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「ナックル姫」のダンナは球団社長:新生独立球団・福井ワイルドラプターズ社長奮闘記

阿佐智ベースボールジャーナリスト
小松原鉄平福井ワイルドラプターズ球団社長

 先日、ユーチューバーが設立した独立リーグ・ルートインBCリーグの新球団、福井ワイルドラプターズの雨にたたられた有観客開幕試合についてレポートしたが(「独立リーグも有観客試合初日。ユーチューバーが創った「新球団」福井ワイルドラプターズ、雨にたたられる」, https://news.yahoo.co.jp/byline/asasatoshi/20200713-00187822/)、12日の試合に続いて15日の試合も雨天中止、17日の主催ゲームでようやく、新生球団として主催ゲームでファンを迎え入れることができた。最終的に中止となっても、球団サイドは当然のごとく試合開催に向けて準備をする。レポートした12日の試合でも、選手、指導陣らのフィールドスタッフがゲームに向けての準備をするのを見ながら、ファンを迎えるために奔走するフロントスタッフの姿があった。その先頭に立って陣頭指揮にあたっていたのが、小松原鉄平球団社長だ。

福井ワイルドラプターズのエリート社長

多忙な中、インタビューに応じてくれた小松原鉄平社長
多忙な中、インタビューに応じてくれた小松原鉄平社長

 昨年球団経営から撤退した運営会社に代わって福井球団の運営を引き継いだ株式会社FBA。その経営陣、フロントスタッフは、「高学歴集団」だ。共同オーナーのふたりはともに有名国立大出身、フロントスタッフにも世の受験生がうらやむトップ国立大出身者が名を連ねる。そんな新運営会社を現場で切り盛りするのが小松原鉄平社長、35歳。筑波大学から大手証券会社に進んだという経歴の持ち主だ。しかし彼は、何を思ったか、人もうらやむエリートコースから4年で退場してしまう。

「最初から5年以内に辞めて起業したいと思っていたんです。証券会社にも、いろんな経営者と話ができるんじゃないか、いろんな業界のことを知ることができるんじゃないかと思って入ったんです。」

 入社2年目に同級生がつくったクラブチームでプレーするようになったことで、退社への思いは一挙に強くなったという。社会人になってから羽振りが良くなり体がひと回り大きくなったことも背中を押した。

「大学時代は食べても食べても体が大きくならなかったんですけど、結構給料も良かったんで焼肉なんかばっか食べてたんです(笑)。そうすると飛距離も伸びて、いけるんじゃないかと…」

 2009年秋、独立リーグのトライアウトを受けたものの、合格を勝ち取ることはできず。捲土重来を図るべく、小松原は会社を辞めてしまう。時代は「就職氷河期」。しかし故郷の両親は、せっかくのエリートの道から外れることにも反対することはなかった。

「親父からは、『誰に聞いても、もったいないって言うぞ』と言われましたけど。もう独立リーグを目指すって決心してましたから、しっかり準備して次のトライアウトに臨むつもりで辞めました。生意気なんですが、孫正義とかイチローが証券会社で働いたらもったいないでしょうという気持ちでした(笑)。会社に留まるかどうかは、人によるでしょう。やりたいことによるでしょうという気持ちでした。会社を辞めたら後悔するかもしれないけれども、今、挑戦しなきゃ100%後悔するというのは分かっていたので」

 翌年秋、BCリーグのトライアウトの場にひときわ大きな小松原の声が響いた。通常、この場では、殺伐とした空気が流れ、無言のままテストが行われる。その中で、自分だけでなく、ライバルである他の選手を鼓舞する小松原の姿はいやがおうにも目立った。 

「みんないいパフォーマンスを出した中で選んでもらえたら幸せだなと思ったので、自分も全力を尽くすし、他の選手も励ましました。まあ、僕はもう26歳で、周りは僕より年下の選手ばっかりでしたし。」

 その姿を見逃さなかったのが、リーグ代表の村山哲二だった。BCリーグの理念にも共感してトライアウトを受けたという小松原の姿を見てこの男と一緒に仕事をすることを決める。小松原はこの時を振り返る。

「前の年にも、お前は証券会社辞めてウチに来るのかって言われたんですけどね。結局、この年もダメでリーグのフロントスタッフでどうだって言われたんですが、関西のリーグの方は受かったんで、そちらに行くことにしました」

 一方の村山はこう回想する。

「選手としても十分なパフォーマンスだったんで、各チームにプッシュしたんです。でも、年齢がもう翌年シーズン終わりには27歳になるとあって、ドラフトはもう難しいと獲得球団がなかったんです。」

 プレー先として選んだ関西独立リーグは、この当時経営難から無給となっていたが、それも気にはならなかった。彼にとっては独立リーグも、将来の起業のためのステップでしかなったのだから。

 「どうせ起業するなら野球界に恩返しという気持ちはありました。でも、僕は高校も大学も公立でしたのでNPBの関係者との人脈というのが全くなかったんです。独立リーグに行けばそういう縁ができるんじゃないかと思いました。もちろん、選手としてNPBに行こうという気持ちが全くなかったわけではないですよ。NPBも、その後のビジネスの武器というとらえ方でしたね。例えば、NPBで首位打者になれば、その先はやりやすくはなると思うので」

 3年。独立リーグ入り時点で26歳だった小松原が決めた期限だった。この間、介護職やケーキ屋で勤めながら、リーグを代表する選手として活躍したが、ドラフトにかかることはなかった。引退を決めた小松原に、球団からコーチ兼任での現役続行や、アルバイト先のケーキ屋から修行してみてはどうかというオファーがなされたが、小松原は母校の大学院に進むことを決心した。

 「関西では、今振り返っても胸が張れるぐらい練習量もこなしましたし、すごく充実した3年間でしたね。バイトでも、介護職では女性ばかりの中で働いたり、いろいろ勉強になりました。でも、もっとストレスのかかるところに行かないと、自分のキャパシティをもう増やせないなと思って。次のステージに行かなければと、大学院に進んで、指導者のメンタルについて勉強しようと思ったんです。」

 次のステップに進む決心をしていた小松原のもとに、村山から連絡が入った。

「引退するのか。ちょっと話をさせてくれ。」

 話の内容は、無論のことBCリーグ事務局へのスカウトだった。ことを察し、断るつもりで出向いた小松原は、一献交わした後、村山に頭を下げていた。

「やっぱりNPBじゃできないことがBCリーグだったらできそうだなと思いました。気がつけば、入社してました。」

 入社4年で辞めた証券会社の年収をその後の人生で越えたことがないと小松原は笑う。しかし、その差額以上の充実した人生を彼は送っている。

奥様は「ナックル姫」

 小松原は「ジャパン・ベースボール・マーケティング」の取締役事務局長としてリーグ運営の中心的役割を担ってきた。そこに突如として降りかかってきたのが、福井ミラクルエレファンツの撤退だった。リーグの枠組みを守るため、リーグ当局は早々に福井球団存続に動き出し、新たな出資者の目途をつけた上で、ナンバー2である小松原を新運営会社の経営者として福井に送ることにした。

 小松原は現在単身赴任。2年前にゴールインした夫人とは、3月から直接顔を合わせていない。

「もともとひと月に1回会うか会わないかだったので。そもそも結婚してから一緒に住んだこともないんです」

と小松原は笑う。

 その夫人というのが、「ナックル姫」としてその名を馳せた吉田えり・現女子野球クラブチーム・エイジェックの選手兼任コーチだ。今から11年前、「女子高生プロ野球選手」として、その年発足した関西独立リーグでデビューした「スター選手」と小松原は結ばれたのだ。日本初の「女子プロ野球選手」は、渡米後、BCリーグで5シーズンプレーした後、その活躍の舞台を女子野球界に移している。

 ふたりの出会いは、2012年。最初にプレーした大阪ホークスドリームのリーグ撤退に伴って移籍した兵庫ブルーサンダーズにアメリカ独立リーグから一時的に日本球界に復帰した「ナックル姫」がいたのだ。

 「最初は、もちろんミーハー目線ですよ。『あっ、えりちゃんや』って(笑)。最初のミーティングで席が隣になって、『めっちゃいい匂いするやん』。それが第一印象です。

 その見方が変わるまで時間はかからなかった。志を抱いて飛び込んだ独立リーグだったが、周囲の選手の意識は決して高くなかった。それには染まらまいと、ひとりトレーニングをしていた小松原の前に彼女が現れたのだ。小松原と同じく誰よりも早くグラウンドに現れ、黙々とアップする「ナックル姫」の姿に小松原は心を射抜かれた。

 「そのストイックさに惚れましたね。結婚したい、もうこの子だと思いました。一緒にいると高めあえる、そう思いました。」

 小松原は交際を申し込んだが、最初は断られた。チームメイトとは付き合えないというのがその理由だったが、「さらに上」を目指す「同志」は、惹かれあっていった。

 それまで男所帯だった野球チームに「チーム内恋愛御法度」のルールなどあるはずはない。それでも、交際を感じ取った球団代表からは呼び出しを受けたという。

 「まあ、野球の妨げにはならないだろうということで、とくに何かを言われたわけではないんですけど」

 ふたりが一緒にプレーしたのはわずか数か月。シーズン途中に「ナックル姫」は、アメリカ独立リーグに舞い戻り、2013年シーズン途中からBCリーグでプレーすることになったが、小松原は、このシーズン限りで現役を引退することになった。

 それにしても、男所帯の独立球団に交際相手をひとり行かせることには、不安はなかったのだろうか?

 「全くなかったですね。もともとそういう環境ですし。彼女のストイックさは誰よりも知っていますので。」

プレー以上の価値を

 ワイルドラプターズとして再出発にこぎつけた福井球団だが、その先行きは楽観視できるものではない。

「今シーズンは、報酬もずいぶん減りましたし、移動にしても、少年野球チームからマイクロバスを無償でお借りしています。選手たちはつらいと思いますよ。今まで観光バスで行っていたのが、マイクロにしているわけですから。僕のことを嫌っている選手もいると思いますよ。でも満足する条件にして球団がつぶれてもいいのね、という話なんですよね。まずは球団があることが大前提ですから。

 要望を伝えてくる選手もいますよ。ただ交渉にはならないです。嫌だったら辞めてくれて、こっちは言うし、逆に辞めるという切り札を選手はもっているわけです。こっちも全員に辞められて試合ができなくなったら困るわけですから。それでも僕はこの環境で任意引退なんてあり得ないって思っているので、辞める選手には、他球団に移籍できる自由契約にしてあげるという方針です。そこは対等なんですよ。立場的にはこっちがどうしてもちょっと有利になってしまうのかもしれないですけれども。」

 NPBというトップリーグに入れない「プロ未満」のプロ野球選手で成り立っているのが独立リーグだ。その中で球団運営を人口70万という福井県という地で成り立たせるのは至難の業と言っていい。旧運営会社の撤退に伴ってスポンサーはすべて撤退。小松原は、試合の運営とスポンサー営業に日々東奔西走している。その中で痛感しているのが、独立リーグ球団の価値向上である。

「今、選手のライフスキルというのを高めていこうと思っています。スポーツマンシップっていう言葉がありますね。例えば、1塁ランナーコーチャーがセーフのゼスチャーしますよね。でもそれって審判の仕事を邪魔しているんです。あとは審判が味方になるように礼儀正しくしようとか。そうじゃないんですよね。審判に対しては、公平にジャッジしてくれることに対して、ありがとうございますであるべきだと思うんですけどね。だからまずこのチームは、スポーツマンシップの教育から始めました。

そのスポーツマンシップの上位にあるのがライフスキルです。満員電車に飛び乗らない。要は1本待てばいいんでしょうという、そういうことです。それを選手たちが本当に理解をできて、中学や小学校に行ってスポーツマンシップやライフスキルについて語れるようになったら、このチームは応援されないわけがないと思うんですよね。

独立リーグでも同世代と同じ給料ぐらいは稼げるようにしなければ、本当の成功ではないでしょう。でも、これだけしかお客さん呼べないんだから、現状の給料でも高いと思います。スポンサーも費用対効果としてお金を出しているんじゃなくて、寄付的な側面が強いですね。それをやっぱり「正常」にしたいという気持ちがあります。

 だからまずは選手のマインドから変えていきたいですね。彼らは確かにプロ野球選手です。ただ、その技術というのは魅力の1つでありますけど、キャラクターであったりストーリーであったり、どれだけ野球選手としてのマーケットバリューがあるかがプロの野球選手だと思うので。それに、やっぱりエンタテインメントでお金を取ってやるんですから、主役は選手ではなくスタンドに来るお客さんなんです。だから、それを喜ばせるキャストが選手なんだという球団にしたいです。」

 小松原鉄平は、確かにプライスレスな人生を今、突き進んでいる。

(写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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