あえて10日遅れの実況6.23沖縄

沖縄の平和祈念公園2014.6/23(筆者撮影)

朝、そして糸満バスターミナル

2014年6月23日、朝。テレビを点けるとトップニュースは「都議会セクハラ発言」。沖縄で見ると、さすがに違和感がある。今日は沖縄戦で亡くなった数十万人を追悼する日なのだが、都議会の一件のほうがニュースとしては重要なのか? 腑に落ちない気分で出かける。目的地は――本島南部・糸満。

糸満バスターミナルで摩文仁(まぶに)・平和祈念公園方面行きバスを待つ。ほかに年配の婦人も数人。そこへ中年の男が寄ってくる。

男「お客さん、祈念公園?」

タクシーの客引きだな。 

僕「はい、でもバスで行きますから」

男「バスは行ったばかり。あと1時間来ないよ」

嘘をつけ。今日は20分おきに臨時便が出るのを、そこで「張っている」自分が一番よく知っているだろうが。婦人のひとりが「バス来ないの?」と不安げな表情になり、客引きに釣られそうになるが、「大丈夫ですよ」と押しとどめる。タクシー男は歪んだ笑いを残し、その場を去った。

県民もいろいろだ。同胞の霊を慰めに行く人もいれば、そこにつけ込み小銭を稼ごうという輩もいる。

「私は(戦争で)長男を亡くしましてね」

婦人のひとりが別の婦人にサラリと言う。まるで世間話のように。――そう言えるようになるまで、どれほどの苦しみと葛藤を乗り越えたのだろうか。

バスが来た。

テントの下で

10時、平和祈念公園。追悼式典会場に設けられた、テント下の参列席が開場される。人々は行列をなし、荷物チェックを受けてテント下に入り、「一般」と書かれたゾーンの椅子に座る。僕のような県外の一般人も入れる。

行列がなかなか進まず、額から汗が滴る。6月下旬の沖縄は、蒸し風呂のような暑さだ。式典には安倍首相、仲井眞県知事をはじめ要人がズラリ出席するから、荷物チェックに時間がかかるのも仕方ないが――。

「兄さん早く!」

ご老人がチェック担当の若者に声を飛ばし、行列に笑いがさざめく。そして進みが早い行列が1本、すると「こっちが早いサー」と民族大移動!

「兄さんもこっち、こっちが早いよー」

地元らしきオジさんが僕の袖を引っ張り、進みの早い列に誘う。笑顔。白い歯が覗く。今日は県民にとって神聖神妙な日だが――沖縄らしいノンキさは変わらない。

席につく。テント下とはいえ、暑い。式の開始は11時50分、1時間50分後。手元のペットボトルの水はすぐお湯になり、式典パンフでパタパタと顔をあおいでみるが、追いつかない。

――69年前の同じ日も、同じように暑かったのだろうか。

僕は数時間後には、この暑さから解放される。灼熱地獄と砲弾の雨の中で、命を落とした何万人もを思えば、たった数時間の暑さなど耐えなければいけない。

背後からふと甘い香り。振り向くと、後ろの席に並んで座る婦人たちが、一斉に黒糖をかじっている。

「甘いサー」「疲れが取れるサー」

笑顔、笑顔。手元にはオニギリの包みも。さらに一般席のあちこちで子どもが駆け回り「座ってなさい!」「静かにしなさい!」と母の一喝が響く。そんな様子をオジイちゃん、オバアちゃんたちがニコニコと眺めている。追悼式典の参列者の映像というと、ハンカチを目に当て涙する人ばかり見る気がするが――沖縄では墓参りや旧盆と同様、普段会えない家族親戚が一堂に会する場でもあるのだろう。前年に参列したときも、それは感じた。遺族を想う気持ちも含めて、この追悼式の会場は家族の温もりにあふれ、穏やかで微笑ましい。

11時半、沖縄県遺族連合会の平和行進の人々が、まさに汗だくで会場に到着。拍手で迎える。

場違いな黒服の男たちが、ものものしくテント下へ。どこの組の連中か? と思ったらSPだった。VIPが次々に会場入り。岸田外相の顔が見える。そして沖縄県選出の国会議員たち……ここで。

「おおーっ!」

会場の一角がドッと沸く。現れたのは――キャロライン・ケネディ駐日米大使。それはまさに、有名人を見たときの沸き方で、僕も思わず「美人は得だな」と苦笑。後ろの婦人たちは「背が高いね」と感心している。

11時38分、式典会場のオブジェや、配布されたパンフレットの表紙絵などについて説明が始まる。会場のどこかで子どもが激しく泣く。

11時42分、携帯電話の電源を切るように指示。11時44分、式次第について説明。そして司会進行のNHKアナウンサーが自己紹介。少し拍手が起こる。

11時45分、小野寺防衛相が会場入り。遠目にもわかる、疲れた表情。そして式が始まる11時50分――ひときわたくさんのSPに囲まれ、安倍首相が会場入り。テント下の一角で拍手。後ろの婦人たちは「テレビで見るより大きくないねー」「大きくないねー」とか言っている(まず身長を見るようだ)。

追悼式典は始まった。

消えた一言

川上好久副知事による開会の辞に続き、県議会議長の式辞。その文面はすでに、配布されたパンフに印刷されているが、前年の式辞で同議長はアドリブを盛り込んだ。今年はどうだろうか。

原稿では「米軍基地を全国で分担」のところを「米軍基地問題を全国で分担」に、さらに「オール沖縄の声に応えて」の一文が追加された。わずかなアドリブだが、議長のささやかな意地を見る思い。

ここで12時、全員起立。正午の時報に合わせて1分間の黙とう。静寂――とはならず、上空を飛ぶ飛行機の音が耳に障る。取材のヘリか、それとも米軍機か。確かめようにも、空はテントに遮られ、見えない。

黙とうが終わり、続いて注目の、沖縄県遺族連合会会長による「追悼のことば」。なぜ注目かというと、例年ここで必ず首相に向け、靖国参拝を願う一言が発せられる。だがその言葉は中央の新聞はもちろん、地元紙でも概ね無視され記事になることは少ない(去年は沖縄タイムスが一文だけ書いた)。今年はどうだろうか。

――靖国発言は、なかった。

昨年末、安倍首相は靖国神社に参拝している。だからだろうか?

以前、僕はこの「個人―Yahoo!ニュース」で「仲井眞知事の辺野古埋め立て申請承認直後、安倍首相が靖国参拝。遺族会の願いに応えたのか?」と妄想推測に満ちた記事を書いた。引き続き妄想の域は出ないが――とりあえず整合性はあるな、と思ったりもする。

続いて要人たちによる献花。ここでもケネディ大使の番になると、その姿を一目見ようと立ち上がる参列者も。

そして仲井眞知事による平和宣言。「普天間飛行場の、県外への移設をはじめとするあらゆる方策を講じて」という一節があり、少し驚く。ヌケヌケと、よく言えるものだ。周辺から小さな苦笑は漏れるものの、大きなざわめきや騒ぎは起こらない。

そしてそして、追悼式のハイライト! 県の児童による「平和の詩」朗読。1600の応募から選ばれたのは、石垣島の小学3年生の少年の作品だ。書いた少年本人が壇上に立ち、朗読を始めた。

――どうしたら せんそうのない どこまでも続く青い空になれるのかな――

あどけない声で、しかし背筋を伸ばし堂々と読み上げる姿の、なんと頼もしいこと! 読み終えると会場全体から、この日最大の割れんばかりの拍手が巻き起こる。

しばらく続いた拍手がやっと収まると、司会のアナウンサーがおもむろに言った。

「続きまして、内閣総理大臣の挨拶です」

スピーチ

大拍手のあとで、やりにくいだろうなあ。と思う間もなく安倍首相は壇上に立つと、早口で原稿を読み始めた。

早い、早いってば安倍さん! 決して滑舌もよくないのだから、せめて落ち着いてゆっくり読まないと――ああもう!

「自らに問う」噛む、「筆舌に尽くしがたい」噛む、「沖縄の人々に刻み込まれた」噛む、だからもっとゆっくり!

「伝える」には程遠い、読むのに精一杯のスピーチを聞きながら、暑さも手伝って頭がクラクラしてくる。――この人、首相なんだよなあ。この人が日本の命運を握っているんだよなあ。一国のリーダーたる者、腹の底から湧き出る自らの言葉で、想いを伝えてほしいものだが……とてもそんなことを望める感じではない。 

地に足のつかない、ただただ早口のスピーチを聞いているうちにふと――社会人になりたての自分の、初めてのプレゼンを思い出したりもする。ドキドキしたな、あのときも。

などと思っていたら、スピーチは終わってしまった。安倍総理は結局、原稿からほとんど目を離すこともなく、終始ほぼ下を向いたまま。顔を上げて参列者を見渡すことも、誰とも目を合わせることもなく、早口で原稿を読み終えると足早に檀上から降りた。

少年の朗読が心の奥まで響いたのと対照的に、何か会場全体がポカンと置いてきぼりにされた雰囲気。続く衆参両院議長の挨拶が――やはり原稿の朗読ではあったが――時おり原稿から目を離して会場を見渡しつつ、ゆっくり読み上げたのが印象に残った。場馴れという点では、両議長のほうが数段上だろう。

最後は沖縄県の高良倉吉副知事の閉会の辞をもって、50分間に渡る式典は終わった。時刻は12時40分。

「さ、オニギリ食べましょオニギリ!」

後ろの婦人たちが、場がハケるのを待てずに、弁当の包みを広げ始めた。

むしろ淡々と

このあと糸満で世話になった知人夫婦を訪ねた。初老のご夫婦で、足元に孫がまとわりつき穏やかな表情。

「追悼式に行ってくれたの? ありがとう」

と奥さん。ご夫婦は式典には行かず、別の場所にある家族の墓を訪ね、手を合わせたという。式典の模様はラジオで聴いていたそうで「安倍さんは早口だったねえ」と苦笑していた。

奥さんは戦後の生まれだが、お母さんから戦争の話は何度も聞かされたという。

「お母さんとね、お母さんのお姉さん、私にとってオバさんね。お母さんがまだ3歳の私の兄を抱えて、オバさんと一緒に壕に入ったら〈子どもは泣くから入れるな。出ていけ〉って日本兵に銃をつきつけられて、オバさんは驚いて兄を抱いて出たわけ。お母さんも追って出た。その直後よ、壕に直撃弾が当たって、中の人は全員即死サー。オバさんとお母さんは吹き飛ばされて、生きていたけど砂の中に倒れて。そしたら日本兵に足を持って投げ飛ばされて。死んでいると思ったわけね。だから〈違うよー、生きてるよー〉って」

お茶と菓子を挟み、時おり笑みさえ浮かべて、奥さんはむしろ淡々と話してくれた。

戦争に「終わり」などない

沖縄の6月23日――ここ数年は「沖縄戦における組織的戦闘終結の日」とするのが一般的だ。より正しく表記しようという努力を感じる一方で、6.23は決して組織的戦闘終了の日ではないとも思う。

6.23は、沖縄戦における日本軍の総大将・牛島満氏が自決した日であり(6月22日の説も濃厚)、それ以上でも以下でもない。牛島氏は死の数日前に「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」と最後の司令を全軍に下していて、死してなおその拘束力はあったと思われる。牛島氏の死とともに「組織的」戦闘が終結するほど、状況は単純ではなかったはずだ。

実際、6.23以降も沖縄各地で戦闘状況は続いている。6月末には久米島で、日本兵が島民をスパイ容疑で虐殺。集団死が起こった渡嘉敷島では、山中に日本兵と島民が混在潜伏し、投降したのは8月だ。本島北部の山岳地帯に潜伏した第三遊撃隊(第一護郷隊)の村上治夫大尉が投降したのは、実に年をまたいで翌1946年の1月3日である。ほか満蒙開拓で満州に渡り、終戦後もシベリアに抑留され、何年も帰国できなかった県民も数多い。

厳密に言えば、沖縄戦は今も終わってなどいない。戦争で家族親戚友人を失った人々の悲しみは、風化することなどなく、心の傷は癒えることなく死ぬまで残る。戦争はいつでも権力者の都合で起こり、権力者の勝手な「解釈」で「終わったこと」になる。だが一度始めてしまった戦争に「終わり」などない。その先にあるのは、果てしない無間地獄だけだ。

沖縄の「慰霊の日」は6月23日だが、あえて10日ずらして本日7月2日、この記事を公開した。6.23前後は各紙面をにぎわせた沖縄戦関係の記事も、わずか10日で沈静化している。だが1945年7月2日は、米軍が沖縄作戦の終了を宣言した日だ。6.23よりもこの日を、あるいは南西諸島の日本軍の代表者が降伏文書に調印した9月7日を「終結の日」とするほうが、屈辱ではあっても潔くないだろうか。日本は戦争に負けたのだ。6.23を沖縄戦終結の日とすることに、権力者の往生際の悪さが透けて見えてならない。

権力者の暴走が招いた国民の大量死を、実は真摯に反省することもなく、「戦争ができる環境づくり」がまた一段階前進した。早口でスピーチを読み飛ばす首相の姿に、この国の暗澹たる未来が重なって見える。どうすれば止められるのだろうか。

追悼式典は実際に参列してみると、報道を通じて抱くイメージとは、いくつかの点で違っていた。そして間近で見て聞いた安倍首相のスピーチは、まさに「胸の鼓動が伝わってくる」ような出来栄えで、首相である前に生身の人間であることを感じさせた。

沖縄報道については常々、「目立つ」場面ばかりを「偏って」「抽出」するものが多いと感じている。それが「オキナワの声」の一言に集約されてしまうのは危険だと思い、あえて出来事をまんべんなく「羅列」し「要約」に徹してみた。散漫な長文で読みづらく恐縮だが、ご理解いただければ幸いである。