「ラップも天才肌」だったコービー・ブライアントを、彼のフェイヴァリット・アルバム3選とともに追悼する

第62回グラミー賞受賞式会場にて、コービー・ブライアントが追悼された(写真:ロイター/アフロ)

ヒップホップ音楽好きだったコービー

 あまりの衝撃に打ちのめされたまま、無数の人々が立ちすくんでいる。NBAに数々の記録を残した不世出のバスケットボール・プレイヤーであり、ロサンゼルス・レイカーズ一筋の輝けるスーパースターだったコービー・ブライアントが、現地時間1月26日午前、LA郊外にて、ヘリコプター事故によって帰らぬ人となった。41歳の若さだった。次女のジアナも含め、同乗の9名が犠牲となった痛ましい事故だった。

 奇妙な巡り合わせと言うべきだろう。事故の直後、レイカーズの本拠地であるLAのステイプルズ・センターでは、グラミー賞の授賞式が華やかに開催されていた。だから急遽、リゾ、アリシア・キーズとボーイズIIメンらが、発言やパフォーマンスのなかでコービーを追悼した。リル・ナズ・X、エアロスミスとランDMCも追悼の意を示した。

 じつは僕も、一報を耳にしたあとの衝撃のなか、耳の奥のほうで鳴り始め、そのまま止まらない音楽があった。それについて書く。

 コービー・ブライアントは、ヒップホップ音楽の大ファンだった。お蔵入りになってしまったが、自らがラップするフル・アルバムまで制作していた。だから彼に思いを馳せ、追悼するよすがとして「コービー・ブライアントが好きだったラップ・アルバム」をここでご紹介したい。

コービーはジェイ・Zと同じ年にデビューした

 なんと言っても、コービーはジェイ・Zの大ファンだった。13年、「フェイヴァリット・アルバムは何?」という質問に、コービーはこんなふうに答えている。

「ジェイ・Zの『リーズナブル・ダウト』が、いまだにずっと、僕のフェイヴァリット・アルバムだと言わなきゃならないな」

 同作はジェイ・Zのデビュー作であり、コービーのレイカーズ・デビューと同じ年の96年にリリースされた1枚だった。さらにこう続けた。

「『アメリカン・ギャングスター』(07年)が僅差の2位。ビギー・スモールズ(ノトーリアスB.I.G.)の『ライフ・アフター・デス』(97年)も。でもやっぱり、なんと言っても『リーズナブル・ダウト』かな」

 2位として挙げた『アメリカン・ギャングスター』もジェイ・Zの一作であり、リドリー・スコットが監督した同名の実録ギャング映画にインスパイアされたコンセプト・アルバムだった。『ライフ・アフター・デス』は、24歳の若さで非業の死を遂げた(何者かに射殺された)ノトーリアスB.I.G.の2枚目のアルバムであり、生前最後の1枚だった。「死後の生」という意味深なタイトルが、のちにいろんな深読みも生んだ。

たった一日で、アルバムのリリック全部を暗記した。「あいつ、天才なんだ」

 ジェイ・Zとコービーについては、こんなエピソードがある。90年代後半、ヒップホップ・シーンにおいてまさに「君臨」していたジェイ・Zは、コービーのみならず、レイカーズのほかの選手たちのあいだでも、もちろん大人気だった。だからアルバムの発売日にはみんなそれぞれに自分用の1枚を買って、お気に入りの曲を憶えてラップしたりしていた、という。だから移動用のバスの車中はさながらラップ大会みたいになった。しかし……そこで「群を抜いた」あり得ない天才性を示したのもまた、コービーなのだった。

 チームメイトだったブライアン・ショウが語る。

「みんな、憶えたといっても最初の数小節ぶんのラップだったり、フック(サビ)のところだけだったりなんだよ。それがコービーは『すべての曲の、すべての言葉』をラップできるんだよ。アルバムが出た翌日にはね。『歌詞全部』やっちゃうんだ。もう本当に、信じられなかったね。なんでそんなことがやれるのか、誰にもわからなかった」

 ショウはこれを「史上最大の達成」なんて呼んでいた。だって一日24時間・一週間7日全部、バスケットボール漬けの日々を、チームメイト同様にコービーも送っていたのだから。「歌詞全部なんて、そんなのいつ憶える暇があったんだ?」と、彼が謎に思っても不思議はない。

 同じくチームメイトだったデヴィン・ジョージはここまで言う。

「すごすぎて、意味がわからなかった。いつも不思議だったんだよ。でも、あるとき気づいたんだ。『たぶんあいつ、天才なんだ』って。もしジェイ・Zからアドバンスド・コピー(注:リリース前に関係者などに配る試聴盤のこと)をもらってたとしてもね……いやほんと、神懸かってたよね」

ラップ・アルバムも制作されていたのだが……

 天は二物も三物も与えていた、ということか。あれほどの運動能力を発揮できる反射神経、視力や聴力などの高さも当然基礎的にあったにせよ、チームメイトをしてここまで絶賛(もしくは不気味)呼ばわりさせるほどの「ラップ能力」が、コービーにはあった。実際問題、彼は高校時代にはバスケのみならずラップ・グループの一員としても活躍していた。だからこっちも年季が入っていた。

 そんなところから、コービーは自らのラップ・アルバムの制作にも挑んだ。彼自身の指向性はアンダーグラウンド・ヒップホップだったのだが、レーベルであるソニーの意向に沿って、もっとメジャー路線で行くことになった。00年、スーパー・モデルのタイラ・バンクスをフィーチャーしたシングル「K.O.B.E.」が制作され、同年1月のNBAオールスター・ウィークエンドで本人実演のもとお披露目もされたのだが……残念ながら、いまいちこちらの評判はよろしくなかった。そのせいか『Visions』と名付けられていた、制作中だったコービーのデビュー・フル・アルバムはそのままお蔵入りとなった。

 僕としては、この失敗はコービーのせいではなく、数年前のウィル・スミス的な(「ゲッティン・ジギー・ウィズ・イット」みたいな)ところを狙ったミス・ディレクションのせいだと思っている。彼本来のラップの片鱗を知るなら、ブライアン・マクナイトのナンバー「ホールド・ミー」(98年)での客演を聴くといい。2分35秒過ぎぐらいから、MVにも登場してくる。まさに堂々たる、腹の据わったラップ姿は必見だ。

ポップ文化全体を揺り動かした、希有の存在だった

 映画においても彼の才能は生かされた。言葉のセンスがとにかく優れているのだ。コービーが脚本とナレーションを担当したアニメーション作品『親愛なるバスケットボール』は、なんといきなり、18年度アカデミー賞の短編アニメーション部門を受賞している。もちろん、元NBA選手でアカデミー賞を獲得したのは、彼が初めてだった。

 同作は日本人の目からは、それこそ井上雄彦『スラムダンク』や『リアル』など(を素描画で表現したような感じ)を想起させられる一作だったはずだ。また井上三太を始め、アメリカのポップ文化に親しんでいる日本のクリエイターに、まさに「想像力の翼」と呼ぶべき、甚大なる影響力を与えてくれたのも、コービーその人だった。

 マイケル・ジョーダンら「ドリームチーム」第一期生が切り開いたNBA黄金時代と、ヒップホップ音楽の怒濤の隆盛とは、ほぼ同じタイミングだった。これらが世を席巻する大きな大きな渦のなかに、あるとき忽然と登場した若き天才こそがコービー・ブライアントだった。彼のプレイはコートのなかだけではなく、ポップ文化の全体をも大きく揺り動かした。そして人々の、ひとりひとりの人生に、大きく肯定的な変化をもたらした。

 これからも幾度となく思い出すだろう彼の記憶のなかに、彼が愛した音楽も、ぜひ付け加えてほしい。コービー・ブライアント、安らかに。