Yahoo!ニュース

バイエルンでの現場復帰、ペップ・グアルディオラの履歴書『誇らしいキャリア』

浅野祐介OneNews編集長
指揮官としてもバルサで栄冠を手に入れたグアルディオラ

2013年7月からバイエルンの指揮を執ることが決定したジョゼップ・グアルディオラは、現場復帰に向けて次のように語りました。

「試合が恋しかった。確かな準備を施してくるチームを倒すことや、どの選手をいかに起用して勝利を収めるかが恋しくなった」

グアルディオラ氏「取り巻く環境すべてではなく、試合そのものが恋しかった」

選手として、そして監督としてバルセロナの“黄金期”を築いたペップの現役時代を『ワールドサッカーキング』(No.224号)の記事から振り返ります。

■ドリームチームのゲームメーカー

バルセロナから北西に約50キロ行ったマンレッサという町から、さらに少し離れた小さな村、サンペドール。ここで生まれ育ったジョゼップ・グアルディオラは、自身のルーツについてこう話している。「村で生まれ育つというのは、石だらけでデコボコの道でボールを蹴って遊ぶということだ。車や人通りの多い街のストリートでは不可能なことが、村ではできる。街の中で育っていたら、私のように一日中、外でボールを蹴って過ごすことなんかできなかっただろう」

彼がバルサに入団したのは、13歳の時のことだ。最初に目を引くのはその小さな体。どの年代のカテゴリーでも、彼はチームで最も小柄な選手だった。あくまでテクニックを重視するバルサにいながら、コーチからジムに通って筋力を強化するよう命じられたこともある。しかし、その才能に疑いの余地はなかった。ワンタッチ、ツータッチで出されるパスの美しさ、そして状況判断の速さには当時から定評があった。

ヨハン・クライフ監督が“ペップ”(グアルディオラの愛称)に目を付けたのには理由がある。彼とコーチのカルロス・レシャック、そして下部組織の監督だったキケ・コスタスは、現役時代に一緒にプレーした仲間だった。彼らは常に連絡を取り合い、ペップをしばしばトップチームの練習に加えた。ロナウド・クーマンが故障し、ギジェルモ・アモールが出場停止になったカディス戦、プロデビューのチャンスは来たるべくしてやって来たのである。

1990年12月16日のカディス戦でペップはプロデビューを果たす。ラ・マシアに入寮してから6年目の出来事だった。当時のコメントを紹介しておこう。「試合前日の戦術ミーティングに初めて参加した時、手のひらが汗でびっしょりになった。とてつもなく緊張していたんだ。試合でも同じだった。普段通りのプレーができたのは後半に入ってから。試合が終わってレシャックから『明日からはトップチームだ』と言われた時、ようやく喜びを感じることができた」

この90ー91シーズンはクライフが監督に就任して初のリーグ優勝を飾ったシーズンであり、後に語り継がれる“ドリームチーム”誕生の年でもあった。ただ、ペップがこのチームで本格的に主力を務め始めるのは翌シーズンのこと。この91ー92シーズンこそ、彼にとって生涯最高の1年となった。ウェンブリーでのチャンピオンズカップ制覇、最終節に逆転で決めた2年連続のリーグ優勝、そして最後にはバルセロナ・オリンピックでの優勝も経験した。

ペップはボールとともに生まれ、ボールとともに育った。ラ・マシアでそのテクニックに磨きを掛け、バルサの背番号4を自分のものとした。オランダ人監督ルイ・ファン・ハールがやって来てからは、キャプテンマークも巻くようになった。

ペップがバルサの絶対的なレギュラーとして活躍したのは10シーズン。クライフのチームとファン・ハールのチーム、全く特徴の異なる2つのチームで司令塔を務めたことは特筆に値する。ドリームチームでのペップは、バルサの哲学をそのまま実践した。正確なパスを左右に散らして攻撃のリズムを作り、状況に応じて変化を加える。連動性の高いパスワークの中心には、いつも背番号4の姿があった。

一方、ファン・ハールのチームは組織よりも個という側面が強調されており、勝っている時でさえ、辛辣なバルセロニスタは「個人技に長けた選手をかき集めただけ」と陰口をたたいていた。そんな個性派集団がチームとして機能したのは、ペップのゲームメークがあったからに他ならない。リヴァウドやルイス・フィーゴといったクラックも、ペップのパスを受けた時点で、個の力を最大限に発揮する状況が出来上がっていることに驚いた。それはペップにしかできない特別な能力だった。

当時、ペップに憧れながら下部組織で技術を磨いていたチャビは、当時のグアルディオラについて、敬意を込めてこう語っている。「決して特別な才能に恵まれた選手ではなかった。特にスピードがあるわけじゃないし、フィジカルが強いわけでもない。ドリブルにしても、すごいってレベルじゃない。それでも、彼は間違いなく特別な存在だった。ピッチのどこで何が起こっているか、完璧に把握していた。まるで20メートル上空からピッチを眺めているんじゃないかってほどにね」

チャビは明らかにペップを見て育った司令塔である。ペップが現役だった頃、彼と同じプレースタイルを持つ選手は存在しなかった。だが、2013年を生きる我々は、30歳を過ぎて成熟したチャビが、まるで子が親に似ていくかのようにペップに生き写しのプレーをしている姿を見ることができる。

■違うサッカー文化に触れるための旅

ペップはバルサのゲームメーカーである以前に、カタルーニャ人であり、バルセロニスタだった。そして、バルサのユニフォームを着ることに誰よりも強い愛着を感じていた。ただ、彼はピッチ上でそうだったように、もう一段高いところから、俯瞰で物事を見る感覚を持っていた。「僕はカンプ・ノウでプレーすることを子供の頃から夢見てきた。でも、バルサというクラブしか知らないで現役生活を終えていいのかと思うこともある。個人としてはバルサでユニフォームを脱ぎたいけど、プロサッカー選手としては違うサッカー文化にも触れてみたい。時々、そんなことを思うんだ」。ペップがこう話したのは95年のこと。まだ24歳の若者とは思えない成熟ぶりだ。

その6年後の01年春、彼はカンテラ時代から17年間を過ごしたバルサを離れる決断を下す。それは感情に流されることのない、ある意味ドライな、プロフェッショナルとしての決断だった。退団会見で彼は次のような言葉を述べている。「僕は人生を楽しんでいる。今朝、目覚めると強烈な太陽の光が目に入って来た。

今日も良い日だとほほ笑んだけど、すぐ次に『次にどこに行ったとしても、こんな太陽にはお目に掛かれないだろう』と思う。まだバルセロナにいるにもかかわらず、もう郷愁を感じている。ただ、そのことを楽しんでもいる。他の文化、知らない街、知らないクラブ、違うスタイルのフットボール……興味は尽きない。僕は大好きなものを失うけど、きっと他のものを見付けられると思う」

こうして、ペップはセリエAへと旅立った。それはサッカーの見聞を高めるため、プレースタイルとしては対極に位置する“カルチョ”を体験するためである。もっとも、94年のワールドカップ・アメリカ大会でともに主役を演じたロベルト・バッジョと共演したいという純粋な気持ちもあった。しかし、その向上心と好奇心はすぐに打ち砕かれた。イタリアではすぐにドーピング疑惑に巻き込まれ、無実を証明するために全力を注ぐ羽目になったのである。後に彼の潔白は証明されるのだが、そのために費やした年月は長く、彼の“現役生活第2章”は周囲が期待していたほど充実したものにはならなかった。一方、生え抜きのキャプテンを失ったバルサも迷走を深めることになる。

ペップとバルサの別れは、両者にとってマイナスだったと言わざるを得ない。しかし、指導者としてバルサに戻り、バルサBを2部に昇格させてトップチームを任されることが決まった時、彼はこう語っている。「タイトルは約束できない。しかし、最後まで戦い抜いた後に、自分たちのやったことを誇りに思うことは間違いない」

振り返れば、彼の現役生活も「自分のやったことを誇りに思う」ようなものだったに違いない。

『ワールドサッカーキング』の記事は上記の言葉で締められましたが、ペップの指揮官としてのこれまでの歩みはもちろん、さらにはこれからの歩みも『誇らしいキャリア』になることは間違いないでしょう。

OneNews編集長

編集者/KKベストセラーズで『Street JACK』などファッション誌の編集者として活動し、その後、株式会社フロムワンで雑誌『ワールドサッカーキング』、Webメディア『サッカーキング』 編集長を務めた。現在は株式会社KADOKAWAに所属。『ウォーカープラス』編集長を卒業後、動画の領域でウォーカー、レタスクラブ、ザテレビジョン、ダ・ヴィンチを担当。2022年3月に無料のプレスリリース配信サービス「PressWalker」をスタートし、同年9月、「OneNews」創刊編集長に就任。

浅野祐介の最近の記事