私たちは本当に「全人格労働」を強要されることで、人間らしさを失っているのか

(写真:アフロ)

「全人格労働」という言葉をよく目にするようになった。

人生の一部であるはずの仕事にすべてを捧げ、心身ともに壊れてしまう。そのような状況に陥る原因として、ネガティブな文脈で語られる全人格労働とは、何なのか。いわゆるブラック企業と言われる会社などは、社員に全人格労働を強要し、搾取しているのだろうか。

厚生労働省による2015年度の労働紛争に関する調査では、民事上の労働相談のうち、上司による暴言や無視などいわゆるパワハラに当たる「いじめ」が、前年度比7%増で過去最多となったと発表されている。

また、労働相談自体も2.6%増えており、「いじめ」以外でも「自己都合退職」は8.7%増。このことからも、職場の人間関係や労働環境で悩んでいる人は増加傾向にあるとは言える。

ただ、私は全人格労働なるものが常態化し、それが故に多くの人の人生が損なわれているのかどうかといえば、必ずしもそうではなく、そこで止まってしまっては本質が見えてこないと感じている。

というのも、会社から搾取され、人生が狂ってしまったとされる匿名の人々は、被害者もしくは犠牲者として誇張され、「社会問題である。他人事ではない」という紋切り型の警鐘に終始するケースがほとんどだからだ。社会問題だとするならば、より掘り下げて考える必要がある。

いずれにせよ、全人格労働とは何なのか、なぜ起きるのかを考察してみよう。

■ 全人格労働の定義と発生理由について

まず、全人格労働の定義についてだが、「日本の人事部」の説明がわかりやすかったので、そのまま引用したい。

「全人格労働」とは、人生の一部であるはずの仕事に自分の全人生や全人格をつぎ込んでしまうような、破滅的な働き方をいう言葉です。産業医の阿部眞雄氏は2008年に著した『快適職場のつくり方 イジメ、ストレス、メンタル不全をただす』の中で、この概念を提示し、全人格労働が日本の社会に少しずつ広がっていると指摘しました。賃金やポストの上昇といった見返りが少ない職場が増えていることに加え、競争の激化や業績へのプレッシャー、解雇の恐怖などから、否応なしに過重労働に追い込まれ、仕事に人間らしさを奪われてしまう状態を表します。その結果、正しい判断ができずに道を誤ったり、心身を病んで休職・退職を余儀なくされたりする人も少なくありません。

出典:日本の人事部 人事辞典

筋が通っているし、筆者自身ITベンチャーを渡り歩き、様々な企業を取材してきたが、こういう状況はどこか別の世界の話ではなく、具体的にイメージできる。実際に、そうとしか言いようのない人たちが一定数いることは間違いないだろうとも思う。

では、なぜ必ずしも会社が全人格労働を強要しているわけではないと考えるかというと、ひとつ目は冒頭で述べた通り、被雇用者の「被害者側」の視点、もしくはそこに同調し憑依したメディアの視点で語られていて、雇用者は匿名のまま抽象的な加害者として仕立てられることが多いからである。

そしてもうひとつは、全人格労働としか言いようのない事態が起こっていたとしても、真の理由と問題はむしろ「ブラック化した企業」の側にはないからである。

つまり、ある人が全人格労働をできてしまうという、まさにその状況こそが危機的なのであり、なぜ全てを注ぎ込んでしまうようなことができるのか、この理由にフォーカスする必要があるということだ。

念のため断っておくが、「いじめられる側も悪い」「弱者も戦うべきだ」といった議論を展開する気は毛頭ない。これから書くことは、本当の意味で他人事ではない、より根深い問題であり、全人格労働そのものの是非を問うといった話ではない。

現状定義されている「全人格労働」はそのままに、あくまで全人格労働が実践されているとはどういう状況なのか、そしてそれはなぜ起こるのか、なぜそこから脱出できないのかに迫りたいと思う。

■ 会社は長時間労働を強要し、搾取する存在なのか

「賃金やポストの上昇といった見返りが少ない職場が増えていることに加え、競争の激化や業績へのプレッシャー、解雇の恐怖など」、これが全人格労働の理由とされている。

見返りが少ない職場が増えていることのエビデンスはなさそうだが、外的要因に左右されやすい特定の業種業界だけでなく、盤石だと思われた会社が大幅な赤字を計上したり、リストラを推進していることなどを見ても、終身雇用は今や昔のことで、大企業に入りさえすれば大丈夫などと安心していられない時代になっていることは自明であろう。

そう考えれば、一部のブラック企業だけの話ではなく、誰もが全人格労働に囚われる可能性がある、他人事ではないという話になるのは納得できる。実際、長時間労働や休日出勤が常態化している会社はざらにある。

また、それを「組織貢献」として良しとする風潮が見えない同調圧力を生み、その状況を助長することは珍しくない。その意味では、全人格労働の理由とされているものが複合的に絡み合い、ネガティブスパイラルを生み出しているとも言える。

しかしそれでも、大抵の場合は組織が個人に全人格労働を強いているわけではなく、「結果的に」全人格労働になってしまっているのではないかと思うのだ。

前提として、私は会社員という立場は「都合が良く、楽だ」と感じている。なぜなら、保険や税金などの手続き周りのことは代行してくれるし、有給休暇もあるし、会社の業績が良ければ、個人として大した成果を上げていなくてもボーナスが出るからだ。

組織におけるポジションによるところはあるが、基本的には業務や責任の範囲は全体の一部を担うという形になる。また、最低限のルール、マナーを守れば、いつでも転職することができる。これらは、組織に属していればこそ享受できるメリットと言えるだろう。

さらに、「考えなくてもいい」という側面もある。先人たちが築いたビジネスモデルや商材があり、ゼロから何かを生み出し、それを価値に変えていく、というレベルの仕事に就くことは滅多にない。基本的には、ある程度決められた範疇、目標に従って働くことになる。

無茶な目標を設定し、目標達成そのものをモチベーションにして全力で働かせる、確かにそういうマネジメント手法は存在するし、やり方としては良いとは言えないかもしれない。ただ、それでもわかりやすくはある。なぜその目標が必要なのか、それが達成できなかったらどうなるのか、というところまでは見なくてもいい。

しかも、目標を達成できなかったとしても、結果だけを評価対象として機械的に給与を下げられる、降格させられるということは稀だ。外資系企業などは別だが、そもそもそういう文化を理解した上で入社しているケースがほとんどである。

お前は本当にブラックな会社を知らない、正規雇用社員が恵まれているだけだ、と反論があるかもしれないが、少なくとも筆者自身の経験で言えば上記のような認識である。

■ 機能しなくなっただけで、全人格労働は昔からある

確かに、厳しい時代ではある。労働と対価のバランスが崩れていると感じる人が多いのも無理はない。インターネットやデバイスの進化により、どこでも仕事ができるようになった代わりに、オンオフが切り替えにくい。SNSで上司や取引先で繋がっていて、息がつまる。そういったストレスもあるだろう。

ただ、会社という仕組み自体が労働者を搾取し、人生を損なわせるものに変わってしまったわけではない。全人格労働そのものは突如生まれたものではなく、長らく行われてきたことである。

問題は、全人格労働が時代の変化と多様性の中で取り残された愚直さ、そして、硬直化した価値観や生き方の表れとして可視化されたことにあるのだ。つまり、状況が変わっても従来通りにやるから悲劇が起こるのである。

全人格労働とは本来、終身雇用や社会保障制度という強固な基盤や、出世競争があるからこそ、“機能”する。受験戦争に勝ち、一流大学を卒業して、終身雇用を約束する大手企業に入り、30歳までに結婚して子どもをもうけ、右肩上がりの給与を担保にマイホームを買い、ローンを返し、リタイヤ後は第二の人生を…という画一化された人生設計に組み込まれることで、全人格労働は社会問題として槍玉に挙げられるどころか、競争に打ち勝つための要素であり、その後の人生を左右するものとして組み込まれてさえいた。

だから、今や機能しなくなった全人格労働を悪者扱いしていても仕方がなく、自分自身でそこから脱却する必要がある。時代は変わり、価値観やライフスタイルが多様化し、言い換えれば、社会から個人として分断された状態で、情報の海の中でもがきながら「答え」を探すことが求められているのだ。

もう誰も正解を教えてくれないし、正規ルートだと思って走っていた線路が突然途切れてしまうかもしれない。それならば、どうすれば良いのか。これが、本稿のテーマである。

■ 「こんなはずじゃなかった」からどうやって脱却すれば良いのか

どのレベルを全人格労働と呼ぶのかイメージしにくい人もいると思うので、全人格労働で人生が狂ってしまったという事例を見ながら、どうしてそうなるのか、何が問題なのか、いかにしてそこから脱却できるのか、考えていこう。

仕事で私が壊れる 人生を搾取する「全人格労働」 

ここに出てくるのは40代の男女で、夢ややりがいという気持ちを利用して搾取された、要求の高い上司に過重労働を強いられた、結果的に人生が狂った、というように「被害者」の体で語られている。なるほど、全人格労働とはこういうものですよ、と伝えるのにはもってこいのサンプルである。

同情とともに教訓を得るべきなのかもしれないが、真っ先に私の頭に浮かぶのは「この人たちは今までどうしていたんだろう?」という疑問だった。異業種にキャリアチェンジした結果なのかもしれないし、ここに至るまでの20年ほどはハードワークと無縁だったのかもしれないが、まだ世の中のことが分かっていない若者を騙して馬車馬のように働かせるのとは訳が違う。

30代後半が婚活、妊活のラストチャンスだったと言っているが、それまではどのような人生設計だったのだろうか。要求の高い上司さえ来なければ、順風満帆な人生を送れたのだろうか。いや、そもそも順風満帆な人生とは、結婚、出産することであると考えていたのだろうか。

人生の一部分であるはずの仕事に人生すべてを捧げ、「私」が壊れてしまった、これ自体は悲劇以外の何物でもない。ただ一方で、人生の一部である仕事にすべてを捧げている時点で、「私」は壊れているということに気づく必要がある。

辞めてしまったらそのあとどうなってしまうかわからない、だから辛くてもやめられない。そういう部分があることは否定しない。私自身、30代後半を迎え常日頃感じていることでもある。

だが、「こんなはずじゃなかった。会社に人生を狂わされた」というとき、同時に「では、どんなはずだったのか」と問う必要がある。日々自ら選択し、行動してきたのではなかったか、その「私」とは、何なのかと。

自分が“既定路線”から外れることなど考えたくないし、それこそ他人事として終わらせたいものである。しかし、「私」だと思っていたものと現実との間にギャップが生じ、残酷にも見たくなかった本当の自分が顔を出す。それに気づいた時には後の祭り、という具合に。

夢や希望、やりがいというものは、間違いなく前向きに生きるための原動力になる。ただ、「何者にもなれない私」や「思い通りにならない現実」とも向き合わなければいけない。

だから、まずは人生を「こんなはずじゃないもの」とした上で、自分とは何者なのか、どうありたいのか、何を大切にするのか、といった部分を、なるべく早い段階で考える必要があるのだ。

■ 自分自身と向き合い、心の声に耳を傾けることが必要

会社や上司は目標を設定してくれるが、当然人生の答えはくれない。アドバイスをくれたとしても、それをどう聞き、何をするかは本人次第。

自分を変えるのは、あくまで自分だ。自分はどうありたいのかが大切であって、正解はないし、他人に成り替わることも、代わってもらうこともできない。

もちろん、自分の頭で考え、自ら選択し、自発的に行動するなどといっても、社会の一員として生きていくためにはベースとなる「枠組み」が必要で、何も与えられず生きていける人などほとんどいない。高校での進路指導、大学でのキャリアセンター、会社での人事による研修や上司による目標設定、「正規ルート」にはこういった枠組みがあり、多くの人がそれらを甘んじて受け入れている。

なぜか、他にできそうなことがないから? レールから外れるのが怖いから? いや、自分とは何者なのか、何のために生まれ、これからどう生きていくべきなのか、そんなことは考えもしなかったのかもしれない。決まりきった人生など自由がなく、つまらないとうそぶきながらも、どこか他人事として語っているだけなのかもしれない。

理想と現実にギャップがあるのは今始まったことではないし、夢ややりがいを追い求めた結果人生を踏み外すというのは、むしろ普通のことだろう。ただ、踏み外したとしても、それは世間一般的に安全とされるルートではないというだけの話である。多数派の方に入ってさえいれば万事解決ということにはならない。

前述した40代の女性の例で言えば、全人格労働によりそこから外れてしまい、心身ともに損なわれお先真っ暗になってしまったという主張から鑑みて、おそらく正規ルートを歩んできていて、あとはどこかのタイミングで結婚、出産できれば、というステータスだったのだろうが、一般的にそれが良しとされていて、自分もまたそうなる、ということを全く疑っていないように思える。

このことに私は危機感を覚えるのだ。枠組みの中で確率論的に良しとされる、安心だと思われることを選択し、自分もそうあろうとする、それ自体は仕方がないとしても、そうならない可能性もまた考えておく必要があるわけで、今までは特に問題なかったから、周りの人たちもそうだから大丈夫じゃないか、という話には根拠がない。今まさに世知辛い世の中だというならば、なおさらだ。

会社よりも仕事よりも逃げられないのは、自分である。自分自身と向き合えなかった結果として全人格労働につながる、これこそが他人事にしてはいけない問題ではないだろうか。

全人格労働を強制される、これが本当なら完全に労基法違反だし、どう考えてもおかしいと心が叫んでいるのであれば、その声に耳を傾け、行動を起こさなければならない。ある状況により「私」が壊れるのではなく、その状況を受け入れ無理をすることで壊れてしまうのだから。

自分自身と向き合うことができていたら、それを良しとしない生き方を選ぶ「私」が形成されていれば、搾取される形で仕事にすべてを捧げるなどということはありえないのである。

だから、原因のほとんどを会社や経済の側に求めたり、働き方について考えようといったレベルの議題として扱うのではなく、各人が自分事として、これからの時代をどう生きていきていけばいいのか、という次元で考える必要があるのだ。

■ 「とりあえずググる」のをやめて、自分で答えを出すことの意味

最後に、自分自身と向き合うためにできることについて書こう。結論から言うと、「とりあえずググる」ことをやめることから始めるといい。

いつからか、何かに思いを馳せるとき、Googleの検索窓にキーワードを入れて「答え」を探すことが、初めに取る行動になっていないだろうか。

物事を相対化して現状を把握することや、事前に準備し、知っておくことは大切である。そのためにネット上でさまざま情報にアプローチするのは、賢い生き方かもしれない。情報の海を目の前にして、無限の可能性が広がっているようにも思えるだろう。

しかし一方で、それが現実における自分の立ち位置、向き合い方を見失うきっかけになってはいけないのである。他の会社はどうなのか、みんなどうしてるのかと思ったとき、それを簡単に探せてしまうことで、どうしても、自分はどうなのか、どう考えるのか、どうしたいのか、なぜそう思うのか、というコアな部分と向き合う習慣が希薄になってしまう。

確率論の世界や借り物の回答に囲い込まれてしまうと、その中からなかなか出てこれなくなる。選択肢がそこここに落ちているからこそ、逆説的に自分の道を自分で選べなくなるという、皮肉な結果だ。

例えば、結婚について考えるとき、周りの人たちの経験を踏まえた結果、絶対にした(しない)方が良いなどとは言い切れない。結婚さえすれば幸せになれる? 夫にDVされたら? 一人の方が気楽で自由? 子どもを持つ幸せに勝るものはない? 子どもは欲しくないが、少子高齢化だから産むべき?

自分がどんな答えを出すにしても、普遍的に良い・悪いとされること、という観点で物差しを持ち出しても意味がない。まずは考えてみる、感じていることを自分なりに表現してみる、ということをしない限り、枠組みの中で生きることを余儀なくされ、運が悪ければ、全人格労働の罠にはまるかもしれない。

言うまでもなく、とりあえずググるのをやめさえすれば良いという話ではなく、論点はあくまで、いかにして自分自身と向き合う習慣を身につけるか、である。また、自分勝手に生きればいいんだよ、という主張でもない。

むしろ逆で、自分は何者なのか、何がしたいのかという問いから派生して、自分にも何かができるかもしれない、誰かの役に立てるかもしれないという意識が芽生えることで、受身の人生から脱却できるのだ。

このことは、社会学者の宮台真司が共同体に求められるものとして度々用いる「内発性」という言葉で説明することができる。噛み砕くと、良き人生というレールに乗るための利己性や損得勘定による「自発性」に対する、内側から涌いてくる力、利他性や貢献性につながる「内発性」という意味合いになるが、自発性は合目的的なため動機付けが弱く、一方内発性は理由なく突き動かされるものだから動機付けが強い。

結果的に、内発性を持つ人間は自分自身であることを体現でき、それがどんなものであれ、自分事としてアプローチすることができ、環境によって大きくブレることがなくなる。

繰り返しになるが、決めるのは自分であり、一人ひとりが「私」であり、誰も代わることはできない。だから、全人格労働によって人間らしさを失った、こんなはずじゃなかったと嘆いたり、あの人は幸せになっているのにと羨んでいても仕方がない。

他の誰でもない私が答えを出すこと、自分自身で決めた答えなんだからと思えること、これこそが「正解」であることよりも重要なのだ。