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元タイガース、林威助。故郷台湾で二軍監督として奮闘中

阿佐智ベースボールジャーナリスト
インタビューに応じてくれた林威助中信兄弟二軍監督(台湾屏東市中信園區にて)

 先日、阪神タイガースで活躍した林威助(リン・ウェイツゥ)氏が、このオフに台湾で行われる教育リーグ、「アジアウィンターベースボール」(通称・台湾ウィンターリーグ)の台湾プロリーグ、CPBLチームの監督を務めると報じられた。

 台湾から日本の高校に留学し、近畿大学を経て2002年秋のドラフトで阪神から7巡目指名を受け入団。2013年に退団するまで、パンチのある打撃と端正なマスクで人気を博した。この間、2004年アテネ五輪、2009年、13年のWBCでは台湾代表のメンバーとして国際舞台にも立っている。

 2013年シーズン後に帰国すると、台湾でもドラフト指名を受け(CPBLでは国外でプロとしてプレーした選手もドラフト対象となる)、名門、中信兄弟(ブラザーズ)に入団。現役最後の4シーズンを生まれ故郷である台中に本拠を置くチームで過ごした。

 現在、彼はその中信兄弟の二軍監督を務めている。この夏私は、その中信兄弟のファーム施設のある、台湾西海岸南部に位置する屏東市郊外を訪ね、彼に話を聞いた。

阪神時代の思い出や、将来について語ってくれた林威助氏
阪神時代の思い出や、将来について語ってくれた林威助氏

――本日はよろしくお願いします。まずは、林さん個人についてお聞きしたいのですが、野球を始めたきっかけは、日本のプロ野球をテレビで見たことなんですよね?

「小学校の頃、衛星放送で、甲子園の高校野球だったり、西武の郭泰源さんや中日の郭源治さん、大豊(泰昭)さんの試合だったりを見ているうちに、日本でやりたいなと思うようになりました」

――その頃にはもう台湾にもプロ野球はありましたよね。子どものころに台湾のプロ野球は見に行ったことはありましたか?

「はい。どこのファンというのはありませんでしたが、見に行ったことはあります」

――そちらに行こうとは思わなかったんですか。

「と言うより、最初は野球をすること自体に親が反対だったんです。ちょうど台湾にもプロができた頃で、だったら仕方がないなというふうになりました。それ以前は、社会人野球ぐらいしかありませんでしたから両親も私の将来のことを心配してくれたんでしょう」

――それでもやっぱり憧れは日本の野球。甲子園の高校野球にあこがれはありましたか?

「もちろんありました。台湾で衛星放送見てて、高校野球なのにあんなにたくさんの観客の前でプレーできるのですから。実際日本にきて甲子園を目指しましたが、県大会の決勝で負けてしまいました」

――台湾には日本の甲子園のような全国大会はあるんですか?

「ありますよ。でも台湾には全部で100チームほどしかないので。日本は4000でしょ。それに各都道府県代表が出ますから。台湾はそうじゃない。応募すればどこでも出れますって感じなんです」

その後、林少年は、リトルリーグで頭角をあらわし、小学生時代に世界大会で優勝、中学時代にも全国大会で優勝して、再びアメリカの地を踏んでいる。その頃になると、林少年の頭の中でプロという夢は確固たるものになっていた。

――アメリカに行かれたということですけど、その時、アメリカでプレーしてみたいとは思いませんでしたか?

「いや、日本のプロしか考えなかったですね。アメリカってすごい遠いじゃないですか。その当時、アジア人の選手はいなかったと思います。日本はその時は大豊さんがいらっしゃいましたから。僕にもチャンスがあるかなと思ってました」

――それで高校時に日本に留学されたんですが、そのきっかけというのは何だったんですか。

「中学2年くらいの時、コーチから留学してみないかっていう話があったんです。日本で野球をしてみないかって。そのコーチとつながりのある台北の社長さんが(留学先の)柳川高校とつながりがあったんです」

――当時ほかにそういう方はいらしたんですか?

「僕の前に同級生が3人行きました。僕は、親の病気があって最初台湾の高校に進んで、遅れて日本に行きました。その前もテニス部の選手が何人か行っていました」

――その当時、日本の高校を卒業すれば、ドラフトで日本人扱いになるということはご存知だったんですか。

「いや、それは知りませんでした。そもそも、僕らの時は日本での学歴が5年必要でした。今巨人にいる陽岱鋼のころは3年でOKになっていましたが」

――留学した当初、日本語は全くできないわけですよね。

「そうです。だから午前中普通の授業を受けて、昼から2時間ほど日本語の先生についてもらって日本語を学びました。だから最初は午前中の授業は全くわかりませんでした。少しずつ日本語もわかるようになりましたけれども」

林の進んだ福岡県の柳川高校は、過去にも多くのプロ野球選手を輩出している名門校だ。台湾でも、日本の影響からか、高校球児は丸坊主であることが現在でも多いが、柳川高校は、当時としては珍しく長髪OKだったそうだ。

「監督が代わってから坊主じゃなくなったんです。僕なんか、今より長かったですよ(笑)。ほんとラッキーでした。対戦相手は羨ましがってましたよ(笑)」

そうして日本の生活に慣れていきながら林は野球に打ち込んでいった。

――実感として、それでプロに行けるなって手ごたえを感じたのはいつ頃のことなんでしょうか。

「最初は高校2年の頃ですかね。当時の監督からも日本在学5年の制限がなければ、プロに行ける可能性があると言われました。でも当時の制度だと、高校から直接プロに行けば外国人枠に入ってしまう。そうなると最初から結果出さなければいけない。それで大学に行った方が良いということで近畿大学にお世話になったんですが、大学リーグで首位打者をとって、そこでプロに行けるなと思いました。でも、その後も怪我とかいろいろありましたけど」

――もし日本でドラフトにかからなかった場合、台湾のプロ野球に行こうとは思っていなかったでしょうか。

「いや、その当時は考えてなかったですね。とりあえず日本のプロでした。無理だったら社会人野球に進もうと思っていました」

――どうして台湾のほうに目が向かなかったんですか。

「やっぱりレベルが日本の方が上ですから。プロがダメで社会人野球にも進めないようなら、台湾でプレーしようかなと考えましたけど。いったん台湾に帰ってしまうと、日本に戻ることは難しいですから」

 林は、近畿大学からドラフト指名を受け、阪神タイガースに入団。ルーキーイヤーの2003年は、大学時に痛めた膝のリハビリに専念し、2年目の2004年にプロデビューを果たす。この年にはまた、オリンピックの舞台を踏むなどしたが、一軍定着はならず、チームに貢献できる戦力となったのは、2006年になってからのことだった。翌2007年は規定打席にはわずかに及ばなかったものの、外野手としてレギュラーを獲得、しかし、この年の115試合出場、打率.292、本塁打15という成績がキャリアハイで、2013年限りでケガの多かった日本での現役生活を終える。

――タイガースを退団して帰国したときは、もう現役は引退しようと思ったんでしょうか。

「その時は思いました。できれば日本で、無理なら台湾で指導者になりたいと考えていたんですけど、台湾のドラフトにかかったんです。いろんな人に相談したんですが、せっかくドラフトにかかったんだから現役を続けてみればと言われたんです。指導者になるにしても、まずプレーしてみて、台湾のプロ野球はどういうものかをわかった方が良いとアドバイスをいただいて、現役を続けることにしました」

――どちらにしろいずれ台湾には帰るつもりだったんですね。ずっと日本に住むというのではなく。

「そうですね。いずれは帰るつもりではいました。日本には18年も住んでいましたから。野球から完全に離れるのであれば、日本に永住ということもあったかもしれません。私は日本の永住権ももっていますから。今は日本でやってきたことを活かして、台湾の野球に自分なりに貢献せねばと思ってます」

 林の台湾での現役生活は、3年で終わった。主力選手として3割をマークしながら余力を残してバットを置いた。2018年からは中信兄弟の二軍監督として、様々な課題に直面しながらも、林は若い選手を育てている。現在の台湾野球の課題は人材の流出だ。アマチュアの有望選手が自国のプロ野球を経ることなく日本やアメリカのプロリーグを目指している。この流れは一時よりは下火になったと林は言うが、現実にはやむことはない。

――台湾からは、比較的早時期に国外に出てしまう選手が多いですよね。先ほど出てきた巨人の陽選手もそのうちのひとりです。これは、ある意味、林さんが早い時期に台湾を離れて成功した。それでそれに続く人がどんどんどんどん出てきたということではありませんか?そういうことに対して複雑なお気持ちはありませんか?

「それはそうですね。でも、僕は決してプロ野球選手になりたいという理由だけで日本に行ったわけではないんです。野球は一生のことではありませんから。チャンスがあるうちに日本で野球したり、日本語を学んだり、日本の文化を吸収したりとか、それが前提で行ったんです。今の選手たちのことについては、なんとも言えないです」

 将来的には、日本で指導者になりたいという希望もあると林は言う。

「チャンスがあればそうしたいですね。今の野球と10年後の野球は違うでしょうし、台湾の野球より日本の野球の方が多少は進んでいると感じているので、勉強しないといけないですから」

 まだ指導者としては新米の部類に入るかもしれないが、今回のウィンターリーグ選抜チーム監督就任は、彼にとっては大きなステップアップのチャンスだろう。今後、台湾で一軍を指揮するのか、日本に指導者として戻ってくるのか。代表チームの監督として、日本の前に立ちはだかる日もそう遠くないかもしれない。

(写真はすべて筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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