修士号を取りながらも見果てぬ夢を追い世界中を旅する「野球放浪人(ベースボール・トロッター)」(前編)

大学院修了後、プレーの場を求めて世界中を旅している慶應大学野球部出身の返田岳選手

 先月終わりから今月初めに日本ではさしたる実績がないにもかかわらず、「メジャーリーガーになる」という壮大な夢を抱いて野球の本場・アメリカに渡る若者についての記事を書いた。

「Bチーム」から目指す「プロ野球選手」:「トライアウトリーグ」という若者の夢の巣箱(前編)

  https://news.yahoo.co.jp/byline/asasatoshi/20190630-00132247/

「Bチーム」から目指す「プロ野球選手」:「トライアウトリーグ」という若者の夢の巣箱(後編)

  https://news.yahoo.co.jp/byline/asasatoshi/20190704-00132424/ 

 そこにあったのは、華やいだメジャーリーグの世界とは真逆の一見「やりがい搾取」にも思える厳しい現実だが、そこに身を投じる若者は、そのことを半ば自覚しながらも、「若さ」を資本に夢を消費していた。

私はそこに、昨今世間をにぎわせている「芸人」の世界をも重ね合わせる。本来ならば、オーディションで絞りこまれねばならない才能を、契約書もなしに数千人も抱え込む芸能事務所が存在する背景には、芸能プロダクションが運営する「芸能学校」の存在があるだろう。「芸人」という夢を抱く若者を集めるこの種の「学校」だが、その「卒業生」がその夢をかなえることのできる確率は極めて低い。本来ならば、卒業までの過程で自らの才能に見切りをつけ、現実的な人生設計をするような教育もその「学校」ではすべきなのだが、卒業生のほとんどが目標としていた「芸人」になることができないようでは、その「学校ビジネス」は成立しない。その結果、とてもじゃないが、食うことのできない者たちとも「契約」(正式な書類があるかどうかは別として)し、「芸人」としてのステイタスを与えるのである。

 現在野球の世界で起こっている底辺プロリーグの発生も同じような構図ではないだろうか。

 「アペンディックス・リーグ」と呼ばれるアメリカの底辺独立リーグの多くは、有料のトライアウトを行っている。本来、リーグ、球団がコストをかけねばならないスカウティングをビジネスにしているのだ。その「トライアウト・キャンプ」では、「プロ野球選手」という夢を抱いた若者をプロスカウトの前でプレーさせ、そのお眼鏡にかなった者にはプロ(と言ってもマイナー契約か独立リーグだが)契約を結ぶチャンスが巡ってくるのだ。このようなトライアウトを兼ねた有料(参加料を支払うのはもちろん選手たちだ)キャンプを行っていないリーグも、シーズンオフに各地で行われている「トライアウト・リーグ」と提携しているのであるが、このような場所に集う選手たちが仮にプロ契約を結んだとしても、そこでの不安定短期労働の下で得る収入は、プロ契約を結ぶに至るまでの費用をはるかに下回るものである。その姿は、授業料を支払い芸能学校に通い、卒業後、アルバイトをしながら、自らが出演するイベントのチケットを買い上げ、自らさばき、交通費にもならないギャラを手にする若手芸人のそれと重なる。

若者たちが「副業」と位置付けるアルバイトで手にした報酬と引き換えに手にするのは「プロ野球選手」や「芸人」というステイタスであるのだが、大人の目からは、彼らが費やした金銭、時間、労力とそのステイタスが釣り合うことはない。

「夢」を媒介とした「やりがい搾取」は、ある意味現代社会に現れた新しい現象なのかもしれない。

 今回、紹介するのは、前回登場した「Bチーム」出身の元高校球児と昨シーズンバッテリーを組んでいた31歳の青年である。彼は、プロ野球選手という夢を抱いて名門大学野球部の門を叩いたものの、早々に挫折、指導者から「学生コーチ」という事実上の戦力外通告を受けながらも、それをやり遂げ、その後、大学院で修士号を取りながらも、就職することを潔しとせず、今も世界中の野球リーグを渡り歩いている。その彼の存在は、ソーシャルメディアの発達する中、同じように日本で燃焼しきれなかった野球への思いを国外にプレーの場を求めることで消化しようとしている若者の間では、知られたものになっているという。

進学校から名門大学へ、そして修士号を取った「エリート選手」

 東京・錦糸町。返田岳(そりたたける)に会ったのは昨年の晩秋のことだった。この場所を彼が指定してきたのは、そこが彼の職場の最寄り駅だったからである。「職場」と言っても、彼には正社員の経験はない。野球のプレーの合間にアルバイトをするという生活をもう、5年も続けている。そのアルバイトも、「将来に向けていろんな経験をしたい」と、毎回違うところを選んでいる。残業代も含めると月30万円ほどになるというから、野球のオフシーズンでもあるアルバイト期間には十分な貯金ができる。そういう生活に両親は、はじめはいい顔をしなかったが、野球のシーズンが終われば、きちんと仕事を見つけ働いている姿をみて、いつの間にか何も言わなくなった。

 

 山梨出身の返田は、ごく普通の家庭に生まれた。両親は会社員と公務員、祖父はブドウ園を営んでいたが、数年前にそれも廃業したという。その祖父に連れられ、観に行った神宮球場での大学野球が彼の進路を決定づけた。中学卒業後、進学先に選んだのは、地元山梨でも有数の進学校でスポーツコースを併設している駿台甲府高校だった。

「東京六大学でプレーしたいなって。だから、野球ばかりだと進学は厳しいと思ったので、進学コースに在籍しながら野球部に入りました」

 のちには元プロのOBを指導者として招聘するなど、学校挙げての強化を進めていた野球部は、県内から有望選手を集め、当時50人近くを抱える結構な大所帯となっていた。そういう中にあって、返田は1年の夏からベンチ入りを果たしたというから、まさに文武両道の高校時代を過ごしたと言える。在学中、県大会ベスト8に3回駒を進めたものの、夢であった甲子園は叶わなかった。

高校野球が終わると返田は、名門・慶應大学を受験し、見事合格した。そして2007年春、入学と同時に野球部の門を叩いた。

名門大学で経験した挫折

 しかし、県内では強豪チームに属していたとは言え、控え捕手に内外野を兼任していた程度の返田には、「甲子園組」をはじめ、日本中から有望選手が集まる名門大学の壁は厚かった。返田は大学時代をこう振り返る。

「もちろん、入学した時の目標はプロ野球でしたよ。六大学リーグからステップアップして、その先に行きたいという、まだぼんやりとしたものだったとは思うんですけれども…。でも正直、1年の時点で無理だとは感じましたね。高校ではキャッチャーでしたけど、試合には内野や外野でも出てましたから、大学レベルでは難しいと思って、サードでノックを受けたんです。でも、もう周りと比べて全然だめなのが自分でもわかりました。打つ方も金属バットから木製バットに変わって全然飛ばなくなりましたし」

 強豪大学の現実は厳しい。1、2年で芽が出ないと、次々と入って来る下級生にプレーの場を奪われる。とくに入部者をスポーツ推薦者などに絞ることなく、当時、すべての学生に門戸を開いていた慶應大学野球部は170名を超える大所帯であった。練習はランクに応じた3部制をとっているとは言え、正規の指導者だけでは全選手に目が行き届かない。そこで、おおむね3年に上がるタイミングで選手の選別が行われる。これ以上プレーを続けてもベンチ入りが期待できない選手には、マネージャー、学生コーチへの転身の打診が行われるのだ。「打診」とは言え、体育系クラブにあって指導者からなされるそれには言葉以上の重みがある。中には現役にこだわってフィールドに居続ける者もいるが、その事実上の「戦力外通告」にほとんどの学生は応じることとなる。返田もその打診に応じた。

 「3年春のシーズン前ですね。監督に呼ばれて、『選手としては正直厳しい。コーチという役職でチームの役に立ってくれないか』と言われて…。やっぱり、チームの空気として、勝つために誰かがフィールドから出なきゃならない、断れないみたいな空気はあるんです。その時は、選手として無理なんだったら別の形で役に立とうって思って納得してやったつもりだったんですけれど…」

 

 本来ならば、主力としてフィールドに立つべき大学生活の後半を返田は学生コーチとして過ごすことになった。しかし、あくまで現役にこだわった控えの同級生が同級生がベンチ入りを果たすのを見るにつけ、心の中に「しこり」を感じるようになった。

「コーチをやってみたんですが、正直全然やりがいを感じられませんでした。これだったらプレーしたほうがいいなと。そういう気持ちが少しずつ再燃しました」

 人は自己の欲求を満たすことができないとき、心理的なバランスをとるため、自我を守るため様々な行動をとる。これを適応機制という。そのうちのひとつに、ある面で満たされなかった自我を他の行為で代替する補償という機制がある。スポーツが苦手だった子供が勉強を頑張るという場合がこれに当てはまるのだが、返田も大学野球での挫折を学究で埋め合わせようとした。 

「プロ野球選手になるのはキツイと感じて、これから先、自分の人生の中で何か挑戦をして、自分がやりがいをもてる何かを見つけないといけない思って、学生コーチになったときくらいから一生懸命探し始めたんです。もともと進んだ学部が環境情報学部というところだったので、そのまま大学院に進んでメディアデザインを研究することにしました」

 コーチとはいえ、野球に没頭していたこともあってか、大学院入試には一度失敗した。それでも半年留年し、再受験後、2011年9月に大学院に進んだ。大学院に進んでしばらく、返田は野球から距離を置くようになった。

 「大学では、自分の実力のなさも実感したり、プレッシャーに晒されたりとかして、野球が嫌いになってしまったような部分があったんです。だから大学院に進んでからは、全く野球と関係ないところ自分を置いてました。本当にニュースぐらいでしか野球を見ない状況だったんです。それこそ、大谷翔平が誰かも知りませんでしたから」

再び蠢いた「野球の虫」

 しかし、しばらくすると、野球への未練が返田の中で次第に蠢くようになっていく。

 「なんでキャッチャーでやらなかったんだろう。ずっと小学校からやってきて、挑戦する前にやめてしまったことに不完全燃焼を感じたんです」

 きっかけは、後輩たちのプロ入りだった。返田の後輩たちが3年連続でドラフト指名を受けプロ入りを果たしたのだ。1学年下の伊藤隼太(阪神・2011年ドラフト1位)、福谷浩司(中日・2012年1位)、白村明弘(日本ハム・2013年6位)。

 「あいつらはまだ野球をやっていたんだな」

 そう呟きながら、返田は、最後に挑戦をあきらめた自らを悔いた。そして、高校時代の先輩が独立リーグに入ったという噂を聞いた返田は、「現役復帰」を決めた。

 「NPBに行けなかったとしても、自分の可能性を完全燃焼してみるというチャレンジをしたいという気になったんです」

とは言え、コーチ時代を含めると、もう5年近く体を動かしていなかった。大学院修了を前にして、返田はトレーニングをはじめ、東日本を中心に活動しているルートインBCリーグのトライアウトを受験した。これには準備不足もあって合格しなかったが、いわゆる「就活」もすることなく、年明けに行われた関西を拠点とするベースボール・ファースト・リーグのトライアウトに挑戦し、合格を勝ち取り、2014年4月、大学院修了と同時に返田は大阪06ブルズに入団した。

 この時点で返田は25歳になっていた。

(続く・文中の写真は筆者撮影)