台風で延期の那覇大綱挽 無事に開催!

年に一度の大勝負開始! 国籍も人種も関係なく一緒に綱を挽く

一週間遅れで行われたギネス大綱挽

国道58号に設置され、開戦を待つ大綱!
国道58号に設置され、開戦を待つ大綱!

去る10月19日(日)、出張で那覇にいた筆者は、那覇大綱挽に参加する機会に恵まれた。もともと10月12日開催予定だったのが、台風19号の影響で延期され、図らずも開催日と滞在が重なったのである。那覇の大綱を挽くのは8年ぶり。2006(平成18)年に日本トランスオーシャン航空(JTA)の機内誌『Coralway』誌面で、大綱挽の舞台裏から本番までを密着取材したとき以来だ。

沖縄では琉球時代から各地で綱引きが行われていて、那覇の大綱挽は本島南部・糸満そして与那原(よなばる)の綱引きと並ぶ「3大綱引き」のひとつ。ギネスにも認定された長さ200m、直径1m56cm、重さ43トンの大綱を1万5千人(主催者公称)が挽く大勝負! そして沖縄各地の綱引きは、豊作祈願や雨乞いなど農耕儀礼として行うものが大半だが、那覇の綱は「ムラの綱」ではなく「マチの綱」。慶賀の行事として挽かれる「祝い綱」であり、美しさを競い豪華絢爛に行われる。

綱挽当日の那覇は、夜が明ける前から祭り気分一色。綱挽が行われる国道58号の、深夜の中央分離帯撤去に始まり、早朝には58号に大綱を設置。その後いくつかの神事を経て、那覇市内の各字(あざ/集落)の青年たちが、長さ10mにも及ぶ長竿の先に装飾を施した「旗頭」を躍らせ街中を練り歩く。

歓声が街を包み、至るところで太鼓にホラ貝、鉦子(ショーグ/鐘)の音が響き、午後3時前には祭りの盛り上がりも最高潮! そして綱挽会場の国道58号・久茂地交差点に向かうと、すでに無数の人々で埋め尽くされていた。

外国人がいっぱい!

人ごみをかき分けて、なんとか挽き綱の一本にたどり着く。そして改めて周囲を見渡すと……8年前とは大きな変化が起こっていた。

外国人が多い。ひときわ巨体の白人たちは米兵だろうか。ほかドイツ語やフランス語を話すヨーロッパ人から中国、台湾、韓国、東南アジアまで、とにかく外国人だらけだ。

「それでは女綱(みーんな)と男綱(をぅーんな)を引き寄せる〈綱寄せ〉を行います。私の合図に合わせて綱を前に挽いてください! ハーイヤ!」「Here we go!」「●※◆☆◎!」「*****!」

なんと、説明も数か国語(後半2つはたぶん中国語または台湾語そしてハングル? だが全く聞き取れず)。伝統的な綱挽の掛け声「ハーイヤ!」も、英語にすれば十把一からげで“Here we go!”とは。そして案の定、各国の皆さんがそれぞれの掛け声に合わせて綱を挽くから、1万5千人の挽き手の動きがまとまらず、綱がなかなか動かない。

なんとか引き寄せた男綱と女綱、2本の綱を巨大な棒「かぬち(頭貫)棒」で結合する(子孫繁栄を願う意味がある)。かぬち棒は長さ3m65cm、重さ365kg。「年に1度の大綱挽に365日分の想いを込めて~」と、やはり各国語で説明がアナウンスされるが……どうも外国の皆さんはあまり聞いていない様子。特にアメリカ人らしき白人たちはヒャーヒャー騒ぎ、楽しんでくれるのはいいのだが、綱挽を単なる力自慢のアトラクションとしか捉えていない人も多いようだ。一方で乳母車に子を乗せたまま、群衆の中で身動きができないでいる東南アジア系の母親がいたり。いざ綱挽が始まれば、1万5千人が大波のようにうねり、自分で自分の動きをコントロールできない状況になる。「危ないですよ」と注意の声も飛ぶが、アジア母の耳には届いていない。

……ふと考えた。この大綱挽は、単なるアトラクションでもスポーツイベントでもない。外国人を筆頭に、参加者のいったいどれだけが、その意味を正しく把握しているのだろうか。

それでも歴史上の二大武将に扮した「支度(したく)」のにらみ合いを経て、ビルの谷間に吊るされた大くす玉が割られ、大綱挽の勝負は始まった!

改めて見直したい「平和の綱」の意義

大くす玉が割れて、綱挽開始!
大くす玉が割れて、綱挽開始!
あどけない外国人の子どもも、懸命に綱を挽く
あどけない外国人の子どもも、懸命に綱を挽く

激闘30分、フルタイムドロー。今年の那覇大綱挽は引き分けに終わった。参加者全員の動きがひとつにならなければ、重さ43トンもの大綱は動かない。だが「ハーイヤ!」のほかに「Here we go!」「オーエス!」など、さまざまな掛け声が混在しては動きもまとまりにくい。結局ズルズルと決め手を欠き膠着したまま、時間切れ。挽手の力がひとつになり、大綱が動く瞬間こそが、この大綱挽の醍醐味であるのだが。そして。

やはり10月10日に行えないものか、そう思った。

那覇の大綱挽は数年前まで、毎年10月10日に行われていた。以前は10月10日といえば「体育の日」、だが那覇にとって10月10日は、それ以上の意味がある。

第二次大戦後期の1944(昭和19)年10月10日、米軍が沖縄全域に大規模な空襲を行い、那覇の街の90%が破壊され、焼失してしまった。商人の街として華やかに栄えた那覇が、たった1日のうちに灰塵に帰したのである。その後悲惨な地上戦で多くの県民が犠牲になったが……しかし戦後、沖縄は、そして那覇は不屈の精神で復活した。

沖縄の綱引きは、一般的に旧暦の6月から8月にかけて行われる。戦前は那覇の大綱挽もその時期に行われたが、1935(昭和10)年を最後にいったん休止。そして1971(昭和46)年に戦後最初の那覇大綱挽を復活させるとき、あえて新暦の10月10日が選ばれた。

「追悼の綱ではありません。那覇の綱は祝いの綱。だから灰塵の中からの復活を祝い、平和を祝い、この日に大綱を挽くのです」8年前に取材した大綱挽保存会の長老は、そうおっしゃっていた。

しかし政府の3連休政策で「体育の日」は流動的となり、年々大綱挽の観光人気も高まる中で、祝日の開催が望ましい状況となり……大綱挽の開催は必ずしも10月10日ではなくなった。加えて外国人観光客の急増に伴い、綱挽のアトラクション色が強くなっている。那覇の綱の本来の意味、そして10月10日に行う意味が正しく伝わらなくなるのではと、懸念を覚えてならない。

それでも――綱を挽きながら印象的な場面があった。1本の挽き綱を欧米人が、東南アジア人が、中国人が韓国人が、白人が黒人が一緒に握り、力を合わせて一緒に挽く。これぞ大綱挽が伝えたい「平和の祝い」。世界は国境を、人種を超えて必ずひとつになれる――さまざまな国の人々の手が、1本の綱に重なる光景を見て、そんな希望を持たずにいられなかった。

さまざまな国の人々が、1本の綱を共に挽く。「平和」を象徴する光景
さまざまな国の人々が、1本の綱を共に挽く。「平和」を象徴する光景

秋は祭りが続く沖縄だが、11月16日には県知事選が行われる。大きな焦点のひとつが、米軍基地の辺野古移設問題。どの候補者が当選しても、基地問題の完全解決への道のりは、まだ遠い。

個人的には、世界中から戦争がなくならない限り、沖縄の米軍基地はなくならないと思っている。世界のどこかで戦争があれば、介入するのがアメリカだ。保守VS革新、沖縄VSヤマトの図式で争い続けても、この問題はたぶん解決しない。

「平和の綱」が沖縄で、那覇で挽かれることの意味は、だからこそ大きい。単なる「まつり」に終わらせず、綱を通じて「戦わないこと」の大切さを、もっともっと世界に発信する――那覇の大綱挽は、そんな行事であり続けてほしいと願って止まない。