パラリンピックは“つまずきの石”。TOKYOはどんなパラリンピックを見せられるのか

(写真:アフロ)

9月19日、リオデジャネイロパラリンピックの12日間にわたる熱戦が幕を閉じ、次回開催都市への引き継ぎセレモニーが行われ、小池百合子東京都知事にパラリンピックの旗が受け渡された。2020年には、東京でオリンピック・パラリンピックが開催される。

しかし、早速前途多難な様相を呈している。先日の東京都の都政改革本部において、都の調査チームが報告した開催費用の試算額は、招致段階の4倍以上の3兆円超だったという。3つの施設の建設中止も視野に入れた見直しが提案されるなど、複合化した利害関係の中で喧々囂々の議論が紛糾している。

筆者は、国立競技場が取り壊され、更地になるまでの経過やその後を毎週のように見ているが、何かと味噌が付いたこれまでの悪い流れを差引いたとしても、あの空間で開催されることをうまくイメージできないでいる。

まだ4年もあるとも言えるし、どうであれそれなりのレベルに仕上げるのは日本のお家芸ではある。ただ、予算云々以上に、「ホスト国としてTOKYOはどんなパラリンピックを見せられるのか」、ここに対する疑念が拭えないのだ。

オリンピックから2週間以上空くことで熱狂が冷めてしまう、経済合理性の観点でメディア露出、PRにおいて大きな差がある、こういった「致し方ない理由」が大きいのだろうが、あまりにもパラリンピックへの関心が薄くないだろうか。

金メダルは獲れなかったものの、メダルの総数では前回大会を上回っていたし、NHKはかつてないほどに力を入れてパラリンピックを放送していたが、そういうことでは解決できない根深い問題があると思うのだ。本稿では、その点にフォーカスしたい。

■ なぜ、パラリンピックへの関心は高まらないのか

NHK総合で放送されたリオデジャネイロオリンピックの開会式の番組平均視聴率が23.6%だったのに対し、パラリンピックの開会式の視聴率は7.8%だった(関東地区 ビデオリサーチ調べ)。

時差を鑑みれば、生中継の視聴率は落ちる傾向があるのは否めないし、パラリンピックが絶対的に低いとは言い切れないかもしれない。前述したように、NHKには開会する前からスポーツと福祉両方の観点からパラリンピックを盛り上げようとする気概を感じた。ただやはり、なかなか成果につながらなかったというのが実情ではないだろうか。

視聴率だけではなく、NHK公式YouTubeチャンネルにおける動画の視聴回数も芳しくない。史上最多のメダルを獲得し、名シーンが目白押しだったオリンピックと比較するのは酷だが、コントラストが強く出てしまっている。テレビ離れが進んでいる、時差の問題が大きいという話ではなく、そもそもの関心が薄いことが第一の課題だろう。

日本財団パラリンピックサポートセンターによると、2012年のロンドンパラリンピックには164カ国、4,237人の選手が参加し、チケットは約278万枚販売され、多くの会場が満席となり、史上最多の観客動員数を記録したという。パラリンピックはオリンピック、サッカーワールドカップに次ぐ大規模なスポーツイベントであり、世界が注目しているのだ。オリンピックのオマケなどでは決してない。

日本での関心が薄いなら、各メディアが一斉に盛り上げればいいじゃないかと思うかもしれない。だが、言うまでもなく、パラリンピックの扱いは商業ベースに乗るか否かで判断されるわけで、民放は視聴率やスポンサーの有無を無視することはできず、高額の放映権を度外視して力を注げるだけの資源を持ち合わせていない。NHK以外では、長いことパラスポーツの中継に力を入れている有料放送の「スカパー!」のみが放送するにとどまっている。

スポンサー企業も、わざわざ視聴率が低いと想定される番組をスポンサードしようとはしないだろうし、テレビにかじりついて観戦していない我々視聴者もまた共犯者である。事実、民放連はリオデジャネイロオリンピックの放送における全体収支が、ロンドンオリンピックに続き2大会連続で赤字だったことを発表した。国際オリンピック委員会(IOC)に支払う放映権料の高騰や、現地での治安対策における費用が主な要因だという。

なるほど、これだけビジネス面で厳しい状況なのであれば、仕方がない。パラリンピックへの関心が高まり、テレビの視聴率やネット動画の視聴回数が伸びないのも納得がいくーー果たして、障がい者スポーツはお金にならないから云々という話で終わらせていいのだろうか。

否、4年後には開催国になるわけで、たとえ障がい者スポーツの財政難は万国共通だとしても、TOKYOなりのパラリンピックを表現しなければならない。そしてそれは、ソフト・ハードともに障がい者の捉え方そのものを変えるということを意味する。

ここにこそ、大きな課題があるのだ。まずは、障がい者およびパラリンピアンが現状どのように扱われているか、見てみよう。

■ 安易に「見世物化」される障がい者コンテンツ

陸上女子400メートル(切断など)で銅メダルを獲得した辻沙絵選手を例に取るとわかりやすい。「辻沙絵」で検索をかけてみると、1ページ目に出てくるのは、「可愛い!」「気になる彼氏は?」という見出しが躍る。「美しすぎる○○」という紋切り型の煽り文句で関心を引くのは常套句だが、こういうところに日本の民度の低さが垣間見えてしまう。

辻選手は、先天性前腕欠損という障がいを抱えつつも小学校からハンドボールを始め、ハンドボールの強豪校に進学し、国体、総体に出場するレベルの実力を持ち、スポーツ推薦で体育大学に入学している。そして、ハンドボール部の監督に持ち前の瞬発力を買われ、障害者陸上競技への転向の打診を受けたという。

興味深いのは、ハンドボール選手として「健常者」としのぎを削ることが当たり前だった彼女にとって、「障がい者」としてアスリートとなることに葛藤があり、はじめのうちは掛け持ちしてやっていたことだ。銅メダル獲得後の記者会見で彼女は、「いろんなことを犠牲にした」と言っていたが、こういう背景があったのだなと腹落ちする。

少し調べれば、この程度の情報は簡単に見つかる。アスリートとしての才能があって、可愛くて、物語をこしらえやすければ、だが。つまり、「わかりやすい」要素があれば、多くの人がこぞって情報を発信し、それに多くの人が飛びつくようにできている。一方で、そうではない選手の情報量は少ない。なぜなら、消費されにくいからである。

前述の視聴率の話と同様に、読まれないもの、関心を持ってもらえないものに力を注ぐというのは、NHKのような組織でもなければ、余程のモチベーションがない限りできない。そうして、パラリンピアンは安易に見世物化されてしまうか、光が当てられないままになってしまうのだ。

もうひとつ、パラリンピックを離れて、「障がい者コンテンツ」という観点で見てみよう。

障がい者を舞台に出演させて見世物にするようなことは今や昔だが、最近でも「感動ポルノ」と評されているものがある。「24時間テレビ」だ。

もちろん、一度に多くの人の心を動かし、行動=寄付させるというのは至難の業であり、その意味ではチャリティ番組として機能していると言える。ただ、やはりここでも、障がい者を安易にわかりやすく見世物化し、商業利用しているのではないだろうか。

例えば、事故で両足マヒになった少年が富士登山に挑戦するコーナーで言えば、「健常者でさえ難しいことを、障がいを乗り越えて達成する」といわかりやすさに勝るものはないし、困難な状況でも負けずにがんばる姿を目の当たりにすれば、誰しも胸が熱くなってしまうものだが、あまりにもその演出が露骨すぎて見え透いている。

障がい者そのものをテーマとするならば、なぜ精神障がい者は扱わないのか、片手落ちだと批判されるのも無理はない。いずれにせよ、番組を通してチャリティや福祉といったものを啓発できるとは言い難いだろう。

もちろん、そのような大きなテーマを民放のいち番組に背負わせるというのはフェアではないが、手を変え品を変え感動ストーリーやエンタテインメントをこしらえたところで、障がい者と健常者が分断されている限りバリアフリーには繋がらない。障がい者は弱者としてラベリングされ、彼岸に置かれたままになってしまう。

■ パラリンピアンは超人ではなく、隣人である

では、他の開催国はどんなコンテンツを作っているのだろうか。2012ロンドンオリンピック・パラリンピックの開催国だったイギリスの公共テレビ局「Channelnel 4」が、リオデジャネイロパラリンピックの放送のPRとして公開した『We’re The Superhumans』を見てみよう。

We're The Superhumans | Rio Paralympics 2016 Trailer

10月2日現在で700万再生を超えている。少なくともこの動画に関しては、パラリンピックは関心が薄いから視聴回数が伸びないという“常識”を覆している。また、ロンドンパラリンピックの際には『Meet The Superhuman』というCMを公開し、カンヌライオンズFilmCraft部門でグランプリを受賞した。

一体、何が違うのだろうか。『We’re The Superhumans』には、アスリートだけでなくミュージシャンや障がいを持った人たちが数多く出演していて、パラリンピアンや障がいを持ちながらもすごいパフォーマンスをする人たちをいたずらに超人扱いすることなく、彼らの日常と競技が同化している様を演出している。

「Yes, I Can!」というキャッチフレーズは、あらゆるバリアをフリーにする言葉であり、障がい者は超人でも弱者でもなく隣人なのだと示唆しているのではないだろうか。

ちなみに、『We're The Superhumans』は音声ガイド付き、手話付きバージョンも公開されていて、健常者に消費させる目的だけのものでないことがうかがえる。CMはひとつの手段でしかないが、現状は完敗だと思うのだ。本稿のタイトルにある「TOKYOはどんなパラリンピックを見せられるのか」という問いかけは、ここに由来する。

だからこそ、パラリンピックで言うところの「成功」は難しい。安心・安全に開催され何事もなく終わるだけでなく、サステナブルなモデルとしての成功、そして日本の民度が試されてもいるからだ。

■ 「POSITIVE SWITCH」は心のバリアフリーに繋がるか

リオデジャネイロパラリンピックの閉会式では、前向きな変革を意味する「POSITIVE SWITCH」をテーマにパフォーマンスが繰り広げられた。4年後を占う上で興味深い内容だったが、公式サイトによると「POSITIVE SWITCH」という言葉には、次のような意味が込められているという。

障がいがあることは、新しい可能性をもつことでもあるんだ。そう言える東京を目指して。パラリンピックには、アスリートたちの想像を超えたパフォーマンスや挑戦を続ける彼らの生き方が、障がいのあるなしにかかわらず、すべての人々の意識を大きく変え、その気持ちをポジティブに向かわせる力がある。パラリピアンだけではない。他のジャンルでも障がいを作用点としてPOSITIVE SWITCHを入れた魅力的な若者たちが、誕生している。彼らの存在は、人間の弱さや強さについて、多様な魅力や限りない可能性について、さらにはフェアネス、バリア、ノーマルについて考えるチャンスになる。人を社会を変えていくのは、彼らかもしれない。

出典:東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会公式ウェブサイト

重要なのは、とにかく障がい者スポーツのすごさを見せて、その魅力を知ってもらうことではない。遠回りでも、4年かけて意識の変化を促すことだ。障がい者を見世物にするのではなく、あちら側とこちら側の距離を縮め、「日常」にすることだ。

そこにはもう、わかりやすい感動や過剰なエンターテインメントは必要ない。パラリンピックに出ている普通にすごい人たちを応援するだけでいいし、エキサイティングなスポーツやお気に入りの選手が見つかれば、競技場に足を運べばいい。

心のバリアフリーとはつまり、当たり前の日常になるということだ。そうすれば、オリンピックまでとはいかないまでも、どうしたらパラリンピックに関心を持たせられるかといった議論から脱却することはできるだろうし、世界に向けてどんなパラリンピックを見せようか、という次元に行ける。筆者は、そういった議論が活発になり、世界に誇れるコンテンツが生み出されることを願っている。

■ パラリンピックは“つまずきの石”である

最後に、聖書の一節を紹介しよう。

見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。

出典:新約聖書 ローマ人への手紙 9章33節

一方で、こうも書かれている。

見よ。わたしは、シオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。

出典:ペテロの第一の手紙 2章6節

どういうことだろうか。前後の文脈は割愛するが、要約すると、神によって選ばれた石はある者にとっては、つまずきの石、妨げの岩となるが、それを信じる者にとっては、決して失望することのない、尊い礎石となると言っている。この「石」とはキリストの比喩であり、キリストとどう向き合うか、そしてその結果どうなるのか、という教訓である。

パラリンピックもまた、“つまずきの石”なのではないだろうか。目に見えるバリアと目に見えないバリアがあり、できるだけ避けたいものかもしれない。どうしても、まっすぐ歩いていったらつまずくに違いないと思ってしまうかもしれない。

だが、それでも開催地に選ばれたTOKYOは、この石を避けて通ることはできないのだ。そして、我々一人ひとりもまた、“つまずきの石”を目の前にして、どの道を歩むのか試されているのである。