シリア版「パレスチナ難民キャンプ戦争」の決着:シリア情勢2018(5)

(写真:ロイター/アフロ)

「効果のない化学兵器攻撃、意味のない報復ミサイル攻撃」の続き)

 話をシリア政府と反体制派の対決に戻そう。シリア軍が4月にダマスカス郊外県東グータ地方(緊張緩和地帯第3ゾーン)を完全制圧し、反体制派に対する優勢を揺るぎないものにすると、各地に点在していた反体制派の孤立地域もシリア政府の支配に服していった。その多くは、シリア政府との和解(武装解除と投降、そして免罪)と、和解を望まない戦闘員とその家族の退去(移送)を骨子とする「アレッポ・モデル」を踏襲するかたちで推し進められた。

緊張緩和地帯第2ゾーン(ヒムス県北部、ハマー県南部)

 東グータ地方に続いてシリア政府が制圧したのは、ヒムス県北部のラスタン市、タッル・ザハブ町、ハウラ地方、タッルドゥー市、タルビーサ市、ティールマアッラ村、ハマー県南部のタッラフ村、ハルブナフサ村などからなる緊張緩和地帯第2ゾーンだった。

緊張緩和地帯第2ゾーン(http://anapress.net/a/576477527876357)
緊張緩和地帯第2ゾーン(http://anapress.net/a/576477527876357)

 2011年に「アラブの春」が波及した当初から、ヒムス市とともに抗議活動が盛んだったこの地域の反体制派は、東グータ地方での戦闘終結と前後して、地元の名士らからなる交渉委員会を設置、ロシアの仲介のもとにシリア政府と協議を本格化させた。その結果、5月1日に、(1)シリア政府との和解を望む戦闘員の武装解除と投降(そして免罪)、(2)和解を拒否する戦闘員とその家族の退去、を骨子とする停戦合意が交わされた。

 協議に際しては、ビジネスマンのフィラース・トゥラース氏も仲介役を果たしたとされる。同氏は、ハーフィズ・アサド前大統領の側近の1人だったラスタン市出身のムスタファー・トゥラース元国防大臣の長男で、「アラブの春」波及以降、国外で反体制活動を主導していた。フィラース氏とその弟でバッシャール・アサド大統領の親友と目されてきたマナーフ・トゥラース准将(共和国護衛隊)が離反したのと前後して、父ムスタファー氏もシリアを離れ、フランスに移ったが、2012年7月には、フランス2チャンネルの電話取材で、次のように息子たちへの憤りを露わにしていた。

あらゆる国が私に連絡してきて、反体制の姿勢を表明させようとする…。(シリア軍崩壊のカウントダウンが始まったと思うか、との問いに対して)あなた(記者に対して)はバカか? 50年前に発足した軍の話をしているのだろ? うちの息子や誰かが抜けただけで潰れるボーイ・スカウトの話じゃなくて…。

出典:France 2, July 7, 2012

 ハーフィズ・アサド前大統領とともに今日のシリアの政治体制を築いた父の憤りの真意を悟るかのように、その息子が数年を経てシリア政府の勢力拡大に力を貸すというのは、何とも皮肉なことである。

 緊張緩和地帯第2ゾーンでの停戦合意は5月3日に発効し、反体制派の武装解除が開始された。だが、シリアのアル=カーイダと目されているシャーム解放機構、シリア・ムスリム同胞団の系譜を汲むシャーム軍団、バラク・オマバ前政権の支援を受けてきた「穏健な反体制派」の一つであるイッザ軍などは停戦を拒否、シリア軍との散発的な衝突を繰り返しつつ、ハマー県北部に転戦していった。

 なお、停戦合意に従い、トルコの占領下にあるアレッポ県北部のジャラーブルス市一帯や緊張緩和地帯第1ゾーンに退去した戦闘員らの数は3万5000人に及んだ。その移送は5月15日に完了し、緊張緩和地帯第2ゾーンはシリア政府の支配下に復帰した。

東カラムーン地方

 緊張緩和地帯には設定されていなかったが、ダマスカス郊外県東部の東カラムーン地方でも反体制派支配地域は消滅していった。

 東カラムーン地方の反体制派は4月3日、「強制移住」(退去のこと)回避に向けて統合司令部を設置し、抵抗を試みた。この統合司令部に参加した組織は明らかにされなかったが、イスラーム軍のムハンマド・アッルーシュ政治委員会議長によると、以下10組織からなっていたという。

  • シャーム自由人イスラーム運動
  • ラフマーン軍団サナーディード旅団
  • 東部獅子軍
  • カルヤタイン自由人(カルヤタイン殉教者旅団)
  • イスラーム軍
  • シャーム解放機構
  • 軍事評議会
  • シャーム解放軍
  • 砂漠特殊任務旅団
  • 殉教者アフマド・アブドゥー軍団

 このうち、シャーム解放機構は前述した通り、シリアのアル=カーイダで、シャーム自由人イスラーム運動もアル=カーイダの系譜を汲む。また、東部獅子軍、カルヤタイン自由人、砂漠特殊任務旅団、殉教者アフマド・アブドゥー軍団は、ヒムス県南東部のタンフ国境通行所一帯地域(55キロ地帯)を占領する米国の支援を受けてきた「穏健な反体制派」である。加えて、ラフマーン軍団は「自由シリア軍」を自称し、東グータ地方でアル=カーイダ系のシャーム解放機構、シャーム自由人イスラーム運動と共闘し、イスラーム軍と対峙してきた(「東グータ地方制圧、打ち砕かれた「革命」の幻想」を参照)。こうした反体制派の構成を見ると、反体制派のスペクトラがいかに混濁しているかが再確認できる。

 東カラムーン地方の反体制派は、4月18日にドゥマイル市で、20日にルハイバ市、ジャイルード市、ナースィリーヤ村で停戦を受け入れた。その結果、シリア政府との和解を拒否する戦闘員とその家族約6000人が24日までにトルコ占領下のアレッポ県のアフリーン市一帯やジャラーブルス市一帯、そして緊張緩和地帯第1ゾーンに移送され、シリア政府が同地の支配を回復した。なお、停戦に応じなかったのは、アル=カーイダ系のシャーム解放機構、シャーム自由人イスラーム運動、そして米国の庇護を受ける殉教者アフマド・アブドゥー軍団だった。

カラムーン地方(Nors For Studies, July 9, 2017)
カラムーン地方(Nors For Studies, July 9, 2017)

ハマー県北東部(イスラーム国支配地)

 「アレッポ・モデル」が適応されないケースもあった。反体制派とイスラーム国が混在していたのが理由だった。つまり、シリア政府(そしてロシア)は、反体制派を弱体化させる(そして最終的にその支配地域を奪還する)にあたって、イスラーム国が増長するのを回避しなければならなかったのである。

 イスラーム国は2017年12月に国内の主要な支配地域を失ったが、ダイル・ザウル県南東部のユーフラテス川東岸、ヒムス県東部とダイル・ザウル県西部にまたがる砂漠地帯、緊張緩和地帯第1ゾーン第1地区に含まれるハマー県北東部、首都ダマスカス南部一帯、そしてイスラエルとの境界に面するダルアー県ヤルムーク川河畔地帯(後述)に支配地を温存していた。

 このうち、ハマー県北東部は、シリア政府が、アフリーン郡へのトルコの侵攻を黙認することの見返りとして、2018年1月にその大部分を制圧していた。だが、シリア軍が、同地で抵抗を続けてきたシャーム解放機構、シャーム軍団、シャーム自由人イスラーム運動、トルキスタン・イスラーム党、自由イドリブ軍、ナスル軍などに攻勢を強めるなか(「トルコのアフリーン郡侵攻、漁夫の利を得るシリア政府」を参照)、イスラーム国は、反体制派の劣勢を利するかたちで勢力を拡大、その支配地域は一時アレッポ県南西部、イドリブ県南東部にも及んだ。

2017年末のハマー県北東部における勢力図(拙稿「アサド政権とイスラーム国はシリア反体制派を追い詰めるために結託しているのか?」)
2017年末のハマー県北東部における勢力図(拙稿「アサド政権とイスラーム国はシリア反体制派を追い詰めるために結託しているのか?」)

 反体制派を緊張緩和地帯第1ゾーン第2地区以西に放逐したシリア軍は、事態に対処するべく、イスラーム国との戦いに注力し、2月9日までに同地を完全制圧した。

投降するイスラーム国戦闘員(Wikala Iba’ al-Ikhbariya, February 13, 2018)
投降するイスラーム国戦闘員(Wikala Iba’ al-Ikhbariya, February 13, 2018)

 シリア軍の攻勢を前にイドリブ県フワイン村方面へと逃亡したイスラーム国がとった行動は、シリア政府への投降(和解)ではなく、反体制派への合流だった。イスラーム国の戦闘員とその家族は、「侵略者撃退」作戦司令室の名(2月3日結成)で再糾合した反体制派に投降した。「侵略者撃退」作戦司令室は、シャーム自由人イスラーム運動、シャーム軍団、アフラール軍、自由イドリブ軍、イッザ軍、ナスル軍、ヌールッディーン・ザンキー運動、精鋭軍、第2軍、アルバイーン旅団、第1歩兵師団から構成されていた。シャーム解放機構、トルキスタン・イスラーム党は参加していなかった。

混迷する首都ダマスカス南部

 より複雑なかたちで事態が決着したのが、首都ダマスカス南部だった。ダマスカス県カダム区、タダームン区、ヤルムーク区、ヤルムーク・パレスチナ難民キャンプ、ダマスカス郊外県ハジャル・アスワド市、ヤルダー市、バッビーラー町、バイト・サフム市からなるこの地域は「アラブの春」が波及した当初から抗議デモが発生し、2012年半ばまでにシリア政府の支配を脱していた。東グータ地方、東カラムーン地方の反体制派支配地域が消失するなか、同地は首都近郊における「最後の解放区」だった。

首都ダマスカス南部(https://muraselon.com/wp-content/uploads/2018/04/yarmouk-camp.jpg)
首都ダマスカス南部(https://muraselon.com/wp-content/uploads/2018/04/yarmouk-camp.jpg)

 この地域で「アレッポ・モデル」の適用が困難を極めた理由は主に三つあった。

 第1の理由は、同地の反体制派の構成だ。この地域では(それ以外の地域と同じく)、アル=カーイダの系譜を汲むシャーム解放機構が大きな勢力を持ち、反体制派を主導していた。だが、それだけでなく、イスラーム国が支配地を温存していた。

 イスラーム国は2015年4月頃から徐々に勢力を拡大し、タダームン区、ハジャル・アスワド市を手中に収めた。シャーム解放機構(当時の呼称はシャームの民のヌスラ戦線)は、シリア軍と激しく戦うイスラーム国の動きを当初は黙認し、ヤルムーク区やヤルムーク・キャンプを分有していた。だが、2016年4月、イスラーム国が増長し、キャンプ内での支配を拡げ、ヌスラ戦線をキャンプ西部に追いやり孤立化させると、対立が絶えなくなった。かくして、同地では、シリア軍、シャーム解放機構が主導する反体制派、イスラーム国が三つ巴となって抗争を繰り広げることになった。

 第2の理由は、シリア軍への武装抵抗を停止した反体制派がいたことだ。この地域は2012年半ば以降、シリア軍の砲撃や包囲に苦しんでいたが、このうちヤルダー市、バッビーラー町、バイト・サフム市の反体制派は2014年2月にシリア政府との和解に応じることで、困難を打開しようとした。これにより、ヤルダー市、バッビーラー町、バイト・サフム市に限って、戦闘は回避され、住民のシリア政府支配地域への往来や物資搬出入が許可された。しかし、和解に応じた反体制派のなかには東グータ地方でシリア軍との戦闘を続けていたイスラーム軍が含まれており、またイスラーム国の侵攻の脅威が存在したため、和解によってもたらされた秩序は流動的だった。

シリア版「キャンプ戦争」

 そして第3の理由はシリア最大のパレスチナ難民キャンプであるヤルムーク・キャンプが存在したことだ。約36万人のパレスチナ人が暮らしていたこのキャンプは、「アラブの春」が波及する以前は、ハマース、PFLP-GC(パレスチナ解放人民戦線・総司令部派)などのパレスチナ諸派が拠点を構えていた。

 ちなみに、シリアには、パレスチナ難民キャンプが15あり、その人口は約45万人に達していたとされる。だが、シリア内戦によって、多くのキャンプが被害を受け、11万人以上がキャンプから国外への避難を余儀なくされた。パレスチナ人25万人が暮らしていたシリア最大のキャンプでもあるヤルムーク・キャンプはそのなかでもっとも破壊が激しかったキャンプで、街は瓦礫と化し、8万人が死亡、人口も1万8000人にまで減少した。

シリアのパレスチナキャンプ(http://www.actionpal.org.uk/ar/post/2249/)
シリアのパレスチナキャンプ(http://www.actionpal.org.uk/ar/post/2249/)
ヤルムーク・キャンプの惨状を訴える合成と思われる写真(https://www.unrwa.org/crisis-in-yarmouk)
ヤルムーク・キャンプの惨状を訴える合成と思われる写真(https://www.unrwa.org/crisis-in-yarmouk)

 シリア内戦のなかで、パレスチナ人はシリア政府に与するか、反体制派に与するかの岐路に立たされた。パレスチナ自治政府を主導したハマースは、シリア政府との絶縁を選び、首都ダマスカスに置いていた本部を、反体制派を支援していたカタールに移転させた。

 これに同調したのが、ハマースに近いアクナーフ・バイト・マクディス大隊だった。ヤルムーク・キャンプ内に200人の戦闘員を擁していたこの組織は、シャーム解放機構、イスラーム軍などと連携し、シリア軍に対峙した。

 これに対して、PFLP-GC、ファタハ・インティファーダ、PPSP(パレスチナ人民闘争戦線)は、シリア政府との共闘という長年にわたる姿勢を変えなかった。キャンプ内に700人の戦闘員を擁していたこれらの組織は、いわゆる「同盟部隊」としてシリア軍の戦列に加わった。サーイカ(人民解放戦争前衛)、PLO(パレスチナ解放機構)の軍事部門であるパレスチナ解放軍も「同盟部隊」の一角を担った。

 シリア内戦のなかで新たなパレスチナ民兵も台頭した。もっとも有名なのは、アレッポ市郊外のナイラブ・キャンプなどで暮らすパレスチナ人が2013年10月に結成したクドス旅団で、アレッポ市での反体制派との戦闘だけでなく、シリア東部でのイスラーム国との戦闘にも参加した。このほかにも、イスラーム・ジハード運動の離反者が2014年に結成したサービリーン運動、ヒズブッラーの教練を受けて2012年に結成されたジャリール部隊なども反体制派と戦った(拙稿「シリアの親政権民兵」『中東研究』第530号、2017年、pp. 22-44を参照)。

 パレスチナ難民キャンプ、なかでもヤルムーク・キャンプでは、シリア人どうしが軍と反体制派に分かれて戦うだけでなく、パレスチナ人どうしも血を流し合い、シリア版「キャンプ戦争」とでも呼ぶべき惨状が生じた。

イスラーム国台頭がもたらしたパレスチナ民兵の糾合

 こうした凄惨な事態に終止符が打たれるきっかけを(期せずして)与えたのは、イスラーム国だった。前述の通り、イスラーム国がシャーム解放戦線の黙認のもとに2015年4月にヤルムーク区とヤルムーク・キャンプで勢力を増すと、アクナーフ・バイト・マクディス大隊は、ほかのパレスチナ諸派との対立を解消し、キャンプ奪還に向けてシリア軍と共闘するようになったのである。

 ただし、シリア政府にとっての軍事的優先事項は、アレッポ市頭部の奪還(2016年12月)、シリア東部でのイスラーム国支配地域の奪還(2017年12月)だった。それゆえ、これらが達成されるまで、首都ダマスカス南部でのシリア軍とパレスチナ民兵の奪還戦は限定的なものにとどまった。

 2017年3月になると、シリア政府は「アレッポ・モデル」の適用を本格的に試みるようになった。交渉相手は、抵抗を続ける反体制派だけでなく、イスラーム国も含まれた。イスラーム国の戦闘員退去に向けた折衝は、2017年5月に既に行われたが、当時は奏功していなかった。

 反体制派、イスラーム国双方との協議はうまくいくかに見えた。シリア軍はイスラーム国への攻勢を強めることで、反体制派に力を誇示、戦闘員とその家族の退去を認めさせることに成功したのだ。3月13日、カダム区で活動を続けてきた戦闘員とその家族約1000人がバスで緊張緩和地帯第1ゾーンとジャラーブルス市一帯に移送された。しかし、これが裏目に出た。イスラーム国は3月15日、シリア政府との停戦に合意しておきながら、反体制派の退去に乗じて20日にカダム区に侵攻、これを制圧したのである。

 シリア軍が最終決着に向けて攻勢を強めたのは、東グータ地方と東カラムーン地方での戦闘が終結した直後の4月半ばだった。シリア軍はイスラーム国とシャーム解放機構が分割支配するヤルムーク・キャンプ、そしてイスラーム国が掌握していたハジャル・アスワド市への砲撃と爆撃を強化、パレスチナ民兵とともに地上部隊を進攻させたのである。

 シャーム解放機構は4月28日にとうとう停戦を受け入れた。その内容は以下4点を骨子とした――(1)ヤルムーク・キャンプで活動を続けてきた戦闘員を緊張緩和地帯第1ゾーンに退去させる、(2)シャーム解放機構などの反体制派の包囲が続くイドリブ県のカファルヤー町とフーア市の住民約1500人をシリア政府支配地域に退去させる、(3)反体制派が拉致してきたイドリブ県イシュタブリク村の住民85人を釈放する、(4)シリア政府側が拘束してきた反体制派の捕虜を釈放する。この合意に従い、4月30日、カファルヤー町とフーア市の住民がアレッポ市に移送され、シャーム解放機構の戦闘員とその家族が退去した。また、5月1日には捕虜交換が行われた。

 シリア軍とパレスチナ民兵は、その後もイスラーム国に対して攻撃を続け、5月3日にはその支配地をヤルムーク・キャンプとハジャル・アスワド市一帯に二分、5日にはハジャル・アスワド市南部の街区、13日には同市北部地区を制圧した。最終的に、イスラーム国は19日、戦闘員とその家族の退去を受け入れた。彼らは21日に同地を後にし、22日東部の砂漠地帯に到着、首都ダマスカス南部のイスラーム国の支配地はシリア政府の支配下に復帰した。

和解に応じていた反体制派支配地域も消失

 こうした動きと並行して、シリア政府は、ロシアを仲介者として2014年2月に和解に応じていた反体制派にも「アレッポ・モデル」を受け入れさせていった。

 ロシアは4月24日、ヤルダー市、バッビーラー町、バイト・サフム市に留まっていた反体制派に、イスラーム国とシャーム解放機構との戦闘にシリア軍やパレスチナ民兵とともに参戦すること、そしてこれと合わせてシリア政府と「完全」和解し、支配地域を引き渡すこと、これが受け入れられない場合、同地から退去することを求めた。

 反体制派は4月29日にこれを受諾し、シリア政府との完全和解を拒否する戦闘員とその家族は5月10日までにジャラーブルス市一帯に退去した。5月11日、ヤルダー市、バッビーラー町、バイト・サフム市に内務治安部隊と警察が展開し、シリア政府の支配下に復帰した。この地にとどまることを決意した戦闘員のうち約800人は5月28日までに免罪となり社会復帰を果たした。

免罪手続きを受けるヤルダー市、バッビーラー町、バイト・サフム市の元反体制派戦闘員(SANA, May 29, 2018)
免罪手続きを受けるヤルダー市、バッビーラー町、バイト・サフム市の元反体制派戦闘員(SANA, May 29, 2018)

 こうして、首都ダマスカス一帯の反体制派支配地域は紆余曲折を経て5月までに完全に消失した。だが、これよりも複雑な経緯を辿り事態が決着した地域があった。「シリア革命」発祥の地ダルアー市を含む南西部の緊張緩和地帯第4ゾーンである。

「世紀の取引、革命発祥の地の陥落」に続く)