エリートの、エリートによる、大衆のための『シン・ゴジラ』

(写真:MANTAN/アフロ)

とにかく評判の良い『シン・ゴジラ』。そんなに言うならと、仕事帰りにIMAXシアターに滑り込んだ。開始5分前にチケット売り場に行ったら、最後の1席。休日前とはいえ、注目度の高さがうかがい知れる。

一人で食べるには多すぎるポップコーンを抱えて席に着き、最上段からスクリーンを見下ろすと、ほどなく本編が始まった。2時間を超える作品だが、冗長なところはなく非常に濃密で、随所にエヴァ的要素が盛り込まれていることを差し引いても、その評価の高さに値する出来映えだった。

これだけ登場人物が多いのに混乱することなく、それぞれのキャラクターを認識することができるのは、ひとえに作り手の手腕と豪華キャストあってこそだ。

観客席はエンドロールが終わるまで適度な緊張感で包まれ、皆がスクリーンに集中していた。純粋に面白かったし、満足度の高い映画だと言い切っていいだろう。

その上で、私は『シン・ゴジラ』を「エリートの、エリートによる、大衆のための映画」だと感じた。理由はシンプルで、基本的にエリート(と天才)しか出てこないからである。

未曾有の災害や大惨事などの異常事態と立ち向かう人々の群像劇を描くパニック映画においては、主人公である「一般人」が中心となり活躍し、困難を乗り越えながら家族や恋人との絆を深めていくことが前提となる。『シン・ゴジラ』にはその要素がない。

そもそも『シン・ゴジラ』はパニック映画ではないといえばそれまでだが、だから良いとか悪いとかではなく、そこにこの映画の特徴が表れていると思うのだ。

■ 登場人物はとにかくカッコよすぎて、すごいヤツだらけ

突然トラブルに見舞われ、運命に翻弄されながらも、諦めずにベストを尽くす。ヒロイズムを帯びた主人公は、見る者の心を掴み、ストーリーに引き込んでいく力を持つ。長谷川博己さんが演じる主役、内閣官房副長官政務担当・矢口蘭堂とはどんな人物だろうか。

矢口は、二世議員であることを生かし若くして要職に就いたエリートであるが、閣僚会議という場であっても自分の意見を主張する向こう見ずなところがあり、折に触れて竹野内豊さんが演じる切れ者、内閣総理大臣補佐官・赤坂秀樹に諌められる、といった設定からもわかるように、空気を読んでなんぼの政治家像と一線を画した存在として、応援したくなる人物に仕上がっている。

作中、そんな彼が取り乱すシーンがあり、松尾諭さん演じる保守第一党政調副会長・泉修一に諭されるものの、その後は終始見事なまでに冷静と情熱の間で難しい判断を下し、自らも前線に出て問題解決に当たる。ただひたすら、国の未来のために。つまり、矢口はあまりにも「カッコよすぎる」のだ。

そういう意味では、政治家たちのカッコよさや、陸海空の自衛隊がひるむことなくゴジラに立ち向かっていく様子を見るにつけ、「安倍政権の政治的プロバガンダである」と評する向きがあるのも無理はないかもしれない。先の東日本大震災でもそうであったように、政治家や官僚は不眠不休で事態の収拾に当たったんですよ、そう言わんばかりではないかと。

こういった見方やネットに溢れる深読みの類の是非はさておき、魅力的な登場人物を配置しながらも、あくまでもエリートとそれ以外という構造で描かれていることに注目したい。なぜ、ここまでカッコよく、すごいヤツばかりの必要があるのか。あんな怪物を目にしたら、腰が抜けて勝てっこないと逃げ出すのが普通ではないだろうか。エリートたちは人間の弱さを超越してしまったのだろうか。

■ 作品と観客が断絶されているからこそ、虚構としての純度が高い

この違和感に解を与えると、こうなる。『シン・ゴジラ』はただひたすら理想を描いているからである。

にわかには信じがたい事態が現実となり、目を覆いたくなるような惨劇が繰り広げられようとも、この国は負けない。日本の未来のために全身全霊を注ぐことのできるエリートたちがいる。世界に誇れるものがあるんです。希望を持ちましょう。そんな具合に。

『シン・ゴジラ』に魅了され、ある種の爽快感を覚える人が多いということは、虚構としての純度が高く、現実とのギャップが大きいことの表れでもある。つまり、「こんなヤツいるわけねーだろ」と白けるまでもなく、その虚構を受け入れ、楽しむことができるのが『シン・ゴジラ』の魅力なのである。

映画館に足を運ぶ一般人は、エリートや天才的な才能を持つ登場人物たちに感情移入することは難しい。メインキャストとは対照的に逃げ惑う無名の人たちには当事者性があるが、感情移入できるほどそれぞれの人物が描かれていない。

だからこそ、作品と観客は断絶され、見世物としての精度が高まる。断片的に切り取られ完結した世界を外側から眺め、そこで起きていることに一喜一憂できる。虚構としての純度が高いというのは、そういう意味合いである。

言い方は悪いが、『シン・ゴジラ』の観客である私たちは、二重に蚊帳の外にいるのだ。映画の中では、ゴジラから逃げ惑い「ヤシオリ作戦」の成功を祈るのみの存在であり、現実世界においても、様々な才能が集結して創られた作品を消費するのみの存在である。

いや、蚊帳の外という表現は正確ではない。その他大勢の人々もまた、しっかりと役割を担っている。国民として国を支え、その運営をエリートたちに委ねているし、良質なエンターテイメントを求める代わりに、興行収入を支えている。

『シン・ゴジラ』は、この構造を浮き彫りにしている。無名の人たちは、エキストラではあってもキャストではない。これが、「エリート、のエリートによる、大衆のための映画」と評する所以だ。