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シリアのアサド大統領が提唱するイスラーム教とのあるべき向き合い方とはどのようなものか?

青山弘之東京外国語大学 教授
SANA、2020年12月7日

2020年もイスラーム教に関わる政治的な出来事が幾つも発生し、世間の関心を集めた。

トルコでは、レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領が7月10日、イスタンブールにあるUNESCO世界文化遺産のアヤソフィアをモスクに変更すると発表、24日の集団礼拝でコーランを読誦する様子がメディアを通じて配信された。

また、フランスでは10月16日、預言者の風刺画を授業の教材にした男性教員が殺害され、エマニュエル・マクロン大統領が21日に執り行われた国葬で「我々は風刺画を止めない」などと述べ、イスラームフォビアを露わにした。

数年前までその脅威が懸念されていたイスラーム国やアル=カーイダ系組織に代わって、これらのテロ組織に直接、間接にヒト、モノ、カネを提供してきた国での出来事が注目を浴びるようになったことは、イスラーム教とその信者との関係、あるいは彼らによって構成される社会や国家との関係、さらには彼らを包摂する社会や国家との関係を見つめ直す機会を与えている。

こうしたなか、イスラーム国や、シャームの民のヌスラ戦線(現在のシャーム解放機構)、トルキスタン・イスラーム党といったアル=カーイダ系組織の主要な活動地であった(ないしは活動地である)シリアでは、イスラーム教にどのように向きあうことが求められているのだろうか?

答えは、政治的な立場や社会的な環境の違いによってさまざまだろう。だが、本稿では、シリアのバッシャール・アサド大統領が12月7日に行った演説に着目する。

演説は、宗教関係省(ワクフ省)が首都ダマスカスのウスマーン・モスクで主催した宗教関係者(ウラマー)の定例会合で行われた。アサド大統領が宗教関係省の会合に出席すること、そしてウラマーを前に演説を行うことはきわめて異例である。

以下では、1時間強におよぶ演説のなかで、アサド大統領が主唱したイスラーム教に対するあるべき姿勢がいかなるものかを紹介したい(なお、演説の原文についてはシリア国営通信(SANA)を参照されたい)。

問題提起

私は、ウスマーン・モスクで開催されるこうした定期的会合を利用して、おそらく厄介で、克服できていない幾つかの重要な問題について話し、問題提起したいと思う。このモスク、あるいはそれ以外のいかなる場所でも、多くの課題、とりわけ生活にかかる課題に我々が直面するこの時期に、イデオロギー的・思想的な性格を有する問題を話すことが時期的に適切なのか、と問う者がいるかもしれない。

私は、適切だと言いたい。こうしたことは、一つの簡単な理由で、時期的に適切で、対話として必要だと強く言いたい。なぜなら、治安や生活にかかる問題、そしてそれ以外の課題は、その理由がなくなれば消滅する問題であるのに対して、思想にかかる問題は、常態的なもので、いつであれ対処が難しいからだ。また、思想にかかる問題において、我々が得るであろうものは…、解消が難しいものかもしれない。また、我々が失うであろうものは、取り戻すのが難しいかもしれない。

破壊された宗教

我々の地域における思想について話すとき…、この思想とは宗教を指している。なぜなら、それは生活のすべての側面、そして知性、感情、行動、過去、現在に入り込んでおり、そして未来にもそうした状況は続くだろうからだ。我々が社会を破壊したいのなら、この思想を破壊するだけで十分だ。そして、こうしたことが、約1世紀、あるいは1世紀強前から起こっている。

100年を経て、この社会の敵たちは最終的に、こうすることで大成功を収めた。宗教を社会の発展のためではなく、破壊のためのツールにすることに成功した…。

外国からの荒波に抗う社会

我々の状況、そして我々が暮らす世界とそれを囲む「大海」と比べてみたい。あらゆる方向から高波が押し寄せている。それは、テロを通じて治安面に打ちつけ、制裁や飢餓を通じて経済面に打ちつけ、社会を奈落に押しやろうとする動きを通じて思想面に打ちつけている。この「大海」のなかで、我々は自分たちの船が上下に揺れているのを目の当たりにしている。揺れが静かな船もあれば、沈まんばかりに揺れている船もある。これらの船の波に立ち向かう能力を決めているのは、これらの船の安定と安全に関わる要素だ。

これが我々の社会としてのありようだ。我々が、これらの要素を持たないのなら、最初の数週間で沈んでいただろう。一方、これらの要素をきちんと維持できていれば、今日これほどまでの代償を支払うこともなかっただろう。

こうした波は続いている。止まることなく、我々の社会、社会構造、社会の信念、社会の象徴に打ちつけている。これらの波は恣意的な波ではない。なぜなら、荒れ狂う波は、自然の要因ではなく、諸外国の国益(追求)がもたらしているからだ。こうした国益と我々の社会の構造が、純粋に社会的な意味においても、教義的な意味においても、相容れないのだ。なぜなら、我々には、社会と宗教を分かつことができないからだ。

イスラーム世界の後退は誰の責任か?

結局のところ、過去1世紀にわたり、我々は退行している。我々は負け、敵は前進している…。誰の責任なのか? 我々なのか、彼らなのか…? 我々はこの大きな世界(イスラーム席)の一部であり、自分たちをイスラーム世界で起きていることと分かつことなどできない…。

私は現状を泥棒に例えたい…。何年も家々で盗みを働き、住民がこのことを知っていて…、家主は警察署に苦情を言いに行く。捜査によって、家主が何の対策も講じず、ドアと窓を開けたままだったことが判明する…。誰の責任なのか? まずは家主、次に警察…、そして最後に泥棒ということになる。なぜなら、泥棒は自分の仕事、つまりは盗みを働いていただけだからだ。

我々は同じように考えねばならない。こうした状況をイスラーム世界における我々の状態に一般化した場合、我々はどのような立場にあるのか。警察署がないと言うことができる。なぜなら、国際法、そしてそれを律する機関がないからだ。つまり、我々と彼らが残る。我々が家主なのだが、我々はドアを閉めていたのか? どのように盗みを阻止しようとしてきたのか…? 我々はどのように家を守ってきたのか?

怒るだけの我々

では、我々の責任から話を始めよう。以前と同じような攻撃が、我々の教義や象徴に対して行われるとき、最初に行うのは、非難で応じるというのは当然のことだ。すなわち確固たる非難、そして断固たる姿勢だ。

この第1の姿勢は、シャームのくにぐにのウラマーや宗教関係省…、宗教機関によって行われるものだ。そして第2の姿勢は、宗教関係大臣がシリアの国家としての立場を表明することだ。

だが、結局のところ、それで何かが変わるだろうか? 変わることはない…。なぜか? 我々が怒っているだけだからだ…。抵抗していないからだ。怒りと抵抗の間には大きな違いがある…。我々が行っていることのすべては、我々の利益ではなく、感情に関わることに過ぎない。我々が自分たちの利益について話すとき、その利益は自分たちの教義と分かち得るものではない。なぜなら、教義は利益のために下されたからだ。攻撃、非難、そして怒りのなかで、宗教は、機会主義的な政治家たちが投げつけてくるボールへと変化する。

宗教を利用するマクロン大統領とエルドアン大統領

第1の人物(エマニュエル・マクロン大統領のこと)は、フランスでの来年の総選挙で、イスラームフォビアに苛まれた人々を引きつけたいと考えている。第2の人物、つまり(レジェップ・タイイップ・)エルドアンは、2023年にトルコで選挙があるが、国民を納得させるようなウソがなくなってしまっており、人気を失い始めている。だから、自身をイスラームの守護者に位置づけることを決心したのだ。

怒りを律し、行動計画へ

怒りというのは何かを吐き出すことだ…。彼らが我々に対し戦いを仕掛け、我々がこれに対抗するのだが、対抗した側が常に負けるのだ…。この怒りが思想へと変化していなかったからだ。行動計画へと変化しなかったからだ。知性が怒りを律しないとき、それは感情に変わる。感情は美しく、人間的だが、この感情が知性を律しないのなら、有害なのだ…。怒りが知性によって律されずに、単に何かを吐き出すだけであれば、敵は、この社会が怒る以外に何もできないと学ぶ。

我々は戦争状態にある…。だが、我々が自分たちの怒りを脇に置いて抵抗し、いかに抵抗するかについて話したりするのであれば、我々は、戦争で成功を収めるための軍事的な…正しい姿勢をとらねばならない。同じように、宗教の分野で働くあなた方は、正しい姿勢をとらねばならない…。それはきわめて簡単なことで、正しい概念を使用し、正しい行動をとるということだ。この二つは、宗教教育に基づいて行われるものだ…。

怒りは人間的な状態であるがゆえに、それを内面に留め、生産、議論、対話、志向、計画へと変えるべきだ…。我々は次なる攻撃のために何を準備するべきか…? 我々は行動計画を準備すべきだ…。

預言者ムハンマドから倣うべきこと

我々が宗教について提示するイメージとは何であり、我々が倣うべき者は誰なのか? この宗教を地上で代表しているのは使徒だ。コーランはアッラーの言葉であり、アッラーは人類を超越している。これに対して、我々にとって具体的なものが使徒なのだ。

彼は我々に怒りのモデルを提示しているのだろうか…? 尊厳のための戦争が繰り返され、幾世代もの血が流されていたにもかかわらず、彼は、彼を怒らせようとする者に…最低限の関心さえ払わなかった…。ここで問いたい。イスラーム教徒は、教義において使徒に従う一方で、その行動に反することが許されるのか…?

宗教は怒りではなく実践によって勝利する

もっと重要なこと、それは公理に関わるものだ…。おそらく最低限の信仰心があるイスラーム教徒であれば、公理は頭のなかにあるはずだ。イスラーム教徒がこれら公理を怒りに任せて実行する際に用いられる概念として、宗教の救済というものがある。しかし、宗教は人間を救うためにもたらされたものであって、神の宗教が、人類を救済するのだ。人類に神のものを救うことなどできない。これが自明の理だ。

我々は宗教を守ってはいる。だが、この概念(自明の理)を受け入れたとしてみよう…。そうすれば、こういうことができる。宗教は怒りによっては勝利するのではなく、実践によって勝利する。我々が宗教を社会において正しく実践するとき…、この社会は健全なものとなるだろう。そして、そうすることで、宗教は勝利するのだ。

健全な社会の勝利が宗教の勝利をもたらす

宗教とは、もし我々が仮に勝利するものだと仮定するのであれば、社会が勝利することなくしては勝利しないのだ。社会は、その行いが総じて健全なものとなることなくしては勝利しないのだ。

我々は時に、善意を感じないままに公理を情熱で打ち砕くことがある。理由は、宗教に関わる概念の多くが不明確だからだ。メディアなどで…「我々は使徒が侮辱されることを許さない」というようなことが主張されている。だが、誰が侮辱されているのか? 弱い人間が侮辱されているのか?

預言者ムハンマドは従うべき神聖な象徴

怒りについて話を戻すと、コーランとハディースには明確は教えがある…。使徒曰く、「怒ってはいけない…。強い者とは腕力がある者ではない。強い者とは怒りのなかでも自らを律することができる者のことだ」。

結局、我々は公理の一部に反して進んでいるのであり、こうしたことに取り組まねばならないのだ…。彼(使徒)が侮辱されたとしよう。使徒は普通の人間として扱われたが、他方で神聖なる象徴でもある。普通の象徴と神聖な象徴を区別しなければならない。普通の象徴は何であれ、我々にとっては、人間と同じように普通の象徴に過ぎない。だが、神聖な象徴と我々の間には、遵守すべきものがある。使徒は単に我々が愛せばよいのではなく、我々が倣うべき神聖な象徴である。コーランは単に暗記し、理解すればよいのではなく、その文言を実践すべき神聖な象徴である。アッラーは単に我々が傅けばよいのではなく、従うべき神聖な象徴である。

こうしたことを踏まえて、我々が自問するとき、我々はこうした公理を通して、これらの象徴とどう関わってきたと言えるのだろうか…? もし預言者ムハンマドがこの世界に戻ってきたとき…、彼の言動、そしてコーランの教えを踏まえてどういったことが彼の心を痛めることになるだろうか? 間違いなく多くのことに心を痛めるだろう。

無垢の人々の殺戮を阻止する実践はなかった

無垢の人々が殺されることは大罪の一つではないか? ハディースのなかで…それは、アッラーに対するシルク(多神論)とされた。無垢の人々が殺害されているというとき、我々は1990年代のイラク包囲から始め、2003年の攻撃、そしてイエメン、リビア、シリアに至る状況を見てみよう。これは大罪ではないのか? イスラーム教徒は、使徒に向けられているのではない愚かな言葉(フランスでの預言者風刺画をめぐる騒動のこと)に怒る一方で…、もっとも大きな大罪に怒らないでいられるのか? でもどこで行われているのか? どこに怒りはあるのか? 無垢の人々を守り、大罪を阻止しようとする行為はどこにあるのか?

我々がコーランの歪曲とアッラーに対するシルクを区別できるとしたら、あなた方は同胞団主義のウラマーなのか…? コーランを歪曲する者は、多神論者に違いない。コーランの歪曲は、何年も前から始まっている。現在、政治的な理由で、多くの聖句が歪められ、隠蔽されるようになっており、コーランの内容そのものも改ざんにされようとしていることをご存知だろう。しかし、我々は怒りを耳にしない。イスラーム世界の宗教学者からも耳にすることはない。

歪曲された宗教理解と具体性を欠いた恣意的行動

かといって、我々に宗教を分断することはできるだろうか? できるはずもない。では、多重基準で対処することはできるだろうか?

預言者ムハンマドを侮辱するこうした事柄に対して、我々はイスラーム世界のレベルで対抗しなくていいのか? 多くのことが起きている。それらは、これまで述べた象徴に直接抵触していると思う…。

結局のところ、誤った概念で宗教を歪めて理解し、その場限りの感情に任せて具体性を欠いた恣意的な行動をしているのだ。それによって、我々は相手の敵意、そして我々への侮辱を助長しているのだ…。

我々は問題を特定した。怒りは何も実現しないと言った。抵抗しなければならない。どのように抵抗するのか? どこから抵抗を始めるのか?

脅威は外からではなく内からもたらされる

抵抗は真の敵を知ることからまず始められる。敵はどこに存在するのか? いかなる教義であれ、第1の敵は外からやって来ない、それが真理だ。

歴史を通じて、外国の攻撃で衰退した教義などない。まったく逆で、信徒は常にそれを守り、持ちこたえてきた…。脅威は常に内側から生じているのだ…。そしてこの脅威は、後進性、過激性、狂信性、信徒が健全に思考できないことから始まる…。

私は、テロが脅威だなどと言ったことはない。なぜなら、テロは原因ではなく、結果に過ぎないからだ。

西側社会は自らが行うテロの責任をイスラーム教徒に押しつけている

テロは、イスラームの産物ではない。このことは自明だ。それは、社会と関係がある亀裂の産物ではある。だが、この亀裂を利用するのは、西側社会だ。西側社会がこの地域(中東)でテロを行ってきた。

より重要なことは、欧州でのテロの一部は、我々のもとで起きているテロと関係がないということだ。彼ら(西側諸国)は、オイル・ダラーと引き替えにワッハーブ主義思想を持ち込んだに過ぎない。カネと引き替えに、今彼らは代償を払っている。にもかかわらず、彼らはイスラーム教徒とその過激性、さらには我々の象徴に責任を押しつけている。

ネオ・リベラリズムがイスラーム社会を攻撃している

抵抗は、脅威を知ることとともに、弱点を知ることから始められることになる。

私はあなた方がこれらの弱点に対処していると考える。だが、多くの人にそれは見えていない。真の敵の本質を特定できないままである…。何かが起きたとき、我々はことの次第を特定し…、関与している人を攻撃する…。だが、そうした人は常に変化する。つまり、彼らは、彼ら自身を代表しているのではなく、ある潮流を代表しているのだ。この潮流というのは、イスラーム社会を攻撃する潮流のことだ…。

多くの人々にいまだ明白になっていないこの潮流とは、ネオ・リベラリズムという潮流だ。そのことを承知している人は少ない。もちろん、それは、政治的、社会的な潮流であるリベラリズムとは違い、何ら問題はない。リベラル派や保守派、それ自体に問題はない。ネオ・リベラリズムは、米国にとっては民主主義の普及に似ている。彼ら(米国)は、民主主義を、諸国民への覇権を実現するために利用している。戦争を仕掛けるために人権を利用している。

人間性を破壊するネオ・リベラリズム

ネオ・リベラリズムは…癌のように悪性だ。なぜ、癌や腫瘍に例えるのか? それは、人間がそれを感知しないままに、ゆっくりと成長するからだ。その手口は、道徳的衰退を広め、人間を、信条、価値観、帰属意識、教義から引き離して、自らの目的に達しようとするというものだ。

この言葉(ネオ・リベラリズム)から何を理解しただろう? このリベラリズムに必要なのは、人間の人間性を打ちのめすことであり、宗教とは対照的なのだ。なぜなら、宗教は人間性を高めるために下されたのに対して、このリベラリズムは人間と人間性を切り離そうとしているからだ。人間が人間性から切り離されたとき…、何がその人間を導くだろうか? それは二つ、カネと本能だ…。

切り離される個人と社会

この教義のやり口とは…、集団をよりどころとすることから、個人をよりどころとすることに変化させるというものだ…。ここで言う個人をよりどころとするというのは、個人が望ましいと思うものすべてが、社会を度外視して正しいとする見方だ。つまり、家族、そしてより大きな社会ではなく、個人の望みが基本なのだ。

こうした価値観…、つまり家族、社会、そして祖国から切り離すことが第2のやり口だ。この個人はいかなるものにも帰属しない…。このリベラリズムという教義に帰属するだけなのだ…。(既存の)教義を拒否するが、実際のところ、そうすることが教義なのだ。人間から人間性を奪い、なくすと言うとき、何を意味するのか? 動物になるということだ。人間と動物の違いとは何か…? それはたった一つだ。教義だ。そして教義が打ち砕かれることは何も新しいことではない…。ソ連が崩壊したとき、米国が最初に提起した概念は何だったか? イデオロギーの時代は終わった、つまりは、イデオロギーなどない、というものだった。これがネオ・リベラリズムという段階の始まり、あるいは重要な段階だった。

許されない正しい宗教

結局のところ、それ(ネオ・リベラリズム)は政治目的を持ったイデオロギーだ。だが、社会的ツールなくしてそれが目的に達することはない…。その目的が政治的である場合、彼らと宗教の間にある問題とは何か…? 外見上、問題はない。彼らにとって、我々が断食しようが、礼拝しようが、喜捨を行おうが、何をしようが問題はない。だが、我々は原則と価値観を放棄しなければならないというのだ。つまり、中身のない空っぽな宗教、過激な宗教なら許されるが、正しい宗教はダメなのだ…。

彼らにとって問題なのは、我々が正しい宗教を確立するときだ。なぜなら、正しい宗教は、政治的目的を阻止し…、我々を屠殺場に導かれる群へと貶めることを阻止するからだ。

こうした考えに基づくと、なぜ我々が宗教機関への激しい攻撃を目の当たりにしているのかが理解できる…。シリアへの戦争だけでない…。問題はもっと大きい…。

戦闘を行う宗教組織こそが第1の敵

現在、イスラーム世界にさまざまな(宗教)組織があるが、それは戦闘を行う組織だ…。正しい宗教を確立するための戦闘だとでも言うのか? 正しい宗教を確立するためだと言って殉教を強いる組織とはいったい何なのか…? こうした組織が当然、第1の敵なのだ。彼らはあなた方を人として、そして組織として攻撃してきた。なぜなら、我々が探し求めている正しい宗教とは、リベラリズム普及のために必要な社会的構造とは真逆の社会構造を築くものだからだ。だから、宗教機関への攻撃の大部分は外からなされる。

シリアに対する戦争、あなた方はまさにこの戦争の一部をなしているのだ。だが、我々は、シリアに対する戦争と宗教機関に対する戦争をより深く見なければならない。それは別々の戦争ではなく、過去10年間の戦争でもない…。それは、あなた方、宗教機関と、近代リベラリズムの間の問題なのだ。

世俗主義とは信仰の自由であり、リベラリズムではない

現在行われている攻撃、我々が耳にする異常な問題提起は、リベラリズムの問題提起なのだが、実際のところ、それは世俗主義とは無関係だ…。世俗主義とは信仰の自由であって、それ(リベラリズム)とはまったく関係がない。我々は自らが立ち向かう真の敵が誰なのかを区別し、知らねばならない。敵を特定したうえで、我々は何をするか…? 我々がこのリベラリズムと宗教の関係について話しているのであれば、宗教から始めなければならない。

我々が宗教というとき、それは正しい宗教を意味している。つまり、法源(フィクフ)以外の何ものからも始まることのない宗教だ。法源というと、法学者、ウラマーなどと結びつけてしまいがちだ…。だが、私は個々のイスラーム教徒に必要な法源について話している。そしてここに別の問題が潜んでいる…。

真のイスラーム教徒とは不寛容、過激主義に立ち向かう者

多くのイスラーム教徒が理由も知らずに儀式を行っている…。だが、いかなる儀式であれ、我々はその目的を知らねばならない…。どこに至るのかを知らねばならない…。これは、我々が取り組まねばならない大きな問題なのだ…。宗教において、それ(目的にどの程度達しているか)はどのようにして計るのか? 礼拝者の数では計ることはできない。戦争の初めにモスクから何人の人が街頭に出てきたかを知ったとしても何も意味しない。なぜなら、彼らは「アッラーは偉大なり」と連呼する無神論者だったからだ…。

だが、我々には、社会の道徳、社会の行い、イスラーム教徒全般によって用いられている正しい概念を計ることはできる。宗教に傾倒することで、不寛容に立ち向かい、宗教への傾倒と不寛容が結びついていないのを目の当たりするとき、それを計ることができる…。

それはシリア社会においてまさに言える点だ。なぜなら、戦争当初、不寛容や宗派主義について語っていた者のほとんどが、不信心者で、その一部の宗教的思潮は、おおむね同胞団主義的傾向があったからだ…。

真のイスラーム教徒…、真の信心者について言うと…、それは不寛容、過激主義に立ち向かう者のことだ…。目的がなければ、我々は正しい実践には至ることはないのだ。

教義、社会と不可分のアラビア語の衰退

アラビア語はコーランの言葉である以前から、思考や文化の担い手である…。この言語が消滅、後退、あるいは弱体化するのを、我々皆が社会において明確に、そして危機感をもって目の当たりにしている。我々は人間とその文化とを隔てる障害があることを知らねばならない。これは自明のことだ…。それはコーランについても言えることだ…。

彼らがコーランとの間に抱えている問題とは何なのか? 言語と教義は一つに結びついており、分かつことはできない。だが、両者の結びつきを打ち壊すことならできる。どのようにして? 社会で話されている言語を打ち壊せば、我々はこのコーランを西側の言語で…受け入れることになるだろう。アラビア語は古代の諸言語と同じように単なる礼拝の言葉となり、そこにコーランの文化と社会の文化の乖離が生じるのだ。仕組みは簡単だ。だから、我々は言語と教義、言語と社会、社会と教義を分かつことなどできないのだ。

個人ではなく家族が社会の最小単位

家族は、我々オリエント社会における最小単位だ。ネオ・リベラリズムが普及させようとしているような個人が最小単位ではない…。この単位(家族)こそが社会の安寧の基礎なのだ…。だから、この社会構造を破壊しようとするもっとも重要なステップは、家族を破壊し、個人に還元することにあるのだ。

社会が依拠している価値観、習慣、伝統、概念を体現した多くの公理がある…。だが、我々の社会はこれらの公理を失ってしまっている…。こうした公理が破壊されると、社会のバランスをつかさどる善悪…といった二項対立もなくなってしまう…。

社会がよりどころとする公理の破壊は侵略者を跋扈させる

こうした公理が破壊されるとき、我々はどこに行ってしまうのか? 侵略者が被侵略者と同等になってしまうだろう。この国が敵に蹂躙されている土地となり、我々が真の所有者となるのではなく、この土地が紛争の場となってしまうだろう。なぜなら、双方(侵略者と被侵略者)が同じ立場となり、自らに理がある存在となってしまうからだ。こうした状況下でどのように問題は解決するのか…? 侵略者あるいはこちらが最初に譲歩し…、こちらが土地の一部を与え、譲歩し…、彼らが望む政治的解決に至ることになる。

我々はまた、公理がネオ・リベラリズムの政治的計略と切り離せないと見ている。政治的崩壊に至ってしまったら…、社会の崩壊は避けられない…。つまり、健全な社会がなければ、あなた方が望むような真の意味での宗教はない。家族、公理、道徳、法学…がなければ、積み上げた石は崩れ落ちてしまう…。

結局のところ、我々はこの戦いに勝つ以外の選択肢はない。そして、我々が勝利したいのであれば、真の敵の本質が何かを知らねばならない。

強い宗教は対話を行う

これまで述べたことに関わっていると思われるもの、あるいはそうでないと思われる幾つかの点に着目したい…。

初めに、解釈(タフスィール)の問題に着目したい。なぜなら、それは宗教行為の基礎をなしていると考えるからだ…。私は専門家ではないし、タフスィールを専門にしている訳ではないが…、どのタフスィールも1人のウラマーがそれに関わっている。だが、こうしたタフスィールは、それが宗教関係大臣によって行われたということはさておき…、組織の活動として行われたものだ。そして、この点がこうしたタフスィールの強みなのだ。しかも、それはまた、キリスト教諸派との対話が行われるまでに拡大した。

自らの内部、その信者、そしてそれ以外の人々との対話を行う宗教とは、強い宗教だ。他人の意見や個性を擁護するのを恐れ、彼らの願望や利益を考慮するのを恐れる人間(の宗教)は、弱い宗教だ。こうしたタフスィールを通じて、宗教機関は、この宗教が自らにとって、そして信者、支持者、既存の組織にとって信頼できる宗教にしてきた。そして、あなた方がもちろんその柱をなしているのだ…。

正しいタフスィールは宗教の正しい理解と過激主義との戦いを可能とする

もう一つ、こうしたタフスィールはまさに今日、コーランがすべての時代に対応するものだということの意味を体現している…。コーランとは書棚や机上に置く本ではなく、我々の知性のなかに確立するものだ。過激な信者と真の信者のいずれも同じ書を持ち、同じ句を読んでいるが、知性のなかに体現しているものがまったく異なっている。後者が体現しているのは、コーランがすべての時代に対応するという問題意識だ。

同時に、我々は、正しいタフスィールなしに宗教の正しい実践について語ることはできない…。それは正しい宗教を理解するための道の始まりであり、宗教の正しい実践を通じて過激主義と戦うためでもある。理解、実践、そして過激主義との戦いだ。

イジュディハード:時代に沿ったタフスィール

どんな人間でも、タフスィールに反することはある…。だが、それに対する攻撃は受け入れられない…。

イジュディハードに対する攻撃が過去数世紀にわたり、非論理的なかたちで起きていた。理由は簡単だ。私が今日、政治について話すとき、私には今のデータを用いて60~70年前の政治的決定を下すことなどできない。なぜなら、データそのものが違うからだ。私は当時生まれてもいなかった。なのに、どうして我々は700年も前に出されたタフスィールに依拠できるのか。タフスィールは時代に沿ったものでなければならない…。

コーランは、いつの時代でも、我々が我々にとってふさわしいかたちで学ぶために存在する。どのように取り入れるかは我々が決める。コーランは深いのだ…。だが、我々が取り入れるのは、我々が人間として理解し、深めることができるものだ。これがタフスィールの役割なのだ。

国家と社会の分離を意味する政教分離は認められない

私が提起したいもう一つの点とは、政教分離だ…。実際のところ、私のところに来て、「我々はこのことを望む」と言ってきたものはいない…。だが、この点に関して公式の見解はあるべきだ。一連の質問のなかで、どうしたら宗教と政治を分離することができるのかと問われた。その際、私は、可能だが、それは我々が宗教を社会から分離させるときだけだ、と答えた。なぜなら、社会が(宗教から)分離されれば、国家も分離されるからだ…。なぜなら、国家はこの社会を映し出す鏡だからだ…。我々の社会は教義に基づいており、これから先も数世紀にわたってそうあり続けるだろう…。

つまり、ここで問題提起されている政教分離とは、国家と社会の分離を意味している。これが安定と不安定のどちらを作り出すか? 答えは至極明白だ。しかし、我々は同じ枠組みのなかで、こうした問題提起が、外国から我々を操ることができる邪悪な問題提起でもあることにも目を向けねばならない…。

政教分離はテロとの戦い、世俗主義は無関係、世俗主義は信仰の自由を意味する

無知なままで、この問題を取り上げる者がいる…。彼らは素朴に、政教分離とは、テロとの戦いの第1歩だと考えている。しかし、両者はまったくの無関係だ…。

もう一度、世俗主義の問題に立ち返ろう…。そこには混同がある。一部の人は、世俗主義の要件、ないしは世俗主義の本質が政教分離にあると考えている。これも間違いだ。世俗主義と政教分離は無関係だ。なぜなら、世俗主義とは信仰の自由、宗教の尊重であり、これこそが我々の宗教の核をなしているからだ。これこそが、寛大なる使徒の行いの核をなしている。他者を尊重すること、信仰の自由。だからこそ、世俗主義とはリベラリズム、政教分離とは無関係の場所にあるものなのだ。

宗教は道徳を完全なものとする

この問題を狭義の枠組みのなかで提起すると…、それは、学校での宗教の授業と道徳教育の分離、ないしは分離ではなく変更の可能性という問題となる。これには二つの意見があった。第1は、宗教がなくても道徳はなりたち得るというもので、これに対する意見が、宗教なしに道徳はあり得ないというものだ…。だが、あなた方にこう言いたい。いずれも宗教とは反対方向に向かって議論が行われている、と…。

第1の見解は、宗教のない道徳が存在すると言っていて、第2の見解は、そうではないと言っているが、使徒が預言者になったとき、彼はイスラーム以前から高い道徳で知られていた。彼の妻たち、彼の周りにいた人々、サハーバ(教友)、ほかの預言者も然りだ。

つまり、道徳は存在する。人間に与えられ、コーランに記されている人間の本性とは、義しい本性であり、それはどこであれ道徳と合致しているべきものだ。それよりも重要なのが、使徒の次の言葉だ。「私はただ、道徳を高めるために遣わされた」。彼は「作る」ではなく「高める」と言っている。つまり、使徒は、道徳が存在しており、それを高める必要があると言っているのだ。それゆえに、絶対的な議論をしようとする二つの意見が誤っていると述べたのだ。使徒は相対的な話をしているのであって、絶対的な話をしてはいない。

つまり、宗教の役割とは道徳を完全なものにすることだ…。

宗教は個人の道徳を集団の道徳に変える

個人の道徳が存在することは、社会が道徳的であることを意味しない。ここにおいて、宗教の役割とは、人々の道徳的な関係を律し、個人の道徳を集団の道徳に変えることにある…。もう一つの側面は、人間が道徳的であることは、逸脱しないことを意味しない…。宗教は逸脱を抑止するものでもある…。宗教とは道徳的な関係を作り出すものだ…。

私が明らかにしておきたいのは、この問題は学校において、原典の文言に依拠するという条件で必要だということだ…。人々が道徳的であるということは、意見の相違がないことを意味しない…。意見の相違は混乱を作り出し、欠点や短所が見えてくる…。どんな人間でも良い側面があるが、悪い側面もある…。

宗教は社会を律する法

規則がなければ欠点が明らかとなり…、国際法があるが実行者がいない世界のような状況になるだろう。国際関係とはカオスの関係だ。国際政治を動かすものは、国際法の存在にもかかわらず生じている道徳の不在だ…。

つまり私はここで、宗教を法律に例えている…。宗教とは、社会を律する法なのだ…。法律は制度的な意味において人々の関係を律するのに対して、宗教は、自己、そして教義面での意味で人々の関係を律するのだ。

危険な問題提起

危険な問題提起がなされている。これは、別の側面でネオ・リベラリズムの問題ともさまざまなかたちで結びついており、社会の核に触れる問題である。その問題とは、異なる三つのかたちで提起されている。

第1は、シリア、シャームのくにぐに、アラブ世界全体のアラブ性(ウルーバ)に触れる、ないしは疑義を呈する問題である。第2は、コーランにおけるウルーバに疑義を呈する問題で、それは「コーランはシリア語の書物だ」といった言説に見られる。第3は、使徒のウルーバに疑義を呈する問題で、それは「使徒はアラブ人ではなく、アラブ化した」といった言説に見られる。

ウルーバとイスラームに打撃を与えることが狙い

もちろん、これらの問題提起にはさまざまな目的がある…。第1は、ウルーバとイスラームに打撃を与えることだ。それは100以上にわたって行われ、同胞団主義者たちは、両者を切り離すことに貢献してきた。

我々は、数十年、数世紀にわたって、あるいはそれより若干短く、オスマン朝のトルコ化の始まりとともに、アイデンティティ危機の社会のなかに暮らしている…。「自分はよりイスラーム教徒なのか、あるいはよりアラブ人なのか」、「ダマスカス、アレッポ、ダイル・ザウル、ラタキアにより帰属しているのか、シリアにより帰属しているのか」…と自問し始める者が現れるようになった。

多様な帰属意識に矛盾はない

しかし、あなたは、家族、地区、部族、教義、都市に帰属しているし、祖国に帰属しているし、宗教に帰属しているが…、これらは矛盾しない。

にもかかわらず、矛盾が作り出されていった。こうした議論は矛盾を作り出すのが狙いで、現在ではとくにSNSで広く行われている…。彼らは、ウルーバとイスラーム、コーランとその言語、イスラーム教徒とキリスト教徒を区別し、この社会の帰属意識の本質、すなわち歴史的文脈のなかで確立したアラブへの帰属を破壊しようとしている。

アラブ人であることは言語とは無関係

第1の点はシリアに関するものだ。シリアは、イスラーム以前は、シリア語で話し、読み書きするキリスト教の国だった。アラブ・イスラームの侵略が南部から起こり、アラビア語がもたらされ、シリア語は廃された…。だが、こうした言説は、三つのものを混同している。人種としてのアラブ人、アラビア語、そして宗教であるイスラーム教だ。アラブ人はシャームのくにぐにに少なくとも紀元前10世紀から存在している…。だが、当時、彼らは、アラム語を話していた…。数世紀してナバタイ人がやって来て、シャームのくにぐにの南部で暮らすようになった。彼らはヘブライ語を話していたが、人種としてはアラブ人で、読み書きはアラム語、一部はガッサーン語で行われた。シャームのくにぐにの南部で暮らすアラブ人のキリスト教徒もいた。彼らもまたアラム語で読み書きし、ヘブライ語で話した。言語と人種は別問題なのだ…。

言語について言うと、ある言語が別の言語を廃するかたちでもたらされたことはなかった…。部族もまた、この地域にもとから暮らしていた諸部族を廃するかたちでやって来ることはなかった。

コーランにアラビア語以外の言葉が混ざっているのは当然

しかし、アラビア語に話を戻そう…。言語が宗教とともにもたらされ、その宗教が短期間に普及すれば、その言語も支配言語になるのは当然のことだ…。アラビア語の普及は占領、抑圧、排除によってもたらされたのではなく、自然に普及していった…。

コーランのなかにシリア語の言葉が散見されることは、預言者ムハンマドが古代シリア語の物語をコーランに借用したことを示していると言う理論家や記事がある…。だが、こうした言説は…ばかげている…。クライシュ族の言語、すなわちアラビア半島北部のアラビア語はそもそも…、それ以外の言語と関わり合っていたからだ…。コーランはこうした部族の言語で啓示されたがゆえに、シリア語、アッカド語、話し言葉…、エブラ語の言葉が入っているのだ…。

使徒はアラブ人

使徒のウルーバについても反論するまでもない。なぜなら、使徒はクライシュ族に属しており、それは、ムダルの子孫でアドナーン族のアラブだからだ…。我々は使徒のウルーバの話題とコーラン、そして聖句のウルーバの話題を分かつことはできない。

なぜなら、これらの問題は、先に述べた危険な問題提起のすべてが標的としている一つの点、すなわちウルーバの思想に行き着くからだ。なぜか? なぜなら、ウルーバこそが今日、これらの要素を包括する要素だからだ。コーランはアラブ的であり、使徒はアラブ人であり、宗教文化はアラブ的であり、社会はアラブ社会だ。ウルーバに打撃を与えて、これらの要素を分解したら、この包括的要素は分離主義的な要素で置き換わってしまう。

文明としてのウルーバ

ウルーバの役割とは、この文化の核において中心的な役割として存在する。つまり、アラブ人が担う中心的な役割を抜きにしてイスラーム教を想像することはできない…。我々はアラブ社会を抜きにしてイスラーム教を想像することなどできない。言語や文化が影響を及ぼすことは当然のことだからだ。だから、我々はウルーバについて話すとき、我々は人種からではなく、文明という観点から話しているのである。

つまり、我々は文明を多様性という観点で話している。このような意味で文明を捉えると、そこには多様な文化、多様な人種がおり、それが力や豊かさの証となっている。だが、我々がこのような文化的・人種的多様性を受け入れるということは、文明の多様性を受け入れているということではない。なぜなら、文明は一つであり、多くの文明がこの地域にあるという言説を受け入れることはないからである…。

それゆえに、ウルーバの問題に決着をつけねばならない。シリア、シャームのくにぐに、アラブ世界とは、アイデンティティという点でアラブの地域であり、そうあり続ける。だが、もし…人々のアイデンティティを変えることができると考えている者がいるのなら、それは間違っており、空想であり、迷走している。

宗教機関は軍の予備部隊

最後に…宗教機関の役割について述べることで締めくくりたい…。とくにこの戦争であなた方が、この機関の柱をなしていると言うとき…、それは誇張なしに、あなた方が軍の予備部隊であるということを意図している…。

宗教的諸概念を利用してシリアで行われている戦争は、軍事的な戦争よりも前に始まっていた。彼らは、宗派主義的な(分断)状況によって人々に武器を持たせて、戦わせたいと考えてきた。だが、それが失敗すると、テロに走ったのだ…。私が軍の予備部隊だと言うとき、それは正確に物事を言い得ている。なぜなら、軍が失敗を犯せば、テロが勝利し、宗教機関が失敗を犯せば、内乱(フィトナ)が勝利していたからである…。

この機関を、悪意ではなく、疑念をもって攻撃する者は、この機関がフィトナや分断を阻止する役割を担っていることを知らない。この機関が宗派主義、過激主義を阻止し、解放された地域をタクフィール主義思想のさまざまな名残から浄化する役割を担っていることを知らない…。この機関が厳しい状況下で、あらゆる方面からの圧力に対抗できていることの意味を知らない。

だが、私はそれを詳しく知っている。この宗教機関は、時代の課題に対応した時代のタフスィールを実行でき、イスラーム教のさまざまな宗派のすべてのよりどころとなり、キリスト教徒同胞との出逢う場所となる…。この宗教機関は、宗教と祖国への反逆が結びつくことを阻止することができる…。人間は一度に真の信者と祖国の裏切り者となることはできない。

東京外国語大学 教授

1968年東京生まれ。東京外国語大学教授。東京外国語大学卒。一橋大学大学院にて博士号取得。シリア地震被災者支援キャンペーン「サダーカ・イニシアチブ」(https://sites.google.com/view/sadaqainitiative70)代表。シリアのダマスカス・フランス・アラブ研究所共同研究員、JETROアジア経済研究所研究員を経て現職。専門は現代東アラブ地域の政治、思想、歴史。著書に『混迷するシリア』、『シリア情勢』、『膠着するシリア』、『ロシアとシリア』などがある。ウェブサイト「シリア・アラブの春顛末記」(http://syriaarabspring.info/)を運営。

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