アメリカ野球、東ロンドンに「還る」。:知られざるイギリスプロ野球の歴史

MLB初となるヨーロッパでの公式戦の会場となるロンドン・スタジアム(写真:築田純/アフロスポーツ)

 今週末、史上初めてメジャーリーグ(MLB)公式戦がヨーロッパで開催される。アメリカンリーグの「伝統の一戦」、ボストン・レッドソックス対ニューヨーク・ヤンキースの2連戦が、イギリスのロンドン・スタジアムで開催されるのだ。ロンドン・スタジアムは、2012年ロンドン五輪のメイン会場として建設された競技場で、五輪後はサッカー・プレミアリーグの名門、ウェストハム・ユナイテッドのホームとして使用されている。ウェストハム周辺の東ロンドン地区は、伝統的に工場労働者が集まる地区で、造船会社のクラブとして発足したウェストハム・ユナイテッドは、労働者の象徴である鉄槌にちなんで「ハマーズ」の愛称をもつ。

 本来的に野球場でないロンドン・スタジアムを野球に使用すべく、MLBはメインスタンド前中央にホームベースを置き、サブスタンド中央にバックスクリーンを設置、両翼に伸びるラインに合わせて臨時の桟敷席を設置して観客を迎えるようだ。この競技場は、サッカーの試合でも最下層のスタンドは可動式で、陸上トラックの部分に桟敷を移動させて使用している。今回はそれを野球仕様にするということだろう。そして上層スタンドは通常と同じように使用するようなので、上層スタンドの端の方はフィールドからとてつもなく遠い位置で観戦することになる。通常とはかなり違った「野球場」の風景が試合当日は見られそうだが、実は、これはかつて、ロンドン、それもこのウェストハムで見られた風景なのである。

 信じる人は少ないかもしれないが、実は20世紀前半の一時期、この国にはプロ野球リーグが存在し、東ロンドンにも、サッカーチームと同じ「ウェストハム・ハマーズ」を名乗るプロ野球団が存在していた。

スポルディングの「世界ツアー」と英国野球の始まり

 現在では、アメリカ人にとっての「国民的娯楽(ナショナル・パスタイム)」は、アメリカ固有のゲームではなく、イギリスなど欧州各地に存在したボールゲームにその源流が求められることは半ば常識になっているが、大英帝国から独立し、急速に近代国家への階段を駆け上ったアメリカ人にとって、野球はアイデンティティの源泉であり、これを世界中に広めることはすなわち、新興国家・アメリカの威信を世界中に広めることと同義だった。

 メジャーリーグ草創期の名選手であり、かつ野球ビジネスの大立者であったアルバート・スポルディングは、1874年、自ら手掛ける野球用品の販売促進を兼ね、メジャーリーガーを引き連れて最初のイギリス遠征を行う。これがイギリスにおける「野球事始」とされている。

 続いて彼は、引退後の1888年11月にもメジャーリーガーたちのツアーを目論んだ。このツアーは、当初オーストラリアを目的地としたものだったが、その後予定を変更し、セイロン(現スリランカ)、エジプトを経てヨーロッパに到達、イギリスでは1889年3月に11試合を行った。野球の普及という点においては、このスポルディングのツアーの評価は決して高くないのであるが、結果的にはこの「世界一周ツアー」をきっかけとして、この年、「大英野球協会(The Baseball Association of Great Britain and Ireland)」が設立され、これがプロリーグ、「大英国民リーグ(National League of Professional Base Ball Clubs of Great Britain)」に発展する。

 このイギリス最初のプロ野球リーグは、翌1890年に公式戦を開始したが、興行的に成功を収めることはできず、1シーズン限りで廃絶してしまう。このリーグにはアメリカ人も参加したが、参加4球団中、3球団がサッカーチームも保有していたことからわかるように、選手の多くはオフシーズンのトレーニングとして参加したサッカー選手だった。

3リーグが並び立つ英国野球の「黄金時代」

 その後、世紀が変わる頃には、野球は一部地域で行われるローカルスポーツにすぎなくなっていたが、第一次世界大戦の勃発は、欧州におけるアメリカの影響力だけでなく、野球の地位も押し上げた。大戦中、アメリカ、そして当時はまだ英国籍をもっていたカナダから多くの軍人が来英したが、メジャーリーガーを含む彼らは暇を見つけるとボールゲームに興じたという。

 そして戦後、国際政治における覇権がイギリスからアメリカへ移っていく中、1935年、ジョン・ムアーズ卿の手により、工業都市・マンチェスターを中心とするランカシャー地方に8球団からなる北英野球リーグ(North of England Baseball League)が誕生する。ムアーズは、翌36年にはぺニン山脈を挟んだ反対側に7球団からなるヨークシャー・リーグも設立、同年にはムアーズの影響を受けたアメリカ人(あるいはカナダ人)実業家、L.Dウッドによって首都にロンドン・メジャー・リーグが発足する。このリーグの中心的な地位を占め、一時はイギリス最強野球団とも言われたのが、ウッド率いるウェストハム・ハマーズである。この年行われたベルリン五輪では野球が公開競技として実施されたが、この際、「世界選抜チーム」と対戦すべく結成されたアマチュアの「全米選抜チーム」はドイツへ向かう前にロンドンに立ち寄り、ロンドン・メジャー・リーグのチームと練習試合を行っている。「全米選抜」は、この年のリーグを制覇したホワイトシティ・シチズンズに圧勝したものの、ウェストハムとの対戦を落とし、このため、ウェストハムでは一時野球がサッカーをしのぐ人気を誇ったという。

 これらのリーグにもアメリカ人選手が複数参加したが、米英両国の選手の間の文化的ギャップは激しかったようである。点差が離れると、スポーツマンシップの観点から盗塁を禁止しようとするイギリス人を無視して、盗塁を試みたアメリカ人選手の姿には、現在言われている「アン・リトン・ルール(野球の不文律)」が、この頃はいまだアメリカでは確立されていなかったことを示している。

 当時、スタンドを備えた野球場などこの国にはなく、各球団はサッカー兼用の競技場などを本拠地として利用した。とりわけ、この時期人気だったグレイハウンド・レース(犬によるレース)場は、野球のフィールドを確保するのにちょうどいい広さだったようで、複数の球団がこれを使用した。しかし、メインスタンドとサブスタンドの間にバックネットとバックスクリーンを置いたため、通常の競技場の場合、センターまでの距離が極端に短くなり、ホームランが出やすくなったという。

 3リーグはともに、イギリス野球の統括機関である国民野球協会(National Baseball Association)の傘下にあり、交流戦も行い、プロアマオープンのトーナメント大会であるナショナル・チャンピオンシップにも参加、3リーグが鼎立した1936年はロンドン・メジャー・リーグの優勝チーム、ホワイトシティが全英チャンピオンに輝いた。

ホワイトシティ・シチズンズの本拠として使用された自転車レース場は現在も残っている(Google Mapより)
ホワイトシティ・シチズンズの本拠として使用された自転車レース場は現在も残っている(Google Mapより)

長くは続かなかった「黄金時代」

 サッカーの母国であるイギリスにプロ野球を設立するという壮大な実験は、しかし、長くは続かなかった。ときには、当時のアメリカのマイナーリーグにもひけをとらない数千の観客を集めたものの、人気チームと不入りチームの差が激しく、リーグ全体を維持するのは困難であった。3リーグはともに1937年シーズンでその幕を閉じた。この年のナショナル・チャンピオンシップの決勝には、ロンドン・メジャー・リーグのチャンピオン、ロムフォード・ワスプスとヨークシャー・リーグを制したフル・ベースボール・クラブが進出したが、この試合にはイギリスプロ野球のフィナーレを飾るかのように1万4千の大観衆が押し寄せた。

その後、イギリス野球はアマチュアの時代に入るが、1940年、幻に終わった東京五輪に際して、またもや全米選抜チームが結成され、渡英の上、5試合のエキシビションマッチを行った。のちのメジャーリーガーを2人擁する全米チーム相手に、全英チームは4勝1敗の星を挙げ、五輪中止が決定されると、国際野球連盟(IBF)が、このシリーズを第1回ワールドチャンピオンシップとして追認、この結果イギリスは初代の野球世界チャンピオンの栄冠に輝くことになる。しかし、その現実は、この全英チームのメンバーのほとんどは英国籍をもつカナダ人であった。

 第二次世界大戦を経て、イギリス野球は衰退の一途をたどる。1980年代の終わりになって、世界戦略に目を向けたMLBがイギリスを新たなマーケットとすべくMLBのOBオールスターやマイナーリーガーによる試合興行を行うが、その後、MLBの目は日本を中心とするアジアに向けられ、欧州に関しては、ある程度野球が根付いたオランダやイタリアにより興味を示すようになった。

 今回のロンドンでの「伝統の一戦」のチケットの売れ行きは上々だという。試合当日は6万の大観衆が、「いつかここで見た風景」に酔いしれることだろう。1世紀弱の時を経てウェストハムに戻って来たアメリカのゲームは、野球の未来にどんな影響を及ぼすのだろうか。