「”事実”以外は全てウソ」と言い切ってしまえば、失われてしまうもの。『プラネタリウム』

ナタリー・ポートマンとリリー・ローズ・デップ主演の映画『プラネタリウム』を見て、「事実」と「真実」の違いって何かしら?と、ふと考えました。

このふたつって、なんか違うことはふわっとわかるのですが、その違いを言葉で説明してと言われてもなかなか難しいものです。でもライターが原稿に書くときに「なんとなーくわかるでしょ」ってわけにはいきません。でもって私の中の理解は、こんな感じ。

「事実」は、物理的または理論的な共通認識で、「真実」は、「事実」に対する個人的理解、私バージョンの理解。

例えば「事実」が「浮気する男に嘘つき」だとすれば、浮気する男の「真実」は「その瞬間は本気」。はたからすれば「嘘こけ!」と言いたくなりますが、「それが俺の真実だ」と言われれば、少なくとも証明することはできません。

さらに「真実」は辛い思いをする人間にとっての「慰め」だったりもします。何度も浮気をされる女性にとって、「私と一緒にいる時の彼の笑顔だけが真実」と信じられることは、「客観的に見て愛されていない」なんて事実より、時にずっと意味のある事だからです。

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1930年代のパリを舞台にした『プラネタリウム』は、スピリチュアリストの姉妹の運命を描く物語。アメリカからやってきた姉妹は、バーなどでショー的な「降霊会」をやってお金を稼いでいるのですが、この「霊」こそ「真実」の最たるものです。

降霊会では、姉ローラが雇用主と交渉してショーを仕切り、特殊な能力を持つ妹ケイトが必要に応じて霊を呼び出します。姉妹には身寄りがなく、だからこそ姉ローラにとっての大命題は「妹を守ること」と「ふたりで暮らしてゆくために成功すること」。押しの強い彼女にちょっと詐欺師めいた感じがするのは、彼女自身が本当のところでケイトの霊能力を信じていないから。でもピュアで内省的な妹ケイトは自分の力を信じています。実際、彼女の能力で失った人と交信した人も一人や二人ではありません。

じゃあケイトの能力は「事実」でしょうか?もちろん「事実」かもしれません。

でも、「自分は姉の付属物ではない」と信じたいケイトと、「彼/彼女は今も近くにいる」と信じたい大切な人を失った人、両者が出会ってともに信じ、作り上げた「真実」かもしれません。

映画にはケイトの能力に入れ込み、それを「事実」とするためにフィルムに収めようと入れ込んでゆくユダヤ人の映画プロデューサー、コルベンが登場します。フィルムに映ったものは霊なのか、それともただの煙なのか。そもそも霊はフィルムに映るのか。映らないから、いない証明になるのか。何ひとつとして「霊がいる/いない」の確証にはなりません。

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映画はそうした「霊」をメタファに、迫りくる戦争によって暴かれてゆく事実と、それとは別の真実を浮き彫りにしてゆきます。例えばコルベンがユダヤ人である「事実」は、彼についての様々な「真実」を覆して余りあるものなのでしょうか。その事実は、彼の周囲の人が見てきたコルベンの「真実」のすべてを帳消しにするほど、大事なのことだったのでしょうか。

プラネタリウムの満天の星空は、当然ながら作り物です。でもその天蓋に映る無数の星々は実際には存在していて、だけど本当の星空では見ることができません。「真実」と「事実」って、もしかしたらそういうものなのかもしれません。映画は世界のそんな一面を、美しさと悲しさで描いているように思います。

『プラネタリウム』

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