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続・サッカー大国ブラジルから来た野球『還流移民』たち:金伏ウーゴ(栃木ゴールデンブレーブス)・前編

阿佐智ベースボールジャーナリスト
ブラジルのクラブチームでプレーする日系人選手たち(佐藤レナン勇氏提供)

 先月、日本でプレーする、またはしていたプロ野球選手という切り口から、日本とブラジルとの間を移動する「移民」を観察し、日系人によってブラジルに広められた野球が、異国の地である日本において、彼らブラジル人たちをつなぐ役割を果たしているのではないかという記事を発表した(「なぜ彼らは白球を追うのか:サッカー大国・ブラジルから来た野球『還流移民』たち」 https://news.yahoo.co.jp/byline/asasatoshi/20180521-00085179/ 2018.5.21公開)。

 ここで登場した、瀬間仲ノルベルト(元中日)、ラファエル・フェルナンデス(元ヤクルト・現日本ハム通訳)、ルシアノ・フェルナンド(楽天)の3人は、いずれも日本においては「外国人」から脱することはできない存在だと自らのアイデンティティについて語った。彼ら3人は、いずれも10年以上日本で生活し、現在は永住権も取得してはいるものの、日本において、自らを「外国人」だと規定していた。フェルナンデスには、そもそも日本人の血は流れておらず、「日系」の資格で来日した2人にしても、同質性を求める日本社会にあって、彼らの外見に残る「ガイジン」の血がアウトサイダーである自身を意識せざるを得なかった。日系人とイタリア系のハーフである瀬間仲、イタリア系と先住民インディオの中に8分の1だけ日系のDNAを受けつぐフェルナンド、そしてヨーロッパ系のフェルナンデスは、日本に生活の基盤を置きながら、それぞれの立場でブラジルという「想像の共同体」に身を置いている。

 

 今回の取材を通してわかったのは、ブラジルに野球を広めた日系人たちは、移住当初からブラジルでの永住を考えていたのではなく、いずれは「故郷に錦」を飾るつもりであったということだ。このことは、世界各地に散っていった日系移民に総じて言えることであり、彼らは貧しかった母国を離れ、一攫千金のあとは故郷で余生を過ごそうと考えていたようなのだ。

 時は流れ、移民を排出せねばならなかった貧国だった日本は、世界有数の経済大国となった。そして、社会の成熟化に伴う労働力不足は、世界中から様々な形での「移民」を呼んだ。1980年代後半から爆発的に増加した日系ブラジル人移民はその流れの中心にあると言っていいだろう。この時期にやってきた主として3,4世を中心とする「還流移民」は、現在その子ども世代とともに日本に生活の基盤を築いている。日系以外の血が混じっていない、または薄いブラジル人たちの容貌は、当たり前の話だが、日本人のそれと変わることはなく、その姿はすっかり日本社会に溶け込んでいるように見える。

日系人プロ野球選手のパイオニアの甥、佐藤レナン勇

 現在、独立リーグ・ルートインBCリーグの栃木ゴールデンブレーブスの球団スタッフをしている佐藤勇は、「純粋な」日系ブラジル人である。彼の流暢な日本語は、そうと言われなければ、外国育ちであることがわかる人はいないだろう。名刺にある「レナン」のミドルネームで彼が「外国人」であることをやっと気付かせる。

 彼の実家は、ブラジルでは有名な野球一家らしい。彼の叔父は、1980年代はじめに阪急ブレーブスでプレーした日系ブラジル人野球選手のパイオニアと言っていい佐藤滋孝(しげたか)。父、允禧(みつよし)は、その兄とともに幼少時にブラジルに渡った。父はブラジル日系人社会でも顔役を務め、ヤクルト商工がブラジル野球連盟と立ち上げた野球アカデミーでは、校長として運営の中心に当たっている。

 そういう家庭に育った彼が、幼少の頃から野球を学び、高校卒業後、日本に野球留学に来たのは自然な流れだったのかもしれない。彼は、2002年、先に留学していた兄、二朗(ツギオ、現ヤマハ)の後を追って白鴎大学に進んだが、ヤクルトに入団した兄とは違い、プロ入りはかなわなかった。それでも、社会人野球の三菱ふそう川崎に進み3シーズンを過ごした後、母校の大学にコーチとして戻り、ここで学位を取得する。その後、社会人実業団チームの監督として2年を過ごした。そんな中、母校経由でもち込まれた独立球団立ち上げの話を聞き、栃木球団のスタッフとして昨年から球団運営に携わっている。

 現在は、日本人女性を妻に娶り、第2の故郷である日本にすっかりなじんでいる。将来的にブラジルに戻るつもりはあるのかという問いにも、「日本は働きやすいから」とどこに住むのかにはこだわっていない姿勢をみせた。かつて船で40日かかった日伯間の距離も、現在は丸一日もあれば移動できるものとなった。そして、ここ栃木にもブラジル人コミュニティがあり、インターネットで地球の裏側といつでも通信できる現在、仕事がある程度軌道に乗り、年1,2度の渡航費くらいを捻出する経済力さえあれば、住む場所にこだわる時代ではないのかもしれない。

 申請さえすれば日本国籍の取得も可能であるはずだが、いまだブラジルのパスポートをもっている。「やっぱりまだブラジル人という意識があるんでしょうね」と佐藤は笑う。

独立リーグでプレーを続ける日系ブラジル人投手

 

 そんな佐藤がスタッフとして在籍している栃木ゴールデンブレーブスには現在ブラジル人選手が2人在籍している。今シーズンから加入したルーカス・ホジョともうひとり、金伏ウーゴだ。野球ファンなら彼の名を覚えているかもしれない。彼は、佐藤と同じ白鴎大学から2011年秋の育成ドラフト2位でヤクルト入りしている。

 ウーゴには日系以外の血は入っていない。今年三十路を迎えた彼は3世というから、大分出身の祖父が移民船に乗ったのは戦後のことだと思われる。第2次大戦時の国交断絶を経て、日本がサンフランシスコ講和によって国際社会に復帰した後、1953年から日本からブラジルへの移民事業は再開された。この時期に同じく日本からの移民を受け入れたパラグアイに隣接したパラナ州アルトパラナでコーヒー農家となった祖父は、福島出身の祖母を妻として迎えたという。現在は、父親がオレンジを栽培しているというが、寒さでコーヒー農園がだめになってしまったというような先代の苦労話を幼少時から聞かされるなど、ウーゴは「ニッケイ」を強烈に意識しながら育った。そんな環境に育った彼が、日系人のエスニック・スポーツと言っていい野球をプレーするようになったのは自然なことなのかもしれない。

「いじめじゃないですけど、子どもの時はなにかにつけ『ハポネス(日本人)』って言われましたね。結局、外見が違いますから。だから中国系や韓国系も『ハポネス』(笑)。日系人じゃないんだけど、なんとなく親近感もありましたね」

 ウーゴは、ブラジルという多民族社会において、微妙な立場にあるアジア系人種のアイデンティティについてこう語る。彼らはしばしば「ニッケイ」の対立概念として「ブラジル人」の語を使い、時には他のエスニックグループのことを「ガイジン」とさえ表現する。

ブラジルから単身日本に渡り、白鴎大学からヤクルト、巨人を経て現在独立リーグ、ルートインBCリーグの栃木ゴールデンブレーブスでプレーする金伏ウーゴ投手(筆者撮影)
ブラジルから単身日本に渡り、白鴎大学からヤクルト、巨人を経て現在独立リーグ、ルートインBCリーグの栃木ゴールデンブレーブスでプレーする金伏ウーゴ投手(筆者撮影)

 そんな彼が野球を始めたのは5歳の時だという。父親が日系コミュニティのチームでコーチをし、兄もまたプレーしたという家庭にあって、学齢期に入る頃に野球を始めるのはある種の通過儀礼だったのかもしれない。しかし、ウーゴ少年はむしろブラジルの子どもならだれでも慣れ親しんでいるサッカーへの興味の方が強かった。

「土日はお父さんに連れていかれるんで野球やってましたけど、平日は学校でサッカーボールを蹴っていました」

 それでも、ウーゴは野球の腕をめきめきとあげていく。中学に上がる頃には、早くも親元を離れ、ブラジルの野球エリートの登竜門、ヤクルトアカデミーで寮生活をすることになった。ブラジルの野球アカデミーは、メジャーリーグがドミニカ共和国やベネズエラで運営するそれとは根本的に違う。ドミニカやベネズエラのそれはメジャー球団のお眼鏡にかなった選手がプロ契約を結び、アメリカへ渡る準備として競技だけでなく、英語なども学ぶ施設で、そこではプロリーグであるサマーリーグが行われているが、ブラジルのそれはブラジル野球連盟がヤクルト商工と協力してアマチュアの強化をする場所だという。ただし、優秀な選手には、日米のプロリーグや大学、高校への道が開かれる。

 選手の家庭は寮費を支払い子どもを預ける。アカデミーでは野球の練習だけで、ゲームは各選手の所属するクラブチームに戻って行う。「アカデミー」とは言っても正式な学校ではなく、寮生たちは、近くの学校に通い学を積む。

 金伏はここでも順調にステップアップし、ブラジルの野球エリートの次のステージ、日本への留学の切符をつかんだ。進学先は栃木の強豪、佐野日大高校。しかし、ここでウーゴは、日系人選手が必ずと言っていいほどぶち当たる壁に阻まれる。ブラジル社会では、マイノリティである「ニッケイ」である自分をしばしば感じさせられたが、「祖国」であるはずの日本で彼は、自分が「ブラジル人」というアウトサイダーであることを思い知らされることになった。(後編に続く)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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