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固定する教育格差:「素晴らしきイギリスの成人教育」の終焉 

ブレイディみかこ在英保育士、ライター

ワン・ダイレクションのゼインや『トップ・ギア』のジェレミー・クラークソンなどよりよっぽど重要なUK名物が姿を消しつつあることをご存知だろうか。ファーザー・エデュケーション(Further Education)という英国ならではの成人教育システムが2020年までには存在しなくなるだろういう聞き捨てならないニュースがある。

“Adult education in England will cease to exist by 2020” Press TV

”Colleges say 'swathe of cuts' threatens adult education” BBC News

”Adult education is being slashed and burned - this is too important to ignore” The Guardian

わたしは1996年から英国に住んでいる人間だが、80年代にもロンドンで語学留学したことがある。当時留学した人が必ず一度は読んだのが「地球の歩き方」留学編と言っても過言ではないが、そうした英国留学ガイド本には必ず「英国に行ったらファーザー・エデュケーションのコースにトライしてみよう」という章があった。

ファーザー・エデュケーションは日本語では継続教育と訳されるが、要するにアダルト・エデュケーション(というと日本では色っぽいイメージになりそうだが)、即ち成人教育のことである。昔から、英国留学する日本の若者たちは、同国人と集まっては「50歳の人が看護師になるためにカレッジに通っててびっくりした」とか「いい年した大人がみんな何かコースを取って勉強してる。こんな現象、日本にはないよね」とか言い合うのが常で、その「素晴らしきイギリスの成人教育」を日本で紹介している人々もおられたが、それももう過去の話になるというのである。

ファーザー・エデュケーション(以下、FE)のコースは、地域のカレッジやコミュニティー・センターで行われている公立の成人教育システムであり、大別すると、大学進学をしなかった人が社会に出てから勉強したくなった時に通える大学進学準備コースと、ある業界に入るのに必要な資格や技能が取得できる専門学校的なコースがあり、その特徴は国家資金によって運営されているので学費が激安だというところにある。

この「いくつになっても人生をやり直せる」教育システムが英国人に与えてきた恩恵は計り知れないが、実は日本人にもこの制度で勉強して帰国して活躍しておられる方々は沢山いる。FEには音楽や演劇、ファッション、アートなどのコースもあり、製帽コースで学んで帽子のデザイナーになった日本人や、写真技術を学んでフォトグラファーになった日本人、染色を学んでテキスタイル・デザイナーになった日本人などをわたしは個人的に知っている。

現保守党政権が大幅な緊縮政策を始めてから、地域のカレッジのFEコースが激減しているのは知っていたが、2010年以来、大学で行われているコース以外の成人教育に対する政府予算は40%削減されているそうだ。BBCニュースによれば、今年から来年にかけての予算削減だけでも24%で、19万人の成人学生の籍が失われることになる。この勢いでは、2020年までにはFEは存在しなくなるという。

かくいうわたしもFEのお世話になって保育士の資格を取った人間だ。それは高校から進学する若者が通うカレッジの保育コースとは異なり、一度社会に出た人や、育児を終えたお母さん、保育施設ですでに働いているが資格を持っていない人などのためのコースだった。同じクラスには、女性警察官として荒れた地域で問題を起こす十代の子供たちに接するうちに幼児教育の重要性を痛感して保育士になろうと思った、という人や、障碍を持っていた子供を亡くし、自分のリアルな経験と知識を活かして同じ障碍を持つ子供たちを助ける保育士になりたいと思ったというお父さんもいた。当時は労働党政権がFEの保育士育成コースに力を入れていた時代だったので学費は無料だったし、パートタイムのコースだったので働きながら通えた。ドロップアウトした人もいたが、みんなで助け合って勉強して資格を取った。そして彼らは、高校から進学して資格を取って働き始める若い保育士とはまったく違うタイプの保育士になって行ったのである。

FEの終焉という議論になると、まず取り沙汰されるのが社会の流動性の問題だ。例えば、十代で子供を産んだシングルマザーは、子供が大きくなってから何か資格を取ってキャリアを持ちたいと思うケースが多い。まともに学校に行かず教師にも見放されていたティーンが、大人になって何かを猛烈に勉強したくなることだってある。英国の教育格差は知られた話だが、わたし自身、FEの成人向け算数教室で講師アシスタントのヴォランティアをしていた頃、二ケタの足し算や引き算で躓き、-2℃と-20℃ではどちらが寒いのかわからない成人がずらっと座っているのに驚いたものだった。英国という国はとんでもない天才を生み出す一方で、こういう人々も生む国なんだと痛感した。が、彼らが再教育を受けられる場やチャンスを閉ざしてしまえば、子供の頃に勉強しなかった(またはできなかった)人間は一生涯そのペナルティーを引き摺ることになり、階級が絶望的に固定する。英国のような教育格差の大きい国では、貧困層の引き上げに必要なのは再分配+再教育だ。

また、そうした階級的な観点だけでなく、FEの消失は、英国のすべての業界において大きな損失をもたらすだろう。上記の保育業界の例を見てもわかるように、人生の仕切り直しをして大人になってから勉強して新たなキャリアに進んだ人々は、業界の人材に重厚さと幅を与えて来たからだ。人材が画一的でない場には、広範な分野での知識や経験というリソースがある。

さらに、55歳以上を対象とした最近の調査では、半数以上の人々が年金受給可能年齢に達しても働き続けるつもりだと答えている。高齢化が進み勤労年数が長くなる一方の社会が、人生の仕切り直しができなくなる方向に進んでいるというのはなんとも奇妙な話である。

NIACE(The National Institute of Adult Continuing Education)の代表はこう語っている。

「僕たちは、若い人たちに国が学費を補助してくれるコースにできるだけ早く入りなさいと言っています。21歳になってしまったら、もう国から受けられる援助は残っていません」

英国では、移民の受け入れにオーストラリア同様のポイント制を導入し、高学歴・高スキルの移民のみを受け入れるべきという案も出ている。が、自国民の再教育を放棄し、高学歴・高スキルの移民ばかり受け入れるということは、自国民の下層定着化を進めるようなものだ。この案が「英国民のための政治」を謳う右翼政党UKIPから出ているというのが笑わせるが、当の労働者階級層がその右翼支持に回っているという事実には笑えない。

在英保育士、ライター

1965年、福岡県福岡市生まれ。1996年から英国ブライトン在住。保育士、ライター。著書に『子どもたちの階級闘争』(みすず書房)、『いまモリッシーを聴くということ』(Pヴァイン)、『THIS IS JAPAN 英国保育士が見た日本』(太田出版)、『ヨーロッパ・コーリング 地べたからのポリティカル・レポート』(岩波書店)、『アナキズム・イン・ザ・UK - 壊れた英国とパンク保育士奮闘記』、『ザ・レフト─UK左翼セレブ列伝 』(ともにPヴァイン)。The Brady Blogの筆者。

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