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前代未聞の「退団騒動」を巻き起こし、「メジャー挑戦」した男の目に「田澤ルール」撤廃はどう映るのか

阿佐智ベースボールジャーナリスト
「メジャー挑戦」後、イタリア球界にも身を投じた前田氏(写真提供・ボローニャ球団)

 11月2日、今ドラフトで指名がささやかれながら指名がなかった元メジャーリーガーの田澤純一投手が、現所属球団のルートインBCリーグ・埼玉武蔵ヒートベアーズのYouTubeチャンネルで、現在の心境を語った。いまだ気持ちの整理がついていないようで、今後の去就は未定だと言う。

 田澤投手は、上位指名が確実視された12年前のドラフトを前に指名を拒否。レッドソックスとメジャー契約を結んでMLBでプレーする道を選んだ。日米のプロ野球間には、互いのリーグのドラフト候補のアマチュア選手の獲得は控えるという「紳士協定」があったが、MLBは明文化されていないこの「協定」を無視するかたちで田澤を獲得した。これに対し、日本側のNPBはドラフトを拒否してMLB球団と契約したアマチュア選手に関して、日本球界復帰後、一定期間を置かねばドラフト指名を控えるという「田澤ルール」を設定。人材の国外への流出を防ごうとしたが、今回、田澤が独立リーグで日本球界復帰を果たしたのを機にこの「ルール」を撤廃した。田澤は晴れてドラフト指名を受けることができるようになったが、現実には来年35歳を迎えるベテランを「新人」として獲得する球団はなかった。

 野球ファンの間では、NPBドラフトを拒否し、MLB球団と契約した過去のある田澤をヒールと扱う論調が目立つが、田澤は野球人として、より高いレベルに自らを置きたかっただけだろう。アスリートとしての本能に従ったまでである。

 今から四半世紀近く前、田澤以上に強硬な手段で「メジャー挑戦」を強行した男がいた。彼の目には「田澤ルール」はどう映るのだろう。その男に会いに行った。

日本人初の100マイル(160キロ)投手

四半世紀前の「騒動」を振り返る前田氏(筆者撮影)
四半世紀前の「騒動」を振り返る前田氏(筆者撮影)

「僕の時は、もう悪人扱いでしたからね」

と当時を振り返るのは、前田勝宏さん(49歳)だ。彼の名を覚えている野球ファンももう少なくなっているかもしれない。1995年オフ、彼はスポーツマスコミをにぎわせた「時の人」だった。

「メジャーですか。もう中学校の時からあこがれていました。理由は覚えていないんですが」

 1980年代。まだ「ブーム前夜」で、海の向こうの野球の映像など見る機会はほとんどなく、2年に1度、オフにやってくるメジャーリーグチームとの日米野球もさほど話題にもならなかった頃だ。前田さん自身も、とくに好きなチームや憧れの選手がいたわけではないと言う。中学時代には向かうところ敵なしで「プロに進むのは当たり前」と考えていた前田さんにとって、目指すところは世界最高峰の場であったということだろうか。

 地元、神戸の弘陵学園高校から社会人の名門、プリンスホテルへ進んだ。当時の石山建一監督が語る世界の野球に、前田さんのメジャーへの思いはますます強くなった。そして、高卒社会人選手のプロ入りへの年限である3年を経て、1992年秋にドラフト2位で西武ライオンズから指名を受けプロ入りするが、それも彼にとってはメジャーへの通過点でしかなかった。

「プロで何の実績もない人間がなにゆうとんねんって感じですけどね(笑)。それでも当時は自分が一番やと思っていましたから」

 そんな前田さんの大きな転機となったのは、プロ2年目、1994年オフに参加したハワイ・ウィンターリーグだった。MLBがマイナーの有望株を集めて行うこのリーグには、NPBからも多くの若手が参加。あのイチローや新庄剛志ら、後の日本人メジャーリーガーも多数武者修行に行っている。持ち前の剛速球をいまひとつ生かし切れていない前田さんにブレイクのきっかけをつかんでもらおうと球団は、送り出したのだが、本人はもうこの時点で「そのままアメリカへ行くつもりだった」と振り返る。

 身長188センチの堂々たる体躯から放たれる100マイル(160キロ)の剛速球にMLB各球団のスカウトの視線はくぎ付けになった。前田さん以上のストレートを投げるピッチャーは当時メジャーリーグにもほとんどいなかった。スカウトたちは前田さんのもとに押し寄せ、こう聞いた。

「日本での契約はどうなっているんだ?」

 それでも帰国後、西武と翌年の契約を結んだ。アメリカに行くと言っても、どうやって行けばいいのか見当もつかなかったのだ。契約の翌日、MLB球団から身分照会があったことを報道で知った。そして、自分と同じことを夢見ていた男がいたことを知った。近鉄のエース、野茂英雄が、国内他球団とは契約できない「任意引退」のかたちで球団を去り、ドジャースとマイナー契約したのである。

 翌1995年。前田さんは、キャンプインから「メジャー移籍」を公言する。そしてその言葉通り、シーズンが終わると、球団にメジャー挑戦を訴え、それが受け入れられないと分かると、ついには「退団書」を突きつけ、秋季練習への参加を拒否するという前代未聞の行動に出る。メディアはこぞって「第2の野茂問題」と書き立て、前田さんを追い回した。しつこくつきまとうメディアに悪態をつく金髪の大男の姿は、まさにヒールそのものだった。

 このシーズン、前田さんは、プロ入り最少の2試合の登板にとどまり、チームの当面の戦力構想に入っていないことも示唆された。ならば、退団させてくれてもいいだろうという主張を、渡米したいからと言って簡単に退団させることは悪しき前例になると認めない球団との交渉は平行線をたどった。年が明けると、前田さん側は、契約金返上を申し出、キャンプ参加も拒否した。結局、球団側が折れるかたちで前田さんは、金銭トレードというかたちでヤンキースに移籍することになった。

 1996年6月に渡米し、2Aからのスタートとなったが、8月末には7回2死までノーヒットの1安打完封という快投を演じ、ベンチ枠が拡大する9月からのメジャー昇格の期待が高まった。しかし、メジャー契約の枠が空くことはなく、昇格は見送られた。今にして思えば、この時が一番メジャーに近づいた瞬間だったのかもしれない。5年間のアメリカ生活で3Aに昇格したことはあったが、結局、メジャーの舞台に立つことはなかった。この5年間でヤンキースは4回のワールドチャンピオンに輝いている。充実する戦力の中で、実績のない日本人投手を必要とはしなかった。あせりからか、フォームを崩し、自慢のストレートも100マイルはおろか、90マイルを下回るようになっていた。

 ヤンキースとの契約が切れた後、日本に戻り、中日に入団したが、一軍登板なく退団。その後、台湾、中国、イタリアを渡り歩き、最後は日本の独立リーグで3シーズンを送った後、引退し、現在はスポーツ店に勤務している。

「メジャー挑戦」という茨の道

現役生活の最後は地元・独立リーグ球団、明石レッドソルジャーズで迎えた(筆者撮影)
現役生活の最後は地元・独立リーグ球団、明石レッドソルジャーズで迎えた(筆者撮影)

「田澤ルール」撤廃によってアマチュア選手の「メジャー挑戦」のハードルが下がったことについて、前田さんは、自身の経験を踏まえた上で、肯定的に捉えながらも成功の確率は低いと考える。

「選手からすればいいことだと思いますよ。ただ、行けば何とかなるっていう世界でもないですけどね。とくにメジャー契約ではなく、マイナーから始めるのは本当にきついですよ。みんなそこを分からずに簡単に『メジャー挑戦』って言うでしょう(笑)。アメリカは契約社会。だから日本の一流投手は、メジャー契約で行くでしょう。

 バス移動なんかの環境もそうですが、いくら好投しても、上へ上がれないっていうのは精神的にきついです。枠が空かない限りは2Aで好投しても、3Aにすら上がれませんから。向こうは素材重視で、世界中からごっそり選手を獲ってきて、あとは結果重視の放ったらかしですからね。コーチも各チームのマニュアルに沿った指導しかしません。その中で、数字を残して、なお且つポジションに空きが出てきてようやく上に上がれるんです。日本でそこそこできたからって、じゃあメジャーっていうような甘い世界ではないですよ。アマチュアの選手もプロの選手もそれを分かった上で、行った方がいいと思いますよ。実際、マイナーから本当の意味で這い上がってメジャーリーガーになった日本人なんか、マック鈴木君くらいしかいないでしょう。何年か前も社会人からアメリカに行った選手がいましたけど、彼は今どうしているんですか?」

 2018年のドラフトの目玉だった吉川峻平投手は、シーズン途中に所属先のパナソニックに退部届を出さぬまま、ダイヤモンドバックスと契約を結んだ。社会人野球を統括する日本野球連盟は、彼を事実上の永久追放とした。昨シーズン、彼は「四軍」にあたるA級で先発ローテーションを守ったが、今シーズンはコロナ禍でマイナーのシーズンはキャンセル。MLBへの登竜門と言われる2Aのマウンドもいまだ踏んでいない。

 それでも前田さん自身は言う。もう一度あの頃に戻れば、やはり何としてもアメリカに渡ったと。自身の経験と照らし合わせて、前田さんは「田澤ルール」とその撤廃について、こうまとめてくれた。

「やっぱり、行く本人の気持ちが一番大事じゃないでしょうか」。

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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