炭鉱の街で、原発について聞いた

北海道の元・炭鉱の街、赤平市街の背後に「ズリ山」がそびえる/筆者撮影

炭鉱を残しておけばよかった?

人口日本最少の市、北海道歌志内市。かつては炭鉱の街として栄えたが、炭鉱閉山と共に人が減り、全盛期は4万人以上いた人口は今やわずか3千人台。「チロルの街おこし」を行い街並みこそスイス風だが、活気があるとはいいがたい。

昭和30年代後半、国の方針で主力エネルギーが石炭から石油に切り替わると、炭鉱は軒並み閉山に追い込まれた。主軸産業を失った炭鉱の街は人口が激減し、過疎化が止まらない。だが一方で石油ショックが起こり、日本のエネルギーは原子力への依存を高めていくが、東日本大震災でその安全神話も崩れた。

先が見えない日本のエネルギー行政。そして人気(ひとけ)のない歌志内市を歩くほどに「こんなことなら炭鉱を残しておけば良かったのでは?」という思いがムクムクと湧いて仕方なかった。

歌志内市の周辺にも、炭鉱の街がいくつかある。駆け足で周ってみた。

焼き鳥の街・美唄、人口は全盛期の4分の1

函館本線で岩見沢の北の美唄に着く。駅前は整備されているが、人はあまりいない。この日は4月、刺すように冷たい風が吹き抜ける。

駅から「市民バス」に乗ると、僕以外の乗客は全て高齢者。途中の小集落に着くたび、ひとり降りふたり降り、結局途中から乗客は僕だけになってしまった。終点の「アルテピアッツァ美唄」で降りる。

まだ雪が積もっていて、雪原の中に点々と彫刻が見える。「アルテピアッツァ」はアートをテーマにした施設だが、かつてここに美唄市立栄小学校があり、周辺に炭鉱の街があったそうだ。

当時の木造校舎が残り、中はギャラリーになっている。アート展示に並び、学校の沿革の紹介も。目を走らす。

昭和42年の児童数は244名。だが翌43年は202名、45年184名、46年139名、50年96名。そして昭和56年、閉校――。

美唄には三菱、三井の大規模炭鉱を筆頭に中小炭鉱が数多くあった。人口は最盛期の昭和29年に9万人以上。だが昭和47年に三菱炭鉱が、翌48年に三井炭鉱が閉山すると、坂を転がるように人が減る。2015年末の時点で人口は約2万3千人、全盛期の4分の1近くにまで減ってしまった。

周囲は森に覆われ、そこに街があったとは思えない。バス停に「この辺は熊の生息地です」と注意書きも。日が暮れる前に、そそくさと駅前に戻った。

駅の近くに、古いスナックや居酒屋が固まる一角を見つけた。塗装が剥げたゲート看板には「銀座街」の文字。

焼鳥屋が数軒。B級グルメ流行りで、美唄の焼き鳥が人気だと聞く。適当な1軒に入ってみると、なんと満員! 常連以外はいづらい雰囲気も感じ、すぐに出た。街は閑散としているのに、人気店だけ満員とは。飲み処を探してウロウロしていると、

「……どうしたんですか?」

小さな店の窓から、お姉さんが顔を出す。ケゲンな表情?

「一杯飲める店を探して……」「ウチはどうですか?」

笑顔もないまま誘われ、店の中へ。焼き鳥を頼むと「美唄焼き鳥だけど、いい?」と面倒くさそうに言う。

いろいろな内臓肉を、1本の串に差した美唄焼き鳥。キンカン(腹卵)が見た目に華を添える。

「ウチは三菱だったの」

お姉さんがタバコ片手に壁にもたれ、ポツポツ話す。

「店も10年で半分に減ったのよ。人口が減ったからね」「札幌に一極集中、何でもそうよ」そう言って、タバコの煙をプハーッ。

ここでテレビのニュース。原発の核燃料サイクルに、アメリカは反対。プルトニウムがテロリストの手に渡るのを防ぐため――ふと「勝手だな」とも思う。

「こんなに原発でモメるなら、炭鉱を残しておけば良かったのに」

思わずそう言ったが、お姉さんは「別に」と言って、再び煙をプハーッ。続いてニュースは、長崎の軍艦島ツアーの人気ぶりを伝え始める。クルーズ船で上陸し、写真を撮りまくる大量の人、人。

……軍艦島は元・炭鉱の島だ。ここで見るとは。再び思わず、

「凄い人気ですね」

と言うと、お姉さんは「知らない」と言ってタバコをもみ消した。

ズリ山がそびえる赤平、人口は5分の1

滝川から根室本線普通列車で2駅め、赤平で降りたのは僕ひとり。駅舎は妙に立派な赤レンガ造り、と思ったら「交流センターみらい」の看板が。ハコ物も兼ねているようだ。

駅前を横切る国道沿いに立つ、木造総2階の豪勢な家に目が留まる。ソバ屋だが、店先に「旧山田御殿」の案内板が立っている。

赤平は大正7(1918)年に茂尻炭鉱が開坑したのを皮切りに豊里、住友、赤間など大手炭鉱が次々と進出。昭和20年代に炭鉱の街として全盛期を迎えるが、やはりエネルギー転換で炭鉱は次々閉山、平成6(1994)年に最後の炭鉱が閉じた。昭和35(1960)年には6万人近くあった人口も、2015年末には5分の1以下の1万人強しかいない。

戦後に炭鉱経営で財を築いた山田氏は、この場所に当時としては破格の邸宅を建てた。「山田御殿」と呼ばれた邸宅は、赤平が炭鉱で栄えた歴史を今に伝えている。

駅の裏手に山がそびえる。ただし自然の山ではない。石炭採掘の際に出る不要物を積み上げてできた「ズリ山」。山肌を777段もの階段が伝い、頂上まで登れるが、この日はまだ残雪深く立ち入り禁止。それにしても、これほどの山が積み上げられるとは、赤平ではいったいどれだけの石炭が採掘されたのだろうか。

駅前に飲食店が並ぶ「やすらい通り」を見つけ、赤平名物「がんがん鍋」を出す店に入ってみる。内臓肉入り味噌仕立ての汁を、石炭ストーブで「がんがん」炊いたから「がんがん鍋」で、炭鉱マンたちのエネルギー源だったそうだ。

「赤平も人口が5分の1に減ったよ」

客がはけると、ご主人が声をかけてきた。ここでも「炭鉱を残しておけば~」と言ってみたが、

「まあ国の方針だからね」

ご主人はむしろサバサバと答えた。

炭鉱が閉じてホッとした?

滝川の南の砂川市も、美唄市や赤平市ほどではないが人口は減っている。この40年で約4割減、半分近くまで減った。

夜、川沿いのバーに入ると、ヒゲのマスターが迎えてくれた。「砂川彗星」という名の日本酒を見つけ頼むと、今はもう作っていない酒で、最後の1本だという。スッキリ爽やかな酒で、もう作らないとはもったいない。

「父は炭鉱マンでした」とマスター。ここでも何気なく「炭鉱を残しておけば~」と言うと……しばしの沈黙のあと、マスターは神妙な表情で言った。

「ヤマ(炭鉱)が閉じると聞いたときは複雑な想いでした。父が仕事を失うのは不安でしたが、でも正直ホッとしました」え?

「毎朝父を送り出すたびに〈会うのはこれが最後かもしれない〉と思い心配でした」

――日本の炭鉱史は事故の歴史でもある。地盤の崩落や爆発、火災にガス中毒に海水流入、採掘作業は事故と隣り合わせ。そして事故は毎年のように起こり、そのたびに数十人、数百人の死者が出た。軍艦島でもガス爆発事故で、多くの炭鉱マンが亡くなっている。

「まさか原発より炭鉱のほうが安全だなんて思っていませんよね?」

ハッとした。炭鉱事故の数々を知らなかったわけじゃないが、危険性の点では無意識に原発よりマシだと思っていた。原発はひとたび事故が起これば、その影響は地球規模で拡散し、自身の生活にも支障をきたすかもしれない。だが炭鉱事故の被害は、少なくとも伝播はしない。過酷な生産現場を、他人事でとらえていたのだろう。

原発に反対を唱える一方で、多くの人が軍艦島を「観光」で訪れている、などと揶揄する資格もない。自分のエネルギー認識の甘さを恥じ、配慮を欠いた発言を深く反省した。

「スイッチを入れれば電気が点いて当たり前、という時代ではなくなってきましたね」

マスターの何気ない一言が、ズシンと重く響く。それでも最後は優しく「今度はいつ来られるの?」と言ってくれた。

赤平市街の外れを空知川が流れ、橋が架かっている。誰がつけたのか、橋の名は「虹かけ橋」。渡った先は緑の山がそびえ、ふもとに石碑が立つ。

赤間炭鉱碑。かつて赤平を支えた主要鉱山のひとつ、北海道炭礦汽船赤間炭鉱がここにあった。石碑に歌が刻まれ「炭車のひびき 無事故の知らせ」の一節が目に留まる。やはり炭鉱マンとその家族は、いつ起こるかもしれない事故の恐怖に怯えながら、日々を暮していたのだろうか。

震災以降は多くの人の、エネルギーに対する意識が高まっていると感じる。それでも僕らの大半は結局、エネルギーが乏しい国に住みながら「電気が点いて当たり前」の生活に溺れているのかもしれない。この矛盾から目をそらしたまま、エネルギーを語ってはいけないと、炭鉱の街を歩き改めて思った。

「虹かけ橋」から赤平市街を見る。人も車も少なく寂しげな街だが、静けさの向こうに「ひと仕事を終えた」あとの安堵も垣間見える。ズリ山がデンとそびえ、小さな市街を見下ろす風景は、不思議な穏やかさも感じさせた。

雪に覆われるアルテピアッツァ美唄/筆者撮影
雪に覆われるアルテピアッツァ美唄/筆者撮影
美唄のささやかな歓楽街に「銀座街」の文字/筆者撮影
美唄のささやかな歓楽街に「銀座街」の文字/筆者撮影
まんまるのキンカンが食欲をそそる、美唄焼き鳥/筆者撮影
まんまるのキンカンが食欲をそそる、美唄焼き鳥/筆者撮影
赤平の小さな繁華街、やすらい通り/筆者撮影
赤平の小さな繁華街、やすらい通り/筆者撮影
赤平市街の外れに立つ、赤間炭鉱碑と歌碑/筆者撮影
赤平市街の外れに立つ、赤間炭鉱碑と歌碑/筆者撮影
トンガリ屋根の建物が美しく、砂川市街は日本離れした風景/筆者撮影
トンガリ屋根の建物が美しく、砂川市街は日本離れした風景/筆者撮影