復興の街 本音ぶっちゃけ?ぶらり旅 女川(3)

夕暮れの女川駅前商店街/筆者撮影

ようやく女川の人と話す

女川港から船に乗り、8年ぶりに江島に行った。この旅は後日、別の本で書く予定なので、ここでは書かない。まあそんなに変わっていなくて平和だった。

そして女川に戻ると夕方、居酒屋の明かりがポツポツともる。前夜はサンマの頭が右向きで出てきて玉砕したが、あきらめずもう1軒、どこかに入ってみよう。

ここどうだろう。駅前復興商店街の隅っこに立つ1軒で、ガラス窓越しに黄色いメニュー札が貼られているのが見える。マジックの殴り書きでウインナー盛り合わせ、枝豆、コーンバター、ポテトサラダ。海鮮丼の「か」の字もない。入ってみる。こんばんはー。

「いらっしゃーい」

うわっ! 店の人もお客も、ほぼ全員元ヤンまたは現役ヤンキー!? 一瞬ひるむが、それでも皆さん口々に「いらっしゃーい」と笑顔で言ってくれるので、オズオズと店の中へ。とりあえず中ナマをブハーッ! つまみはウインナーとポテトサラダ。そして店内を流れるBGMはジャズピアノ……じゃなくてマイケル・ジャクソン『Beat it』! ようやく落ち着く。ふうっ。

店内にいる人は全員、震災前から女川に住む人たち。そして「8年ぶりに来ました」と言うと、皆さん勢いよくしゃべり出した!

「テレビ見なくなっちゃったよ。今でも3.11が近くなると〈東北を、忘れない〉とか言うじゃん。忘れていいって! もう6年も経ったんだから」えーっ?

「甘えていいのは3年まで。働かなきゃ」「働かなくなった奴もいるけどな」「ここ(駅前商店街)はテナント料も安くないから。昔みたいに自宅で店をやっていた頃とは違う。働かないと」

話した人の中には、抽選に外れて仮設に入れず、最近やっと公団住宅に入れたという人もいた。十分甘えていいと思うがでも「忘れていい」と言う。いつまでも「被災者」として、憐れみの目で見られるのがイヤなのかもしれない。

思いきって「駅前商店街、僕ら東京者が思い描く女川のイメージと違いますよね」と言ってみると、

「でしょ! ホラ東京の人もやっぱりそう思うって!」

だって。なんと地元女川の人も、同じ違和感を抱いていた!?

ここから先に聞いた話はちょっと書けないのだが、憤りつつ思った。いったい誰のための〈復興〉なのか。

「街って〈つくる〉もんじゃないと思う。結局は1軒1軒がしっかりやらないとダメなわけでね」同感です。さらに倒れた交番について聞くと、

「なんでアレを残すのかな(個人の感想です)」って再びえーっ?

津波の凄さを伝えるために残すなら、同じく倒れた4階建ての江島共済会館を残すべきだと、皆さん声をそろえた。「地元の子どもたちも、共済会館を残すべきだって署名活動までして、かなり集まったはずだけど」「でも結局そっちはなくなって交番が残った。誰が決めてるのかな」

しばらくそんな感じで盛り上がったが、ひとりがふと漏らした。

「見覚えのある風景がなくなったのは悲しいよ。ひとつも、何もかも残っていない。道も風景も全部変わって。思い出のある懐かしい場所が、今ではどこだったかさえわからないし」「今も知り合いに〈ご家族は無事でしたか?〉って聞けない。今でも〈ああ、あの人亡くなっていたんだ〉って新たに知ることもあって。町が発表した数字より、亡くなった人は多いと思う」

でも一方で「なんとかやっていかなきゃ」と皆さんは言う。

「被災したのは東北だけじゃない。熊本だってどこだって、みんな大変。東北だけが変にクローズアップされて、そこに甘える人もいる」「メディアもよくない。被災地っていうと可哀想可哀想って、キズナだなんだって言って、本当のことを全然伝えない」

女川町の人口は減ったが、それでも7000人弱の人がいる。この話は、7000人分の数人の意見に過ぎない。

だがそれでも2日間女川を歩いて、商店街の「片隅」で「やっと」聞けた、地元の人たちの言葉だった。「本音をぶっちゃけた」のは、実は女川の人だったのである。

流されたものは何なのか?

カサ上げ工事と宅地造成が進む女川の風景を見て、去年の秋に周った北海道・奥尻島の旅を思い出した。

1993年7月、奥尻島は北海道南西沖地震の大津波に襲われ、壊滅的な被害を受けた。特に南端の青苗集落の被害は凄まじく、10m超の津波に流された家屋多数、死者・行方不明者も多かった。

だがこのときは全国から寄せられた多額の義援金を含む、900億円以上といわれる予算が投入され、復興が行われた。やはり青苗地区はカサ上げして新しく街をつくり直し、震災の5年後に町は完全復興を宣言した。

――だがそれから20年、震災時に約4700人いた島の人口は3000人以下に減った。整備された青苗の道を、しかし歩く人の姿は少ない。「1000億近くかけて直したのに、歩く者がいないよ」と、島人は自嘲気味に笑って言っていた。

「若者が出ていってしまった。島を元に戻すことばかり考えて、その先の仕事や暮らしをどう生むか、考えていなかった」

青苗で数人から、そんな言葉を聞いた。そして「東北は奥尻に、学んでいるのかな」とも言っていた。一方で「元通り」にとどまらず「生まれ変わろう」としている女川には、復興の本筋から外れた動きも散見される。

いま女川では奥尻と同じように地面がカサ上げされ、同じように街がつくり直されようとしている。そして同じように――人口は減り続けている。

地方都市を歩き、その疲弊ぶりを見るたびに思う。日本はどうなってしまうのか。

明確な「役割」を持たない街が、生き延びていくのが難しい時代になった。被災地でなくても、今後多くの自治体が存続の可否を問われるだろう。だがそうした流れの中で「復興」の名の下に、街の再生が行われている。

「復興」の2文字に包み隠され、問題の本質がぼやけていると感じる。そして「つなぐ」「絆」といった「意見しにくい」言葉を隠れ蓑にして、本来被災者でない者が私腹を肥やし、被災者の意に沿わない「復興」が行われているとしたら――力ある者が、利権に群がっている場合ではないと思うのだが。

一方で店にいた女川の人たちは口々に、

「早く原発が動いてくれれば」

とも言っていた。女川には「原発」という役割がある。ただしその寿命は――先が見えている。国は延命に励んでいるが、世界的な流れを見るほどに、原発は永久には続かないだろう。

それでも女川は「生まれ変わろうと」している。

流されたものは何なのか。

目先の欲望や情緒に惑わされず、日本全体を俯瞰して、進むべき道筋を構築するリーダーシップと判断力が、津波によって一緒に流されてしまってはいないだろうか。

夜。仙台に戻ると、高層ビル街に星空のようにきらめく、無数の明かりに迎えられた。

大規模な「街づくり」が続く女川駅周辺/筆者撮影
大規模な「街づくり」が続く女川駅周辺/筆者撮影