『クイーン』(06)という映画でブレア元首相の役を演じたマイケル・シーンが、英国の国家医療制度NHSの解体と民営化に反対するマーチに参加して行ったスピーチが話題になっている。

「我々は自分が信じることのために立ち上がらなければならない。だが、何よりもまず先に、何かを信じろ」

マイケル・シーンは、NHSの父と呼ばれる政治家アナイリン・べヴァンの生涯について語りながら、現代の政治家たちにそう呼びかけた。

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英国では2カ月後に総選挙が行われる。右翼政党UKIPが台頭していることから、選挙の争点として移民問題が早くからクローズアップされているが、その陰に隠れてしまっている一大争点として、国民の健康と命を預かるNHSをこれからどうするのかという問題がある。

NHSは無料の国家医療制度であり、1945年に発足した労働党政権が成し遂げた最大の改革だ。戦後の英国人たちは、チャーチル政権下で格差が広がり、貧困層の老人や子供たちが医者に診てもらえずに死んでいた戦前の社会に戻ることを拒否した。この辺はケン・ローチ監督の『The Spirit of 45』というドキュメンタリーに詳しい。戦勝国イギリスでは終戦の年にチャーチルが選挙で惨敗を期し、「一部の富裕層ではなく、庶民のための政治」を求めた民衆のパワーが労働党政権を発足させたのである。

NHSでは診察・治療は今でも無料だ。例えばわたしの配偶者は無料で癌を治してもらったし、わたしは無料でIVF治療を受けて四十路であっさり妊娠し、無料で出産した。日本の人に言うと「うっそー」と言われるが、戦前の英国人たちだってそんな医療制度の実現など「うっそー、できるわけない」と思っていたのだ。

その奇跡の一大改革を設計し、成し遂げたのは、元炭鉱労働者の保健大臣アナイリン・べヴァンだった。NHS設立の理念にもなった彼の言葉はこうである。

「病気とは、人々が金銭を払ってする道楽ではないし、罰金を払わねばならぬ犯罪でもない。それは共同体がコストを分担すべき災難である」

そのNHSを民営化し始めたのは当の労働党のトニー・ブレアだった。ブレア元首相は、「労働党でも保守党でもない第三の道がある」と言いながら「とにかく支持率が稼げれば基本理念が右だろうと左だろうと関係ない。全部ぶっ込め」のPR先行政治を行い、「クール・ブリタニア」などと言って国民をいい気分にさせながら、どさくさに紛れてNHSを民営化し始めたのである。保守党のサッチャーが「私の一番できのいい息子はトニー・ブレア」と言ったわけである。

そのブレアを演じた俳優として有名なマイケル・シーンが(彼は『クイーン』だけでなく、テレビドラマでもブレア元首相役を演じている)、1945年のスピリットに立ち帰れと労働党議員に呼びかけているのはなんとも皮肉である。

「現在の政治家たちは、用心深くためらいがちで、自分の考えを言うことを恐れている。そのため全政党が当たりさわりのない中立スタンスを取るという泥沼になり、真の価値観らしきものは閉じた扉の向こう側に隠されている。投票先が選べないと人々が感じるのも無理はない」

「僕たちは、互いに支え合う、インクルーシヴで思いやりのある社会を求めているのだろうか?そこでは、すべての人間が成功者でなくとも受け入れられる。そこでは、最も弱く助けが必要な者たちが、他者に金をたかったり盗んだりしている怠け者として見なされることはない。そこでは、僕たちは苦境にある者に背中を向けたり、見捨てたり、彼らの弱さを利用したりしない。彼らは僕たちだからだ。社会というものは存在するのである」

最後の一文がサッチャーの「社会というものは存在しない」の反転であることは明らかだが、スピーチの名手と言われた本家ブレアも真っ青の迫力の演説だった。「我々の政治家にマイケル・シーンと同じパッションがあれば」とガーディアン紙のライター、オーウェン・ジョーンズも嘆いている。

とは言え、俳優は言いっ放しで拍手だけされておけばいい立場だ。あっちを救おうとすればこっちを見捨てることになるという難しい決断や、グローバル化した世界経済のリアリティーや、選挙での票集めといった面倒なことは関係ないし、責任を取る必要もない。

しかし、トップのスーパーリッチ層1000人が5年後には2倍になっていると言われる一方で子供の貧困率が上昇を続け、大企業の納税回避が平然と行われている一方でフードバンクには過去最悪と言われる数の人々が食料を求めて押し寄せている時代に、ラディカルな改革を設計し、実現しようと立ち上がる政治家がいないのは何故だろう。

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『The Spirit of 45』によれば、1945年発足の労働党政権は、最初は病院だけを国営化するつもりで、NHSなどという壮大な医療制度を作るつもりではなかったらしい。が、それを屁温いとして受け付けず、「どうせやるなら徹底的にやって医療を完全無料にせねば意味がない」と強引に押し切ったのはアナイリン・ベヴァンだった。ブレアは「右でも左でもない第三の道」を提唱したが、べヴァンはこう言ったことがある。

「道の真ん中を歩く者は車に轢かれる」

ウェールズの貧しい炭鉱労働者の家庭に生まれ、13歳で学校をやめて炭鉱に働きに出なければいけなかったべヴァンは、貧乏人が病気にかかるとどうなるかということを知っていた。こういう政治家はもういない。政治家は子供の頃から私立校・名門校に通ったエリートばかりになり、労働組合の奨学金を受けて大人になってから勉強したべヴァンのような政治家はいない。2015年の現代に真冬に着るコートを持っていない子供たちがいることや、往復2時間歩いてフードバンクに通っている人々がいることを肌で知っている政治家がいない。

政治家が「トリクルダウンであなたの年収を増やします」だの「この国は世界から称賛されています」だのといった耳障りのいいPR用語ばかり発して支持率を稼ぐ人気稼業になる前(いや、日本のことを言っているのではない。英国の政治家はその前からやってきた)、この国には何かを信じ、その信じることのために猛然と戦い、反対者たちを説得した政治家が現実に人々の生活を変えた時代があった。NHSはその最後の名残りである。この名残りには、英国の政治の尊厳がかかっている。

それを守るために情熱的な演説を行っているのが労働党の議員ではなく俳優だという現実を、べヴァンは墓の下からどんな想いで聞いているだろう。

ウェールズで行われたNHS解体反対集会でのマイケル・シーンの演説