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電気グルーヴの二の舞か、槇原敬之の全作消滅? 日本レコード会社のガラパゴス的「自粛」の異様さとは?

2017年の槇原敬之(写真:つのだよしお/アフロ)

また「自粛祭り」の狂態が始まった

 あまりにも、目に余る。シンガー・ソングライターの槇原敬之が、覚せい剤取締法違反(所持)と医薬品医療機器法(旧薬事法)違反の疑いで、13日、警視庁に逮捕された件と、それにまつわる報道の異様さのことだ。

 また芸能業界の麻薬汚染か、といった嘆息は僕にはない。麻薬で法律違反した人は、相応の刑事罰を受ければいい。異常なのは、なんら法律にも契約にももとづいてない「自粛」のほうだ。「またしても」なんだかよくわからない理由で、アーティストの作品が闇に葬られようとしている……このことに、僕はとても深い憤りを感じる。「自粛」やら「禊(みそぎ)」やらに見せかけた、まったく必要のない弾圧、示威行為に辟易する。

 逮捕そのものについては、僕は新聞報道以上の情報を持たない。だから「おかしな時期の逮捕だ」という印象を持つ程度だ。2年前の「所持疑い」の件で引っ張ったと書いていたから、「いまここ」というタイミングを狙う理由が、なにか別にあったのだろう。

 たとえば、今年が槇原敬之の「デビュー30周年イヤー」で、いろいろと大がかりな活動やプロモーションが予定されていたから、「そこを潰せば」世間への周知の効果も高いという読みだったのかもしれない。

 しかしなによりも先に僕が連想したのは、昨年3月に違法薬物で逮捕されたピエール瀧のことだ。あのときも「電気グルーヴ30周年記念ツアー」の真っ最中というタイミングだった。警視庁には「薬物でクロい奴に30周年は拝ませない」とかいった、鬼の不文律でもあるのだろうか。少なくとも、薬物を使用している芸能人で「周年行事」が近い人はみな、戦々恐々とすることは間違いないだろう。

 だから「逮捕そのもの」の是非を問う気は僕にはない。しかし「逮捕された途端に」なぜか堰を切ったかのように一斉にあふれ出た、スポーツ新聞などが嵐のように報道する「自粛祭り」の狂態ぶりは、看過することはできない。よって、その異常性を指摘していきたい。

なぜすぐに「被害総額」の話か。一体なんの被害なのか

 スポーツ報知の記事が狂態をよくまとめている。

「槇原容疑者逮捕、損害10億円超か ベスト盤発売&ツアーは中止確実…楽曲提供キムタクらも影響」]

 詳細はリンク先を参照いただきたいが、とにかく「大物」である槇原がこのようなことを「しでかす」と、いろんな関係先に「迷惑がかかる」ということを、記事は能弁に伝えている。そしてその「被害総額」が10数億円と見積もられていて……と、悲しいことに我々としてはもはや、よく目に馴染んでしまった文言が続く。

 なぜならば「いつの間にか」ここ日本国では、音楽家や俳優が違法薬物を使用して逮捕された場合、瞬間的にあらゆる活動が「自粛」の対象となる、ようなのだ。不倫も同様の場合もある、ようだ。なぜなのかは、まったくわからない。というか我々部外者には「わかる必要もない」ということなのだろう。なぜならば「自粛」なのだから。当事者や関係者側が、内部の論理にしたがって「勝手に」やることなのだから、と――。

 対象が槇原のように音楽アーティストの場合、こんなふうになる。CDやレコード、配信用の楽曲などすべてが流通停止。コンサートも中止。CMや他者への楽曲提供なども基本ストップ……ということが、当たり前だとされている。誰ひとりとして、その「理由」をつまびらかに説明することもなく。

 そんな馬鹿な話が、あるわけがない。しかし、日本にはどうやら「ある」ようだ。電気グルーヴでやって、誰かが味をしめたのだろう。だからつまり、こんなことが「ある」ようになった日本というのは、果てしなく「馬鹿な国」になった、ということだ。

電気グルーヴの全作品は「焚書」された

 断っておくが、僕は槇原敬之の熱心なファンだったことは一度もない。また、薬物使用者へのシンパシーもない。僕は酒も煙草も白米も(玄米も)摂らない。だがしかし「違法薬物の使用」が理由となって、ある人物の音楽作品が社会から消されてしまうことに、なんの社会的意義もないことだけはわかる。

 麻薬中毒者の音楽だって、よければいいし、悪ければ悪い。聴くことによってとくに僕に害はない。都市部で歩き煙草をしている人のほうが、よっぽど迷惑だ。しかしそれで(歩き煙草や路上喫煙への処罰で)人生が台なしになった、キャリアが終わりとなった人の例など、聞いたこともない。不思議なことに。

 昨年のピエール瀧の逮捕を機に、いま現在に至っても、電気グルーヴの作品は流通のすべてが「停止」している。CDなどパッケージ商品の新品は回収され、スポティファイそのほかのサブスクリプション・サーヴィスからも楽曲が引き下げられている。レーベルのソニーが決定した措置として、彼らの「30年間」の尊い蓄積が、物理的に「闇に葬られて」いるわけだ。

 いまのところ、僕の手元にある盤を「燃やすから渡せ」と、取りに来た人はいない。そのうち、誰かがやってくるかもしれない――というのがあながち冗談でもないのは、この一連の行為の本質は、まさに「焚書(ふんしょ)」と呼ぶべきものだからだ。そして焚書とは、ナチスがおこなった行為であることからよくわかるように、まぎれもなく「人類の歴史上における汚点」のひとつにほかならない。

 つまり、槇原敬之は、いままさに、こんなふうに威圧されている、ということだ。「電気グルーヴと同じ目に合わせてやるぞ」と。「30年間の営為を、その音楽家人生のすべてを『無』にしてやるぞ」と。もしかしたら警視庁はなにも言っていないのかもしれない。しかし「スポーツ新聞は」明確に言っている。威圧行為をおこなっている。

ポップ音楽先進国では、違法ドラッグで「自粛」などあり得ない

 さてところで、日本におけるこうした威圧や弾圧、「自粛圧力」やらは、決して国際標準ではないことを、ぜひ知っていただきたい。大きな声で友人知人に伝えて、当たり前の常識として、世に広く知らしめてもらいたい。

 たとえば、ポップ音楽の原産国であり先進国でもある米英においては、違法薬物の使用を理由に、アーティストの作品が「焚書」されることは、まずない。逮捕・有罪となったケースはもちろん、薬物使用を自ら公言した場合も同様で、「そのこと自体では」作品の流通にも、ライヴ公演にも、まったくなんの影響も出ない。

 もちろん、がっかりしてファンをやめる人はいるのかもしれないが、それは個人的なことだ。大手メディアが自粛圧力を盛り上げて、レコード会社が動いてうんぬん……なんて話は、僕が知るかぎり、ただの一例もない。違法薬物問題にかんしては。

 ここに簡単な一覧がある。「ドラッグやアルコール依存症と闘った30人の有名音楽家」というもので、依存症対策のためのウェブサイト「DRUGABUSE.COM」が制作した。オジー・オズボーン、ニルヴァーナのカート・コベイン、マイケル・ジャクソンを始めとして、ビートルズからはジョン・レノン(そしてヨーコ・オノ)、ジョージ・ハリスンら大物が並んでいる。今年は生誕75周年ということで、まさにジャマイカが国を挙げて祝福しているレゲエ界の頂上にいつまでも君臨するスーパースター、ボブ・マーリーも、もちろんマリワナで逮捕歴がある。あまり日本では知られていないところでは、いまや王室から「サー」の称号を得た、英国を代表するアーティスト、エルトン・ジョンの麻薬癖も有名だ。自伝映画『ロケットマン』のなかでも、きちんと描写されていた。こんなシーンで。

 そして言うまでもなく、これらのアーティストの作品が、電気グルーヴと同じ理由で「流通停止」となったことは、これまでに一度もない。日本でも、もちろん普通に流通している。

R・ケリーまで行って初めて、作品が「回収あつかい」となる

 とはいえ米英でも、アーティストの犯罪行為が作品流通に影響する例が「まったくない」わけではない。こちらの記事がわかりやすい。「【コラム】なぜ日本では「容疑者」の作品は自主回収されてしまうのか」(FNMNL フェノメナルより)。昨年の3月、ちょうど電気グルーヴの「焚書」が始まったころの記事だ。

 ここでは、米英のヒップホップ/クラブ音楽のクリエイターたちにいかに薬物使用者が多く、使用もしくは所持での逮捕も多く、「しかし、それでも一向に」作品は焚書されてはいない事例が縷々記されている(そうそう、たしかにブルーノ・マーズも2010年にコカイン所持で逮捕されていた! もし焚書があったなら、彼のキャリアはここで終わっていた。恐ろしいことに)。

 では、一体どのようなケースで「流通が停止」となるのか、というと、R・ケリーの例が挙げられている。彼が未成年者を含む多数の女性に性的虐待などをおこなった、という容疑への反応だった。つまり、他者の基本的人権の侵害となるような種類の犯罪をおかした可能性への反応だ。さらには、彼の音楽そのものが女性への支配的行動を示唆したものとしても、非難された。R・ケリーの所業を糾弾するドキュメンタリー映画が制作され、#MeTooならぬ「#MuteRKelly」が立ち上がり、所属レーベルであるRCAはカタログから彼の作品を削除し、新作のリリースも差し止めたことは記憶に新しい。ちなみにR・ケリーは現在まだ多数の容疑で公訴中の身だ。

 しかし僕は寡聞にして「#Mute電気グルーヴ」も「#Mute槇原敬之」なる運動もハッシュタグも、一度も見たことがない。当たり前だが、違法薬物の使用や所持が、それだけでは、とりたてて他者の基本的人権の侵害とはなり得ないからだ。なのになぜ、これほどまでに大騒ぎして「自粛」するのか?というと、そこには法理ではなく、たんに日本の芸能業界特有の「ムラの事情」があるに過ぎない。

日本のレコード会社の不思議な商習慣に「自粛」の根がある

 たとえば、日本の「アーティスト」――つまり作詞作曲をおこなう、または歌ったり演奏したりして楽曲を実演する者――が、レコード会社と「直接」契約することは、まずあり得ない。アーティストは大抵、マネジメント事務所と先に「専属契約」をする。そしてその事務所が、レコード会社とアーティスト間の「契約を代行」する。だからアーティストの立場は、マネジメント会社の一種の準社員のようなものとなる。

 レコード会社とアーティストのあいだに結ばれる契約の基本型は、アーティストが制作した音楽(作詞作曲、あるいは実演したものの録音物)を複製する権利についてのものだ。録音されたマスター・テープは「原盤」と呼ばれ、これを制作する際にかかる費用を出した者が、その比率に応じて「原盤権」を得ることになる。つまり、スタジオや機材を使用して作るわけだから、そうしたコストを捻出した者が「原盤保持者」となる。

 そして日本では、ほとんどの例でこれは、レコード会社が100%持つか、事務所と折半するか、楽曲の管理をおこなう音楽出版社との三等分となるか……といった形での「按分」となる。利益配分も、この比率にのっとっておこなわれる。アーティスト自身が自らの原盤を100%保持できることは、原則ほとんどない。なぜならば、「アーティスト以外の者」は、ここで原盤をおさえていないと商売上のうまみがまったくなくなるからだ。

 そして電気グルーヴの場合は、所属事務所も、レーベルも、そのすべてがソニーだった。だからこうした図式が容易に想像できる。ピエール瀧の不祥事によって「撮り直し」となったドラマやCMへの賠償金は、「(一時的にでも)所属事務所が立て替えざるを得ない」かもしれない。そうなると「そんな不祥事を見過ごしていた」事務所の責任問題を、ソニーが全社的に追及せねばならなくなる。であるなら「会社の『財産』である、電気グルーヴの『原盤』を全部眠らせて」そして、賠償を求めてくる相手やら「世間のみなさま」に平身低頭して、嵐が過ぎ去るのを待つしかない……。

 おわかりだろうか? まるで「不祥事があった会社」の、謝罪会見みたいな話に、いつの間にかすり替わっているのだ。「アーティスト」が所属しているのが「日本の会社だ」というだけで。「原盤を持っている」のが「日本の会社だ」というだけで……「人の罪と芸術」の話などではまったくない、妙な角度の話へと変質してしまっているわけだ。

派遣切りのように、下請けの「詰め腹」のようにして、捨てられる

 だがしかし、電気グルーヴは終身雇用で正規採用されたソニー・グループの正社員ではない。ゆえにまるで「派遣切り」のようにして捨てられるわけだ。レコード会社にとっては「宝」と言うほかない、優れた楽曲を数多く生み出した「アーティスト」が彼らだったのだが……日本の会社の論理のなかには「芸術への敬意」というものはまったくない、のだろう(しかも、ピエール瀧=電気グルーヴというわけでもないのに)。

 槇原にかんしては、近年の彼は自らが運営するレーベルにて原盤管理をおこない、マネジメントも自分で運営していた。実力と資金のあるアーティストにしかできない、まるで欧米のような「特例」的な立場で活動をおこなっていた。だがしかし、現在の作品の流通はソニー・グループだったから、ある意味電気グルーヴに対してと同様の「企業の論理」が発揮されたのかもしれない。電気グルーヴが派遣社員扱いだとしたら、この一件で、槇原はさながら下請けあつかいとなった、のかもしれない。工事現場で事故が起こったとき、まず真っ先に「元請け」が頭を下げることなどない、という理屈と同様の。

 日本のムラ社会には「頭だけ下げてればいい」として、本質的には頬かむりして「何ひとつ変えない」し、責任者も特定せずに「結局一切の責任はとらない」という企業文化風土が根強くある。政治家も同様だ。にもかかわらず「その共同体の成員ではない者」には、いつも詰め腹を切らせる。たとえば、不祥事で追いつめられた政治家の秘書はよく自殺する。なぜかこのメカニズムが、エンターテインメント作品にかかわる「アーティスト」にまで敷衍されているのが、この一連の「自粛祭り」の本質なのではないか。

 なぜか突然(30周年を機に?)挙げられた槇原敬之の作品が、電気グルーヴ同様に「焚書」されていくのかどうか。その動きから、我々は目を離してはいけない。そこには一片の正義すらもないからだ。だってそんな条項、きっと契約書にすら記してないはずだから(でしょう?)。「違法薬物に関係した場合、全作品を流通停止とする」なんてのが、そもそも双方合意した上でサインしているのなら、話は別だ。だがしかし、そんな内容の契約書は、少なくとも僕は一度も目にしたことはない(そして、だからこそ「スポーツ新聞であおって」既成事実であるかのように固めようとしているのだろう)。

 正義もなく、芸術への、アーティストへの敬意もない。人間としての、最低限の自然な感情の発露としての「お互い様」とかいった温かみすら、一切ない。槇原敬之の報道から透けて見えてくるのは、薄暗い「ムラ社会」の象徴としての「日本の会社特有の論理」でしかない。まるで江戸時代の身分制のアナロジーのような、気色の悪い上下関係の影だけが、薄ぼんやりと。

 そして言うまでもなく、そんなことばかりやってるから、会社立国ニッポンは根腐れして、日々下へ下へと沈降していくばかりだ。しかし一方、エルトン・ジョンやブルーノ・マーズは、地球中どこでも愛されて、売れ続けているのだが……。

作家。小説執筆および米英のポップ/ロック音楽に連動する文化やライフスタイルを研究。近著に長篇小説『素浪人刑事 東京のふたつの城』、音楽書『教養としてのパンク・ロック』など。88年、ロック雑誌〈ロッキング・オン〉にてデビュー。93年、インディー・マガジン〈米国音楽〉を創刊。レコード・プロデュース作品も多数。2010年より、ビームスが発行する文芸誌〈インザシティ〉に参加。そのほかの著書に長篇小説『東京フールズゴールド』、『僕と魚のブルーズ 評伝フィッシュマンズ』、教養シリーズ『ロック名盤ベスト100』『名曲ベスト100』、『日本のロック名盤ベスト100』など。

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