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12年ぶりの半期優勝!高知ファイティングドッグスの復活を支えた元南海戦士子弟コンビ

阿佐智ベースボールジャーナリスト
高知ファイティングドッグスの吉田監督と定岡コーチ

 「人事異動」。浮世で雇われ人として生きていかねばならない多くの人にとって、避けては通れない関門だ。嫌な上司、苦手な部下。胃が痛くなるような環境に放り込まれるようになるやもしれぬが、それでも大方の人は、生活のため、女房子供のため組織の下した命令を受け付ける。近年は、「成果主義」が導入され、年下の上司の下で働かねばならない状況も増えているらしい。ちなみに筆者の知人が務める銀行では、50歳も過ぎれば、幹部候補以外の大多数の行員は肩を叩かれ、系列会社への片道切符の出向か、取引先企業への転職となるらしいのだが、その知人は取引先への転職を選んだという。

「だって、系列会社だと本社へ行ったとき、(自分に代わって管理職になった)後輩に頭を下げることになるんだよ。それはごめんだね。」

 なんだかんだでいまだ「年功序列」が染みついている日本社会。「年下の上司」というのは、双方やりにくいものだ。

 野球界も似たようなものだ。とくに現役時代は、極端なくらいのタテ社会。選手時代は、身分的にはフラットで普段は年功序列がものをいうが、指導者としてベンチ入りする際には、監督、ヘッドコーチ、その他のコーチと組織としてのタテ関係が生まれてくる。そこで、監督より年上のコーチなどという人事はやりにくいに違いない。

かつてパ・リーグナンバーワンの強肩遊撃手として名を馳せた定岡智秋は、現在、四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグスのコーチを務めている。彼が今シーズン仕えた「上司」、つまり監督は、かつて自分がこのチームの監督を務めていたときの投手コーチ、吉田豊彦だ。要するに上司と部下の立場が入れ替わったかたちになる。その上、彼らふたりはいまはなき南海ホークスでコーチと選手の間柄だった。

立場が変わっても不変の信頼関係

高知球団復帰について語る定岡コーチ
高知球団復帰について語る定岡コーチ

「高校(大分県柳ヶ浦高校監督)の方を見ていたんですが、その契約が2年前に終わったんです。でも、まだ体も動くんで、球団に電話してみたんですよ。そうしたらたまたま復帰できたんですね」

 根っからの野球好きなのだろう。齢67にして定岡はフィールドを去ることを潔しとしなかった。高知球団は、ふたつ返事で定岡の復帰を了承した。しかし、その時すでに吉田の監督就任は決まっていた。かつてと立場は逆転するが、定岡にはそんなことはどうでもよかった。

「私はそんなのはあまり関係ないと思うんです(笑)。僕がもう表に出られるわけでもないし、吉田監督は、自分の野球をしたいでしょうから、そこで私がいろいろ言うと、やっぱりやりにくいじゃないですか。だから極力控えめを心掛けています。基本的には裏方まわりました」

 現役時代の大先輩かつ、かつての上司の現場復帰に、吉田も全くやりにくさは感じなかったと言う。

「僕の方は、その前のシーズンの割と早い時期に前の監督の駒田徳広(元巨人、横浜)さんがシーズン後に辞めるという話があって、シーズン終盤には次の監督の打診をいただいていたんです。でも、なかなかすぐには返事できずにいたんです。結局お受けすることになったですが、そこからコーチングスタッフを探すとなるとなかなか難しいですね。僕にはつてもありませんでしたし。そういうところに定岡さんが戻ってくるという話が出てきたんです。定岡さんならこのチームのも分かってくれているし、各選手の接し方とかそうところも含めて十分だなと。そもそも、僕は定岡さんに声掛けていただいて、ここにお世話になることになったんです。他のリーグからコーチの話が先にあったですけど、定岡さんから声がかかったら行くしかないですよね(笑)。あとはその体力的なものだけが心配だったんですけれど」

 「控え目」を心掛けているという定岡だったが、この吉田の言葉にはすぐに横やりを入れた。

「全然、問題ない。高校の指導の方がよっぽどきついですよ(笑)。高校生だとやっぱり70人ぐらいいますから。それも1年生から3年生まで。ちょっと大変ですよ。独立リーグの選手はある程度大人ですけど、高校生の2つの年齢差はかなり違います。上下関係もありますし。高校生は、返事はいいけど、分かっているのか分かっていないかがよく分からないのがいっぱいいるし(笑)。それを70人面倒みるとなると、ちょっと大変でしたよ」

 生徒たちは、目の前の「おじさん」が、かつての球界ナンバーワンの強肩内野手であることも、インターネットで調べて一応は知っていたらしい。定岡は、時として「先生」として、他の部活の生徒も交えて教壇に立ち自らの経験を語ったこともあったと言う。

 そんな定岡の復帰は、新監督の吉田にとっても渡りに船だった。

「僕も監督業は初めての経験で、何も分からないんですよ。そういう意味では経験のある定岡さんからアドバイスをいただけるなとは思っていました。僕なりに目指したい野球はあったんですけれど、それまでのこのチームは、細かい野球、足を絡めたり、守備とかそういうのは全然駄目だったので」

高校指導者を経て久しぶりに見た独立リーグ

 7年ぶりに四国に戻ってきた定岡の目にアイランドリーグの野球はどう映ったのだろう。「ピッチャーのレベルは上がっていますよね。野手はそうでもないと思うんですけれど。みんな平気で140キロ代後半投げるじゃないですか。スピードガンの数字が上がっているのもありますが、確実に速くなっています。各チームに1人、2人は絶対いいピッチャーがいますしね」

 トレーニング技術の発達により、アマチュア球界を含め投手の球速は年々上がってきている。上のレベルに行くならば、高校生でも140キロは当たり前、プロ(NPB)入りとなると、150キロは出ないと苦しいというのが相場だ。定岡の「留守」を預かっていた吉田は、独立リーグのスカウティングが変化したことも、投手のレベルアップに影響を及ぼしているのではないかと、その要因を挙げる。

「以前はトライアウトが必要だったんですけど、今は大学などとのつながりができて、そこからあとちょっとでNPBに進めなかったレベルのピッチャーが入ってきます。それに社会人の実業団も数が減ったり、待遇が悪くなったりで、そこからも結構いい選手が来るようになったと思うんです。クラブチームも厳しくなっている状況でしょう。選手の方も、NPBを目指すなら、大学に行って4年やるのか、大学から社会人に行ってさらに2年やらなきゃいけないとかということじゃなくて、短期で行ける独立リーグへっていう考え方に変わってきているんじゃないかなと感じますね」

かつての上司との「トロイカ体制」

厳しくも優しい目線でチームを見続ける吉田監督
厳しくも優しい目線でチームを見続ける吉田監督

 今シーズンの高知ファイティングドッグスは監督の吉田とコーチの定岡、さらにもうひとり、定岡と同時に復帰してきた勝呂壽統(前オリックスコーチ)の3人でチームを取り仕切った。投手に関しては、長らくピッチングコーチを務めてきた吉田が主に担当、野手に関してはともに現役時代ショートを守っていたコーチふたりに任せていたと吉田は言う。そうなると、監督として自分の色を出せなくなるのではないかとも思うが、そのあたりは吉田自身、無論のこと、自分の思い描く理想像があるし、定岡も後輩監督のその思いを含めつつ、コーチとしての分限を考えながらやっていたようだ。

「僕はもう野手のことは定岡さんに全てお任せしています。でも監督は自分ですから。監督としての目標は、高知で一緒にやった、定岡さん、駒田さん、それにプロ入りした時の杉浦(忠)さんですね。その色を出していきたいなとは思っています。自分としては、やっぱり雰囲気のいいチームにもしたいと思いますけど、でもそれだけではいけないので厳しいところも必要だなと思っています。そのために高いレベルで教えられる人がいてくれたらいいなというのが僕のイメージなので、そういう意味では今のスタッフすごいマッチしていると思っています」

 そう言う吉田は、常に自分を立ててくれる定岡の気遣いに恐縮しきりだと笑う。

「野手に関しては。私だけでなく、勝呂も結構、見ていますよ。試合のメンバーに関しては、相談はされますが、最終的には、吉田監督が決めることですよ。私があれこれ言ったらおかしくなるでしょう。そこは気を付けています」

 そういう定岡は、高知に復帰して以来、かつての監督時代同様、高知市内から車で小一時間の田舎町にある寮で選手とともに生活をしている。

「やっぱり自分の好きなことをやるのは楽しいじゃないですか。私はもうずっとそういうことばかりやっているから、何もしなかったらいっぺんに老けて、ジジイになりますよ(笑)。クビと言われない限りは、やらせてもらうつもりです」

田舎球団、高知FDの魅力

 かつて高知球団のオーナーは、吉田を「田舎者」と表現した。決して悪い意味ではなく、このチームを率いるには都会の感覚ではやっていけないということだ。高知市を離れれば、山村が点在するだけというこの県で、球団はあえて郊外の山村に本拠を置き、究極の地域密着を行うことによって球団の持続可能性を探っている。かつては球団の収益を上げるため、農業にも手を広げ、牛まで飼っていたこの球団に溶け込むには都会的なセンスはかえって邪魔になる。その点、大分の農家の出である吉田は、うまく溶け込めた。そして、定岡も「私だって鹿児島の出ですから」と口をそろえる。

「高知は、好きな球団ですね。他の独立球団のことは分からないので何とも言えませんけれど。地域に支えられて、みんな頑張って成長してきていますし」。

と言う吉田に、定岡も続ける。

「それにオーナーや社長、地域の方々と酒を酌み交わすのもいいねえ」

 そういう雰囲気の中で、「ドラフト未満」の若い選手と汗を流すことが、根っから好きなのだろうということはその表情からうかがえる。しかし、そこはプロ野球でもありNPBへの登竜門でもある独立球団。ペナントレースに勝たねばならないし、ドラフトにかかる選手も育てねばならない。

そう言う中で実際にチームを率いてみると、コーチ時代と比べて心労は比べものにならないくらい増えたと吉田は言う。

「やっぱり勝ち負けの責任がありますから。全部勝つのは無理な話なので、そこまでは思いませんけれど、負けるとやっぱりズシンと来ます。とくに、ピッチャーは僕が預かっているんで、継投で失敗したときはショックが大きいですね。それに、ここは独立リーグの永遠のテーマなんですけれど、勝つことと育てなきゃというところの両立ですね。これが難しいんですよ」

NPBから独立リーグへ。指導者が必ず通る道

監督の吉田も、定岡と同じくNPBでの指導経験をもっている。楽天イーグルスで現役を終えた後、2008年から3年間、コーチとしてファームの選手に接してきた。その吉田の目にも、最初に目にした独立リーグは異質なものだった。

「最初はすごいギャップを感じたんですね。選手たちを見て、正直、プロ(NPB)を目指すには、甘すぎるなと思いました。だから最初は、ちょっと厳しく接した時もあったんです。でもこれじゃ駄目なんだなということにはそのうち気付きました。そういう時、当時監督だった定岡さんの選手とのコミュニケーションの取り方とか見て学びましたね。このレベルの選手とはこういうふうに話さなきゃいけないんだなと思って、だいぶやりやすくなりましたね」

 その吉田の苦労を見てきた定岡は、自身の経験から独立リーガーたちへの指導スタンスについて、こう語る。

「私もNPBでは、ファームでの指導が多かったから、その辺のむつかしさはわかっていたつもりでした。一軍のコーチはある意味、楽な部分があるんです。駄目だったらファームに落としたらいいんだから。だから、独立リーグでも、ここではこのレベルの選手しかいないのだからと考えて選手には接してきました。NPBという場は、スカウトに選ばれて、ある程度のお金をもらって入るところ。独立リーグはそうじゃないから前提が違うじゃないですか。だから目線はだいぶ落としましたよね。いろんなことをできないだろうというところから入っていきました。選ばれた選手が集まるNPBの選手と同じように指導しても、多分できないでしょうから、どうせ頭打ちになると思いました。こちら側がちょっと目線を下げて、このぐらいまでならできるだろうとか、そういう考え方で指導しました」

ふたりそろってインタビューに応じてくれた
ふたりそろってインタビューに応じてくれた

 寮で選手と寝食をともにしている定岡に対し、監督の吉田は、選手とは別住まいだ。

「その方が僕にはいいですね。寮だったらどうなっているか分からない(笑)」

 高知ファイティングドッグスは、2021年シーズン、定岡監督時代の下、年間総合優勝を飾った2009年以来の半期優勝を果たした。残念ながらリーグチャンピオンシップではリーグ歴代最多の優勝回数を誇る香川オリーブガイナーズの軍門に下ったが、来たる新シーズンこそ、「元南海子弟コンビ」で13年ぶりのリーグ制覇を目指す。

(写真は全て筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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