「愛と結婚」という芝居を続ける夫婦を襲った、取り返しのつかない悲しみ『ラブレス』

今回は、幼い息子の行方不明事件をきっかけに、ある結婚の真実を暴き出す『ラブレス』を、監督のコメントとともにご紹介します。このところ昨年のカンヌ映画祭のコンペティション作品を連続してご紹介していますが、この作品は「パルムドール(最高賞)の大本命」の呼び声も高かった作品。監督は、下噛みそうな名前のロシアの巨匠、アンドレイ・ズビャギンツィエフです。

ロシア映画って物語が坦々としてて難解で……と思われがちですが、この作品はすごくシンプルかつエモーショナルで、それでいて人間の深淵にグサーッ!と切り込んでくる大傑作です。壊れた夫婦を通じて描くのは、他人への無関心が蔓延し、愛のない社会が引き起こす、胸がつぶれそうな悲しみ……ということで、まずはこちらを!

さて、物語。おそらく30代中盤で、ともに収入も見栄えもいい仕事を持つボリスとジェーニャの夫婦は、現在離婚協議中。離婚成立の暁には一緒になる恋人もそれぞれにいて、マンションも売りに出しているのですが――二人は二人とも、12歳の息子アレクセイの行く末をこれっぽっちも考えず、強烈に口汚くののしり合い、押し付け合っています。

ボリスは責任逃れと世間体のために「子どもは母親といるのが幸せ」「女親が責められるぞ」とおためごかしを繰り返し、ジェーニャはその見え見えの欺瞞を暴くように「失敗の尻拭いはゴメンよ、私は前に進ませてもらう」と強く撥ねつけます。これをアレクセイが密かに聞いている。その声なき号泣に、冒頭からザックザクに心を切り刻まれます。

その翌々日。学校からの連絡で、ジェーニャはアレクセイが行方不明であることに気づきます。前日から家に帰っていなかったのに、子供そっちのけで恋人と過ごしていた両親は、母は部屋を覗くことすらせず、父はそもそも家に帰らず、丸一日気づかなかったんですね。物語はここから始まる息子の捜索を追ってゆきます。

狭い家の中で激しく罵りあえば、子供が聞いていないはずがないでしょうが
狭い家の中で激しく罵りあえば、子供が聞いていないはずがないでしょうが

映画は、ズシーンとくる重量感と、冷え冷えとした視線で、この夫婦を通じて人間の本質をえぐってゆきます。脊髄反射型で弁の立つジェーニャと、無責任でだんまりを決め込むふてぶてしいボリスは、そもそもこんなふたりがよく結婚したなと思うような、まったく合わないカップルなのですが、彼らの結婚はそれぞれの利害の一致の結果だった。ジェーニャは暴君のような母親のもとを離れたかったし、ボリスは家族を持ちたかった。互いが互いを利用したわけです。でも結婚当初は「愛してる、幸せにする」「きっと上手くいく」という言葉を、二人とも信じていた。

夫婦のこういう会話とともに、映画はそれぞれの新たな恋人たちとのやり取りを見せてゆきます。彼らは恋人に「本当に愛せる人に初めて出会えた」「今の相手は愛していると思いこんでいただけで、本当に愛してはいなかった」と言うのですが、すでにボリスの子供を身ごもっている若い恋人が、ふと涙を流しながら問い返します。「私たちは大丈夫なの?だって同じことを、今の奥さんにも言っていたんでしょう?」。

ジェーニャのキャラが強烈なんで眼立ちにくいけれど、そもそも離婚成立前に恋人のお腹が大きいという、この夫の恐ろしい無責任ぶりを私は強く訴えたい
ジェーニャのキャラが強烈なんで眼立ちにくいけれど、そもそも離婚成立前に恋人のお腹が大きいという、この夫の恐ろしい無責任ぶりを私は強く訴えたい

この映画の英語タイトルは「Loveless」で、つまり「愛がない」という意味ですが、ロシア語の原題は「ニェ リュボーフィ」(単語を英語直訳するなら「NOT LOVE」)で、ニュアンス的にはちょっと違うようです。

監督は「この映画の二人について構想している時、“人は人生という芝居を演じているのではないか”という考えが浮かんだ」と言っていて、つまりふたりの出会いと結婚は「“愛している”芝居」をしていただけ。始まった日常の中で自分たちの失敗に気づいた彼らは、「この失敗は相手が悪かったせい」と、また別の相手で「“愛している”芝居」を始めようとしているんですね。始末が悪いのは、二人が「LOVE」と信じて疑わないものが「NOT LOVE」であることにまったく気づかない、気づく気配すらないことです。

この作品が傑作なのは、そうした冷え冷えした世界の中に、息子の失踪を持ち込むことで強烈な感情のうねりを作り上げていること。息子が行方不明の連絡に「仕事中だから」と答える夫、この非常事態に「息子を生んだのが失敗だった」と言い出す妻。息子が行方不明になったことすら互いを攻撃するネタにしかしない二人を見るにつけ、息子が可哀想で可哀想で、本当に可哀想すぎて、涙が止まらなくなります。観客もまた、映画の中の夫婦ともども、「芝居」していられない感情へと追い込まれてゆくかのようです。

ズビャギンツィエフ 環境が変われば自分も変わるという考えは幻想にすぎず、自分が変わらねば何も始まらない。ひょっとすると、取り返しのつかない喪失だけが、これを可能にするのかもしれない。観客には“最終的にはすべてどうにかなるものだ”と思ってほしくない。そうなると彼らは自身の人生ですべき努力を登場人物たちに押し付け、わが身を振り返らず、行動に移す必要性を感じなくなるからだ。あまりに倫理的な要求だと言う人もいるかもしれない。でもエンターテイメントを撮るのはマーヴェル映画に任せておけばいい。私はそれとは別のことをするよ(笑)

さてこの映画には、社会的な面がいくつかあるので、最後にそれを解説しておきましょう。

まずは映画の中で息子の捜索を手伝うボランティア、そのモデルはロシアに実在する「リーザ・アラート」という団体です。2010年、ベビーシッターとともに森で迷って死亡した幼女リーザ・アラートちゃんの事件にきっかけに発足、行方不明者の捜索を完全無償で行っているそうです。監督によれば、2016年にはこの団体によって行方不明者の8割が発見されているのだとか。(詳しくはこちらの記事を

そのスローガンは「“よその子”などいない」。見ず知らずの他人のために骨身を惜しまない彼らの存在は、自分の幸せしか考えず、結局は幸せになれない夫婦のアンチテーゼとして、登場しています。

人を人と思わなくなる情報化社会と自己愛の象徴か、スマホに夢中&何かといえばセルフィーという場面もすごく多いのですが、ボランティアの人がスマホをいじっている場面がひとつもないのも、そういう意味合いかなーと思います。

子供じゃなくて、スマホから目を離さないお母さん、よく見かけますね。私自身も自戒します……。
子供じゃなくて、スマホから目を離さないお母さん、よく見かけますね。私自身も自戒します……。

もう一点。この映画の舞台設定が2012年~2015年であることについて、監督はこんな風に話しています。

ズビャギンツィエフ  ロシアの歴史は2012年10月(筆者註:8年ぶりにロシアの知事選挙が実施され、その後、反政権活動も活発化)から2015年の2月(筆者註:ウクライナ内戦の激化、国境の親ロ2州の自治権拡大を認めるミンスク合意2)で終わったと言われている。

2012年ごろ、ロシアの人々は「もっと良い、住みやすい国になれるのではないか」という期待を胸に抱いていたし、行政に対する抗議活動も活発に起きていた。これに対する国の対応を、ロシアでは「ネジが締められた」という言い方をする。国が国民を規制し始め、抗議活動の首謀者は裁判にかけられた。そうした動きが国からの回答であると、国民は受け取った。ウクライナとの戦争も激化し、国民は無関心、無気力になった。希望がついえ、諦めたのだ。映画の夫婦の関係のようにね。

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『ラブレス』

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