ドミニカで指導者として活躍する元助っ人たち

ドミニカ共和国のメジャーリーグ・アカデミーには日本野球を経験した指導者がいる

 毎年プロ野球には多くの助っ人外国人選手がやってくる。彼らの活躍度はペナントレースを左右する一方、ほとんどの助っ人たちは思うような働きができず、「ダメガイジン」のレッテルを張られ、早々に帰国を余儀なくされる。近年では、各球団の復古イベントも多く開催され、日本球界に足跡を残した「優良助っ人」たちは、そういうイベントに招待され、今なお健在であることを日本のファンに示しているが、大多数の元外国人選手たちは、その存在もファンの記憶のかなたに消えてしまっている。

 しかし、彼らとてひとりの人間、日本を離れてもそれぞれの人生を歩んでいる。日本でプレーした外国人助っ人たちのほとんどは口をそろえて日本での生活を懐かしむ。世界中の様々な現場に足を運ぶと、そういう元助っ人から声をかけられることもしばしばだ。

 この夏、ドミニカ共和国に足を運んだ。そこには、日本ではさしたる活躍ができなかったものの、MLB傘下のルーキー級リーグ、ドミニカン・サマー・リーグ(DSL)で監督を務める2人の元助っ人に出会った。

平成の初め、巨人でチャンスをつかめなかったドミニカン

ヘクトール・デラクルーズ(DSLエンゼルス監督・元巨人)
ヘクトール・デラクルーズ(DSLエンゼルス監督・元巨人)

 ドミニカ南海岸中央部、「ベースボール・バレー」と呼ばれるアカデミーの集まる一角にあるエンゼルスのアカデミー。試合の行われている球場にはネット裏にスタッフ用の小さなスタンドがあるものの、その他はフィールドを取り囲むフェンスがあるだけである。場内を歩けば、そのフェンスで囲まれた両軍のベンチの中は丸見えである。逆に言えば、ベンチの中からも異邦人である私の姿は丸見えというわけだ。

 ここではホームチームであるエンゼルスのベンチは三塁側にある。そのすぐ裏に選手の寮があるからだ。その三塁側ベンチの後ろを通ると、ベンチから声をかけられた。どうやら中国語のようだ。中南米では我々東洋人は一括して「チーノ(中国人)」として、親愛の情を込めてか、はたまたからかいの対象なのか、中国語もどきのわけのわからない言葉をかけられることが多い。しかし、ここは町中ではなく野球場である。「俺は日本人だよ」と返すと、「ワタシハ、ヘクトール・デラクルズネ。ジャイアンツ」と日本語に変わった。

ヘクトール・デラクルズ。日本では英語読みしてヘクター・デラクルズと呼ばれていたが、その名を覚えている人は筋金入りの巨人ファンと言えるだろう。1991(平成3)年のワンシーズンだけ在籍していたドミニカ人選手である。

1984年にブルージェイズと契約。3Aまでは上り詰めたものの、メジャー昇格はならなかった。当時、助っ人と言えば、長距離砲と相場が決まっていたが、俊足で内外野どこでも守れる器用さを買って、巨人は二軍での育成を前提に彼と契約した。

この1991年というシーズンは3連覇を目指していたものの、それまで打線の牽引役だったウォーレン・クロマティが退団、その後釜としてフィル・ブラッドリーをメジャーから呼び寄せ、台湾人の長距離砲・呂明賜を一軍においてペナントレースに臨んでいた。当時一軍の外国人登録人数は2、巨人の助っ人枠はこの2人で埋まっていた。

メジャーリーガーのブラッドリーは日本に慣れさえすれば、ある程度計算が立ったものの(実際彼は打率.282、本塁打21と及第点を残した)、1988年の衝撃的なデビュー(クロマティのケガにより一軍昇格、その後79試合で本塁打16を記録した)以来、じり貧状態が続いていた呂に不安が残った。巨人の予想通り、呂は全くの不振で、彼と入れ替わって5月半ばに一軍昇格を果たし、さっそくスタメンに名を連ねたものの、結果を残すことができず、すぐに二軍に戻され、そこでも目立った成績をあげることができないと、シーズン半ばにして、同じドミニカ人のデニー・ゴンザレスと入れ替わるかたちでリリースされた。

それでも彼はアジア球界に残り、翌1992年から2シーズン、台湾の名門・兄弟エレファンツの三塁手、遊撃手として活躍した片言の中国語はその時に覚えたのだろう。

 その後、メキシカンリーグでもプレーし、1996年に興農ブルズで台湾球界に復帰した後、再度メキシコに戻り1999年限りで引退した。引退後は、メジャーリーグ傘下のマイナーリーグのスタッフとして働き、現在はDSLエンゼルスで監督を務めている。

独立リーグからオリックスへ。一軍の舞台は遠かったベネズエラン

ヨヘンミル・チャベス(DSLドジャース・バウティスタ監督・元オリックス)
ヨヘンミル・チャベス(DSLドジャース・バウティスタ監督・元オリックス)

 翌日は、ドジャースのアカデミー、カンポ・ラス・パルマスに足を運んだ。ここでも、前日と同じように日本語で声をかけられた。ヨヘルミン・チャベスというその名を聞いてもいまひとつピンとこなかったが、オリックスにいたと聞いて、そういう選手もいたなあとうっすらとした記憶が呼び起こされた。

 ベネズエラ人の彼もまたプロキャリアの最初をブルージェイズ傘下のマイナーリーグで始めている。球団はブルージェイズからマリナーズ、カブス、ロイヤルズと移ったが、その間、プロ4年目、20歳のオフシーズンから母国のウィンターリーグでもプレーしている。 

結局、メジャー傘下のマイナーでのプレーは2014年までで、このシーズンの途中にリリースされると、独立リーグのアトランティック・リーグで残りのシーズンを過ごした。結局彼はメジャーリーガーへの登竜門と言われる2Aまでしか昇格することはなかった。

 この時点で彼は25歳。この年齢を超えると、メジャーリーグ傘下のマイナーリーグでは育成の対象から外れ、メジャーへの昇格の可能性は極めて低くなる。とくにビザの枠のある外国人選手にはその傾向が強く、それを悟ったのか、チャベスは日本球界に新天地を求める。

 とは言え、アメリカで取り立てて実績のないチャベスにいわゆるプロ野球(NPB)が興味を示すはずはない。2015年、独立リーグのルートインBCリーグ・群馬ダイヤモンドペガサスに新天地を求め、ここからジャパニーズ・ドリームを目指すことにした。そしてここで打率.301、本塁打4を記録すると、シーズン途中にオリックスから声がかかった。

 しかし、オリックスでは一軍に昇格することはなく、そのシーズン限りで自由契約となり、その後、古巣の群馬に戻り、ベネズエラのウィンターリーグで2シーズンを送った後、27歳の若さで引退している。

 チャベスは今、30歳の若さでドジャース・アカデミーのファーストチーム、「バウティスタ」で監督を務めている。

 ルーキーリーグの監督業は日本でイメージされているそれとはずいぶん違う。育成の場であるアカデミーにおいてはとくにそうだ。ここでは勝ち負けは二の次、勝敗が球団の査定を左右することはあまりない。英語の「マネージャー」の言葉どおり、ゲームをうまくマネジメントすることが最大の査定ポイントである。

 このリーグでは、ここの出場機会は週単位で決められている。だから不動のラインナップというものはない。先発型投手ならこの期間で何イニング、野手も同様に一定期間あるいは、シーズン通して何打席と、おおよその出場機会は球団によって決められている。その結果をもって、翌シーズンの配置、つまりアメリカ本土へ渡るのか、アカデミーに居続けるのか、あるいはリリースされれるのかが決まる。だから、監督はコーチと協力して、当日のスターティングメンバー、試合中の交代を適宜行わねばならない。シーズン中も随時、新たに契約した選手が入って来るので、全選手を把握し、出番を与えるのはかなり煩雑な作業となる。また、投手の場合、球団ごとに役割に応じた投球数の上限も決められている。それは必ずしも厳密な数でもないそうだが、投手に関しては常に球数をカウントし、それに応じて次の投手を用意しておかねばならない。その根本には、「選手は大事な商品」という思想があるため、ブルペンで無駄な球数を投げさせることはご法度である。野手にしてもプロスペクト(有望株)のケガは避けねばならない。

試合中、転倒した外野手を心配そうに見つめるチャベス監督
試合中、転倒した外野手を心配そうに見つめるチャベス監督

 この日の試合中、ドジャースのセンターが大飛球を捕球した後、その勢いで転倒した。頭を打ったらしく、そのままうずくまっていると、トレーナーとともに、監督のチャベスもその外野手のもとに走っていった。幸い、軽い脳震盪のようでその選手はそのままプレーを続けたが、大事な「金の卵」を預かる身、責任は重大なのであろう。

 まだ若いチャベス監督は、自ら三塁コーチボックスに立ち、選手の走塁を鼓舞する。セカンドベースから走ってくる若い選手に「バモス!バモス!(ゴー、ゴー)」とホームベースへの進塁を大きな声で指示している姿が印象的だった。

 日本では成功を収めることができなかった二人の「ダメ助っ人」だが、今もなおカリブ海のきつい日差しの下、野球人として第二の人生を送っている。

(写真は全て筆者撮影)