリュー・ウェザオールの業績」の影響下にあった。彼が成し遂げた革命の、その波の一端に、驚くほど多くの人々が飲み込まれていたわけだ。

 この前段階として、80年代の終盤、ハウスやテクノ音楽の流行がロック・バンドに影響を与える例が、いたるところで増えていた。イングランド北部の都市マンチェスターが震源地のひとつとなって、バンドがアシッド・ハウスを取り入れて、新しいムーヴメントが生まれたりもした(いわゆる「マッドチェスター」ブームだ)。この流れの延長線上に、プライマル・スクリームによるウェザオール起用があった。

 クラブDJとしてキャリアをスタートさせたウェザオールは、同時にジンやレコード・レーベル、音楽ユニットなども運営した。「アンダーグラウンド」なシーンにて活動を始めていた。ダンス音楽全般と同時にパンク・ロックや古いロックンロール(ロカビリー)などにも造詣が深いところが彼の音楽性の特徴で、そうしたところから『スクリーマデリカ』を成功へと導くことができたと分析されている(また、プライマルのよき理解者でもあった)。

なぜ彼は「大富豪DJ」にならなかったのか?

 さて、ここからが本題だ。「これほどの成功を」成し遂げたのに、なぜにウェザオールは「人もうらやむ大富豪」に、ならなかったのか? アメリカのどこか気候のいいところ(マリブとかフロリダとか)に大豪邸を構え、自家用ジェットで飛び回る「セレブDJ」は、今日結構な数いる。アンダーグラウンドなダンス音楽を、ポップ界の最上位に持っていってヒットさせることにかけては、まさに「先駆者」とも呼ぶべき存在だった彼が、なぜにそうした「セレブ」にはならなかったのか?

 このことの答えについては、17日付のガーディアンの評伝記事に収録されていた、かつて本人が発したコメントをご覧いただきたい。

「(ほとんどのミュージシャンは)自分たちのレコードを自分の好きな音にしたがる」から、あるポイントより先をすべてウェザオールに任せきることを躊躇した、のだという。なによりもレコード・レーベルが、彼の仕事法を正確に知ったあとに「びびって」しまったのだそうだ。せっかくバンドが録音したものを「好き勝手に料理してください」と差し出すなんて「あまりにもリスクが大きい」と、レーベルの担当者たちは考えたのだ、という。まあ考えてみれば、それはそれで、ごく普通の反応だったのかもしれないが……。

「どんなビジネス・キャリアでも同じで、退屈でやっかいな面がある。いろんな人とミーティングしたりとか。僕はミーティングなんかしたくない……僕のこと『野心がない』って、言ってくれてもいいよ。でも僕は、僕のままで問題なかったからね」

 ということでつまり、なんと、あろうことか「アルバム『スクリーマデリカ』の成功方程式」は、その後ただの一度も「再現されることはなかった」のだ! どのバンドも、レーベルも、91年のプライマル・スクリームのように「ウェザオールにすべてを任せる」ことはしなかった(やれなかった)。プロデューサーとしての関与があっても、それは限定的なものだった。

 この点は、じつは「『スクリーマデリカ』の作業方式」は、もしかしたら日本のバンド、フィッシュマンズが勝手に受け継いでいた、のかもしれない。稀代のミックス・マスターZAKと組んでからの彼らは「ベーシック・トラックを録ったあと」は自由時間と化していて、ミックス作業のすべてを基本的に一任していた。作業が終わったZAKが「できたでー」と、夕食の準備を終えたお母さんのように声をかけて初めて、三々五々、メンバーがスピーカーの前に戻ってくる、という様子を僕は目撃したことがある。あれはもしかしたら(たまたま)スクリーマデリカ時のプライマルとウェザオールの関係性と同じ!だったのかもしれない……。

そして彼は、「市井」に生きた

 ただし、当のウェザオールも仕事にあぶれたわけでは全然ない。それどころか、『スクリーマデリカ』前後から彼は驚異的な大忙しだった。特定の曲の「リミックスを任せる」リミキサーとしては、業界屈指の人気者となったからだ。印象的なところだけを、ざっと挙げてみても……ハッピー・マンデーズ「ハレルヤ」、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン「スーン」、90年W杯時のイングランド・チームのテーマ曲だったニュー・オーダー「ワールド・イン・モーション」、そしてニール・ヤングのヒット曲をカヴァーしたセイント・エチエンヌ「オンリー・ラヴ・キャン・ブレイク・ユア・ハート」を、思い切って「完全なレゲエ」に持っていったトラックなども、画期的だった。

 また、いろんな名義を次から次へと駆使しては、自分の曲も旺盛に発表し続けた。これらの名をコピペして、ぜひ検索して聴いてみてほしい。The Sabres of Paradise, Two Lone Swordsmen, The Asphodellsなどのユニットを率いたほか、もちろん本人名でもソロ作品を多く発表していた。

 クラブ・イベントも運営、自身の原点である「ダンスフロアを前にしたDJ」の場所からは、一歩も動かなかった。そこが大会場だろうが、パブにもほど近いほどの小さな空間だろうが、まったく同じ態度で「回し」続けた。音楽性も幅広く、テクノはもちろん、レゲエの一形態から進化した「ダブ」の手法を駆使することには定評があった。『スクリーマデリカ』にあったハッピーで明るいタッチから、ホラー趣味、陰鬱さの奥の苦いユーモアまで、いろいろな世界観を「彼にしかやれない」冒険心をもとに探究した。

 だからウェザオールは「セレブ」にはなれなかった。なりたくもなかった、のか、なろうとしてなれなかったのかは、僕にはわからない。ただひとつ間違いのないことは、彼は自分の音楽に「忠実だった」ことだ。自分の作るべき音楽の、その方向性に。作る前段階の、リスナーとして聴いたときの「好きな音楽の感じ」に。あるいは「音楽を好きになる」自分の、その魂の波動に。愚直なまでに。

おやっさん、安らかに…

「DJするというのは、すごく吸血鬼的な行為なんだよ。初めてそのレコードを聴いたときの気持ちを、もう一度体験することって不可能だよね? でも、もしきみが、そのレコードを初めて聴いた人の目のなかを覗き込むことができたなら、その人の感覚を、わがことのように感じられるかもしれない。それって素晴らしい追体験じゃないか」(17日付ガーディアンの訃報記事より)

 これほどまでにもロマンチックな言葉で、DJの愉しさの醍醐味を、録音された音楽に心惹かれる瞬間のときめきを語った例を、僕はほかに知らない。

 アンドリュー・ウェザオールは、周囲から愛を込めて「The Guv'nor(親方、おやっさん)」と呼ばれていた。市井に生きた、まさにロンドナーの「粋」を生きた人だった。こんなに早く、地上の彼と別れることになるとは思っていなかった無数の人々が、いま涙に暮れている。