東グータ地方制圧、打ち砕かれた「革命」の幻想:シリア情勢2018(3)

(写真:ロイター/アフロ)

「トルコのアフリーン郡侵攻、漁夫の利を得るシリア政府」の続き)

 シリア内戦は、さまざまな当事者が、さまざまな争点をめぐって、重層的に対立し合っている点を最大の特徴としてきた。それゆえ、シリア内戦は複雑で難解だと言われることが多い。だが、この複雑さゆえに、ロシア、トルコ、イラン、シリア政府による取引は、シリア国民対話大会の開催、アレッポ県アフリーン郡へのトルコの侵攻と占領、シリア政府による緊張緩和地帯第1ゾーン第1地帯、アレッポ市シャイフ・マクスード地区、アレッポ県タッル・リフアト市一帯の掌握にとどまらなかった。

東グータ地方の苦悩

 取引の連鎖によって、次に事態が大きく動いたのがダマスカス郊外県の東グータ地方だった。

 東グータ地方は、「アラブの春」がシリアに波及した2011年3月から、ダルアー市、ヒムス市とともに反体制抗議運動がもっとも激しく展開し、シリア軍が執拗に攻撃を続けてきた「革命」の中心地とでも言うべき地域だった。ドゥーマー市、ハラスター市、アルバイン市、ハムーリーヤ市、サクバー市、ザマルカー町、カフルバトナー町、ジスリーン町、アイン・タルマー村といった衛星都市と農村地帯からなる同地は、シリア内戦以前には219万人(2010年人口統計)の人口を擁していた。だが、2018年初めの時点で同地に留まっていた住民は35~40万人にまで減少していた。

 シリア軍は2012年12月に東グータ地方への締め付けを強化し、2013年9月に完全包囲した。以降、この地域は孤立し、生活必需品(そして兵站)は周辺からの密輸に依存、深刻な人道危機に見舞われた。

 2017年5月のアスタナ4会議で、緊張緩和地帯第3ゾーンに指定された東グータ地方では、ロシアが中心となって停戦が試みられた。だが、こうした努力は奏功せず、戦闘は続いた。

 ここで言う戦闘とは、ロシアの支援を受けるシリア軍と東グータ地方を死守しようとする反体制派によるもので、前者による「無差別」攻撃は常に欧米諸国の非難の的となった。劣勢を強いられた反体制派は、子供をアイコンとして利用するなどして、欧米諸国の関心を引きつけ、介入させようと試みた(「東グータの反体制派は誰と戦っていたのか?/シリア情勢2017:「終わらない人道危機」のその後(14)」を参照)。だが、一致団結してシリア軍に対抗すべき反体制派は、筆舌に尽くしがたい「虐殺」を尻目に、勢力争いに終始し、反目し合った。

対立し合う反体制派

 対立したのは、東グータ地方で活動を続ける二つの有力組織のイスラーム軍とラフマーン軍団だった。

 イスラーム軍は、2011年9月頃にダマスカス郊外県ドゥーマー市で結成されたイスラーム中隊を母体とした。イスラーム旅団への改称を経て、2013年9月に約50の武装集団を糾合してイスラーム軍を名乗るようになった。サウジアラビアがもっとも支援に力を入れた組織で、ダマスカス郊外県のほか、イドリブ県やアレッポ県でも活動した。2012年7月に首都ダマスカス県でバッシャール・アサド大統領の義兄のアースィフ・シャウカト副参謀長らを爆殺した事件に犯行声明を出したイスラーム旅団は、このイスラーム軍の前身である。

 一方、ラフマーン軍団は、ダマスカス郊外県各所やダマスカス県ジャウバル区で活動してきたバラー旅団、アブー・ムーサー・アシュアリー旅団、グータ殉教者旅団、首都の兵連合、シャームの民大隊、ハールーン・ラシード旅団、カアカーア旅団、ハーフィズ・ザハビー旅団、ムハージリーン・ワ・アンサール旅団、アブドゥッラー・ブン・サラーム旅団、ウンム・クラー旅団、サナーディード旅団、サイフッディーン・ディマシュキー旅団、アジュナード・シャーム・イスラーム連合、第一旅団などが統合して、2013年末に結成された組織で、「自由シリア軍」を自称した。だが、彼らは東グータ地方でも有力だったアル=カーイダの系譜を汲むシャーム解放機構(旧シャームの民のヌスラ戦線)とシャーム自由人イスラーム運動と躊躇なく共闘した。

 イスラーム軍とラフマーン軍団は、2015年12月にロシア・シリア両軍が東グータ地方で実施した爆撃で、ザフラーン・アッルーシュ司令官を含むイスラーム軍の幹部や、ラフマーン軍団、シャーム自由人イスラーム運動の幹部を失って以降、同地の支配をめぐって不協和音をきたすようになり、散発的戦闘を繰り返した。2017年11月半ば、ラフマーン軍団、シャーム自由人イスラーム運動、シャーム解放機構は、「彼らが不正を働いた」の戦いと銘打って、ハラスター市一帯でシリア軍との戦闘を本格化させたが、イスラーム軍は戦いには参加せず距離を置いた。アスタナ会議の動静を見据え、東グータ地方の人道危機への対処や捕虜交換に力点を置き、ロシア、シリア政府、さらには国連との折衝を続けようとしたためだった。

決戦

 東グータ地方におけるシリア政府と反体制派の抗争は2018年に入って最終局面を迎えた。ロシア・シリア両軍は2月18日、東グータ地方の完全制圧に向けて爆撃・砲撃を激化させ、シリア軍地上部隊が「人民防衛諸集団」、「予備部隊」と総称される親政権民兵や「同盟部隊」と呼ばれる外国人民兵とともに同地に進攻した。攻勢が開始されたのは、トルコ軍と反体制派が「オリーブの枝」作戦を開始し、西クルディスタン移行期民政局(ロジャヴァ)支配下のアレッポ県アフリーン郡に侵攻する2日前だった(「トルコのアフリーン郡侵攻、漁夫の利を得るシリア政府」を参照)。

2018年2月18日の東グータ地方の勢力図(https://syr-dm.com/archives/248)
2018年2月18日の東グータ地方の勢力図(https://syr-dm.com/archives/248)

 攻撃が激しさを増すなか、シリア軍による塩素ガス使用疑惑が幾度となく浮上、インターネット上では窮状を訴える住民の映像や写真が拡散された。欧米諸国やサウジアラビアは、1月25日から26日にかけて開催されたジュネーブ9会議で、ロシアに攻撃停止を要求し、2月26日には、人道停戦の設置を定めた国連安保理決議第2401号(S/RES/2401 (2018))が採択された。だが、戦闘が止むはずもなく、欧米諸国はロシアとシリア政府への非難を続け、米国にいたっては、化学兵器が再び使用されたら軍事介入も辞さないとの姿勢をちらつかせた(「シリアのアサド政権は「まだ」化学兵器を使っているのか、そして「また」使うのか?」「シリアのアサド政権は米国の批判を裏付けるために敢えて化学兵器を使用?!」を参照)。

 だが、イドリブ県、アレッポ県西部、そしてハマー県北部の反体制派が、シリア軍の攻勢を前に結束を強めたのとは対照的に、東グータ地方の反体制派は一つにはならなかった。彼らは各々の支配地域で抵抗しただけだった。

 それが弱点だった。

 シリア軍は、イスラーム軍とラフマーン軍団の支配地域の境界に沿って進軍し、包囲を狭めていった。東グータ地方は、3月半ばまでにイスラーム軍の支配下にあるドゥーマー市一帯、ラフマーン軍団、シャーム解放委員会、シャーム自由人イスラーム運動が活動を続けるハラスター市、そして同じくラフマーン軍団などが支配するアルバイン市、サクバー市、ザマルカー町、カフルバトナー町、アイン・タルマー村などからなる南部の三つに分断されてしまった。

2018年3月3日の東グータの勢力図(https://muraselon.com/wp-content/uploads/2018/03/gghota.jpg)
2018年3月3日の東グータの勢力図(https://muraselon.com/wp-content/uploads/2018/03/gghota.jpg)
2018年3月9日の東グータの勢力図(https://muraselon.com/wp-content/uploads/2018/03/adrwani.jpg)
2018年3月9日の東グータの勢力図(https://muraselon.com/wp-content/uploads/2018/03/adrwani.jpg)
2018年3月18日の東グータの勢力図(https://muraselon.com/wp-content/uploads/2018/03/kafar.jpg)
2018年3月18日の東グータの勢力図(https://muraselon.com/wp-content/uploads/2018/03/kafar.jpg)

 こうしたなか、ロシア・シリア両軍は2月末から3月初めにかけて、ドゥーマー市とワーフィディーン・ゴラン高原難民キャンプを結ぶ街道、ハラスター市北の水資源省沿いの街道、ハムーリーヤ市東、ジスリーン町近郊のガイダ橋の4カ所に「人道回廊」を設置し、住民に脱出を呼びかけた。反体制派と連帯し、「革命」成就に向けて邁進していたはずの住民は、これらの回廊を通り、「独裁体制」であるシリア政府の支配地域に大挙した。ロシアやシリア政府寄りのメディアは、当局に保護された住民がシリア軍を歓迎し、反体制派によって「人間の盾」として利用されていたと話す様子を大々的に報じた。言うまでもなく、反体制派はこうした言説をプロパガンダ、デマだと反論した。

東グータ地方にロシア・シリア両軍が設置した「人道回廊」(https://www.enabbaladi.net/archives/214132)
東グータ地方にロシア・シリア両軍が設置した「人道回廊」(https://www.enabbaladi.net/archives/214132)

アレッポ・モデルの適用

 ロシア・シリア両軍は、住民に「人道回廊」を通じた脱出を呼びかける一方、反体制派には、武器を棄てて投降するか、シリア北部の反体制派支配地域に退去するよう強く迫った。筆者が「アレッポ・モデル」と呼ぶ収拾策である(「アレッポ・モデルの停戦:退去か強制移住か/シリア情勢2017:「終わらない人道危機」のその後(12)」を参照)。その結果、シリア自由人イスラーム運動が3月20日にハラスター市からの退去を、ラフマーン軍団が22日にシャーム解放委員会やシリア解放戦線とともにアルバイン市、ザマルカー町、アイン・タルマー村、そしてダマスカス県ジャウバル区から退去することを受諾し、戦闘員とその家族4万5000人以上(ロシア国防省発表)が、反体制派の牙城であるイドリブ県やトルコの占領下にあるアレッポ県北部のアフリーン市一帯やジャラーブルス市一帯に移送された。

2018年3月31日の東グータの勢力図(https://muraselon.com/wp-content/uploads/2018/03/ghouta-2.jpg)
2018年3月31日の東グータの勢力図(https://muraselon.com/wp-content/uploads/2018/03/ghouta-2.jpg)

 東グータ地方最大の都市で、住民13万5000人が留まっているとされるドゥーマー市を支配するイスラーム軍は最後まで抵抗した。同市の放棄を拒否し、徹底抗戦を主張するメンバーが少なからずいたことが主因だった。とはいえ、ロシア・シリア両軍の攻勢を前に、イスラーム軍は決断を迫られ、4月1日に停戦を受け入れた。シリア政府と交わされた最終合意は、(1)シリア軍、イスラーム軍双方が戦闘を停止する、(2)投降を望まないイスラーム軍の戦闘員と家族をジャラーブルス市方面に退去させる、(3)イスラーム軍が拉致・拘束していた捕虜・人質を解放する、(4)イスラーム軍が保有する重火器・中火器をシリア軍に引き渡す、といった内容だった。

 合意の履行はその後も紆余曲折を経た。イスラーム軍の退去は、4月4日までに4度にわたって行われ、戦闘員とその家族約4000人がドゥーマー市を後にした。だが5日になると、退去を拒否するメンバーの妨害によって搬送作業は中止を余儀なくされた。

 ドゥーマー市で戦闘が再開したのは翌6日だった。イスラーム軍は首都ダマスカス各所を砲撃し、住民40人以上が死傷した。これに対してシリア軍(そしてロシア軍)は総攻撃を開始し、ドゥーマー市を激しく爆撃・砲撃するとともに、地上部隊を進攻させた。

 最終的には、4月12日、イスラーム軍はダマスカス郊外県東グータ地方ドゥーマー市から完全退去、シリア駐留ロシア軍は東グータ地方ドゥーマー市をシリア軍が完全制圧し、ロシア軍憲兵隊が展開したと発表した。

2018年4月14日の東グータの勢力図(https://muraselon.com/wp-content/uploads/2018/04/e-ghuota.jpg)
2018年4月14日の東グータの勢力図(https://muraselon.com/wp-content/uploads/2018/04/e-ghuota.jpg)

 反体制系サイトのドゥラル・シャーミーヤ(2018年6月7日付)によると、東グータ地方を退去した反体制派戦闘員のその家族の数は6万7728人に達した。なお、同サイトによると、2018年に入って以降の反体制派支配地域の縮小・消滅に伴い、このほかにも首都ダマスカス南部(バビーラー市、ハジャル・アスワド市、ヤルムーク・パレスチナ難民キャンプ)から9250人、東カラムーン地方から6236人、ヒムス県北部・ハマー県南部から3万5648人が退去、東グータ地方からの退去者と合わせると11万8862人が、イドリブ県、アレッポ県、そしてハマー県の285カ所に移動したという。

 英国で活動する反体制系NGOのシリア人権監視団によると、2月半ばから4月半ばにかけての民間人の死者数は1600人を超えた。この数字は、欧米諸国や反体制派が非難した通り、「無差別殺戮」、「虐殺」との非難を免れるものではない。だが、2016年12月のシリア軍によるアレッポ市東部制圧の時と同じく、35~40万人と推計されたほとんどの住民は、「無差別殺戮」、「虐殺」に手を染めてきたとされるシリア政府の支配下にとどまることを選択した。

 自由と尊厳を実現するため、革命家と住民が一致団結して独裁に挑む――そうした「革命」の虚像を東グータ地方に見出すことはできなかった。あるのは、屈服を拒み、住民を見捨てることを選んだ武装勢力と革命家を自称するその協力者、彼らと行動を共にすることを決意した家族、そして是非はともかくとして、シリア政府のもとで回復した安定を受け入れた住民だけだった。

 かくして、東グータ地方の戦いは、ロシアの支援を受けるシリア政府の勝利によって幕を閉じた。だが、その最終局面において、「あの事件」がまたしても発生した。シリア軍による化学兵器攻撃疑惑事件である。

「効果のない化学兵器攻撃、意味のない報復ミサイル攻撃」続く)