色彩を持たない多崎つくるは、それでも“僕的なもの”としてセックスをする

(写真:アフロ)

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ。村上春樹と適度な距離感を保つために、新作が発売されてもあえて文庫化されるのを待つようにしている。だから、いつもこれでもかと書き殴られたレビューで溢れるGoogleの検索結果の中に、小さなつぶてを投げ込むことになる。それでも、今更ながらも書くのである。

まず、この小説には謎がない。より正確に言うと、謎解きは不要な物語である。つまり、喉元に引っかかる小骨のような伏線が其処此処に散りばめられていても、謎を解きたい欲求に負けることなく、それらすべてに「意味を求めない」ことから始める必要があるのだ。

「自意識の檻の中で解釈を加えることからの脱却」がこの小説の重要なテーマであり、その意味において主人公の多崎つくるともども、“たまたま”起こった出来事や謎に対し自己完結する習慣から抜け出すことが求められる。

元も子もない話と思うかもしれないが、この物語は純粋に、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という説明的なタイトルの意味を読み解けば良い。本稿では、その理由について述べたいと思う。

■ 色彩やそれに紐づく記号の位置付けについて

この物語において、色彩には2つの意味がある。ひとつは、名称、記号としての色。アカ、アオ、クロ、シロ、灰田、緑川というように、登場人物の名前に色が入っている。そしてもうひとつは、個性や才能、生命の輝きのような、記号化できない、その人を彩る要素のことである。そして多崎つくるは、自分にはこの色彩がないと感じている。

つくるは、高校時代に得がたい友人たちと「乱れなく調和する親密な場所」を手に入れた。それ自体は素晴らしいことだ。幸運とさえ言える。しかし一方で、自らを色彩を持たない無個性な存在と感じていた彼からすると、アカ、アオ、クロ、シロはそれぞれ皆光を放ち、魅力的に見えたし、偶然自分だけ名前に色が入ってないという致し方ないことさえも、疎外感や自信を失う要素になっていた。

そして、この薄ぼんやりと芽生えたものが、ひとり東京に出て訳も分からずグループから追放されたこと、さらにはその後にできた新しい友に突然去られたことにより、単なる記号や印象であるところのものが、あたかも実体を伴うものかのように色濃く影を落としたのである。東京の大学に進学し念願の職に就いたものの、それ以降の出会いは彼を前に進めさせることなく、自らを空っぽの入れ物と評する自意識を強化した。

ただ、色や記号で何かが決定的に決まるはずはなく、そのことを終盤に「クロ」だったエリが次のように証明している。

ねぇ、つくる、ひとつだけよく覚えておいて。君は色彩を欠いてなんかいない。そんなのはただの名前に過ぎないんだよ。私たちは確かにそのことでよく君をからかったけど、みんな意味のない冗談だよ。君はどこまでも立派な、カラフルな多崎つくる君だよ。

出典:『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』ー P373

つくるは、古い友人にとっての「つくる」であり、父が思いを込めて名付けた「作」であり、夢を叶え駅を作り続ける「多崎つくる」でもある。それらはすべて彼を便宜的に呼ぶ記号に過ぎず、つくるが色彩と呼べる何がしかのものを持つか持たないかは別の話であり、それは当人が決める種類の物事ではないのだ。

そしてもうひとつ、ここにおいてはエリが「シロ」を「ユズ」と呼ぶことが重要となる。グループに属する名称である「シロ」ではなく、親友としての「ユズ」と呼ぶ意味がエリにはある。母となり子どもにユズと名付けたこと、これはある種のセンチメンタリズムであり、死によって断絶された(あるいは悪霊から解放された)彼女は、シロとのつながりを記号として残す必要があったから。

色や記号はその人自身を決めるものではないが、同時に記憶やイメージと強烈に結びつき、郷愁や複合感情を呼び起こすものでもある。この小説は、そのことを巧みに表現した物語でもあるのだ。

■ 色彩を持たない多崎つくると、色彩を持つ他者との間にあるもの

この物語における色や記号の意味は先に述べた通りで、結論から言うと、多崎つくると他者との間に差異はない。

色彩のある・なしは他者の眼差しいかんによって決まるものであり、本人の思惑とは必ずしも一致しない。ある人にとっては、ちょっとしたことが欠落や劣等感になることがある。つくるは自身を色彩を持たない面白味のない人間だと感じ、色彩を持つ友人たちを羨ましく思っていた。

しかし、それは他の4人も同様なはずだ。つくるこそが自分を持っている、個性的で中心的な存在と思っていたり、彼を彩る要素を羨んでいたかもしれない。皆それぞれ劣等感を抱いてもいただろう。例えば、美しく、音楽的な才能を持ったシロでさえも、いやそうだからこそ、自分に自信がなく、苦しんでいた。他者は自分の映し鏡であること、彼女の存在はその構図を際立たせている。

つくるが不幸なのは、突然グループから追放されたことにより、その可能性に気付くことなく、むしろ自意識を強めて内向的になってしまったことである。あるべき姿や向かうべき場所を失ったのは、つくるだけではない。つくるには、その想像力が欠けていたし、それ以前にショックが大きすぎた。20歳そこそこの若者にしては精神がタフだったがために(ギリギリのところまで行ってはいたが)、結果的に不条理な出来事をそのまま飲み込んでしまったのだ。「自分だけがグループから追放され、大切なものを失った」と。実際はそうではなかったのだが、16年もの間そういうものとして誤魔化してしまった。

ただ、そんなつくるにも救いがあった。沙羅との出会いである。彼女は閉ざされた過去を知ることを勧め、つくるを巡礼の旅へと促し、彼はそれに応じるのだった。

■ 「巡礼」を終えた多崎つくるが得たもの

つくるはまず、帰省してアオとアカに会いにいく。そこで、想像もしなかった追放理由とシロの謎めいた死について聞かされ、納得を得られないまま、彼らの今を垣間見たことで、人はどうなるかわからないという至極当たり前のことを知り、時間の経過を実感する。

そして、つくるは終着地であるフィンランドまでクロに会いにいく。より深く、シロがいかにして死に至ったのか、彼女たちの関係性はどのようなものであったのか、そして他者から見た自分はどんな存在であったのかを知る。

タイトルにある「巡礼の年」は、フランツ・リストの連作ピアノ曲集『巡礼の年』に由来するが、その中の1曲『ル・マル・デュ・ペイ』に、過去や故郷に思いを馳せることをイメージさせる「郷愁」や「望郷」といった直訳ではなく、「田園風景が人の心に呼び起こす、理由のない哀しみ」という訳を付けた意味が、このシーンで活きてくる。

「巡礼」というと、どこか失ったものを取り戻すというイメージがあるが、実はそうではない。自分がいるべき場所、帰る場所を失い、その後ぼんやりと生きてしまったとつくるは自覚しているが、16年という歳月を過ごしてきたわけで、それ自体は空っぽではない。つくるもまた昔の仲間たち同様に変化している。それらはすべて喪失により得られたものであると彼は言うが、果たしてそうであろうか。

僕らはあのころ何かを強く信じていたし、何かを強く信じることのできる自分を持っていた。そんな思いがそのままどこかに虚しく消えてしまうことはない

出典:『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』ー P420

つくるは、こう言う。シロだけは、かつての輝きを失ったまま、永遠に損なわれてしまった。冒頭でも触れたが、喪失のきっかけであるシロのレイプ事件の真相を探ることには意味がない。若者たちを心地よくつなげていたものの危うさや綻びを表現するための装置でしかない。確かに、もろく儚いものではある。それでも、不条理にも死んでしまった彼女以外は、まだ何がしかの可能性が残されている。

過去に輝かしいひとときを持っていたとしても、その延長線上に人生を描き続けることはできない。いつしか帰るべき場所はなくなり、好むと好まざるとに関わらず前に進むしかなくなる。時間は遡ることなく、そこにはあったはずの思いと歴史のみが残されるのだ。

■ 向かうべき場所に、沙羅はいるのか

そして、恋人である沙羅について語ったつくるに対し、エリはこう語りかける。

ねぇ、つくる、君は彼女を手に入れるべきだよ。どんな事情があろうと、私はそう思う。もしここで彼女を離してしまったら、君はこの先もう誰も手に入れられないかもしれないよ

出典:『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』ー P367

これに対し、つくるは自分には自信がないと返す。

僕には多分自分というものがないからだよ。これという個性もなければ、鮮やかな色彩もない。こちらから差し出せるものを何ひとつ持ち合わせていない。そのことがずっと昔から僕の抱えていた問題だった。僕はいつも自分を空っぽの容器みたいに感じてきた。入れ物としてはある程度形をなしているかもしれないけど、その中には内容と呼べるほどのものはろくすっぽない。自分が彼女に相応しい人間だとはどうしても思えないんだ。

出典:『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』ー P367

わざわざフィンランドまで来て、エリから自分がいかに魅力的であるかを説明してもらったにもかかわらず、つくるはまだ自分には色彩がないと言う。沙羅を欲していると言いながらも、自らを客体化し自己完結する習慣から脱却できていないことがわかる。

それでも、自信と勇気を持つようにと送り出され帰国したつくるは、沙羅に電話口で見苦しいとも言える振る舞いを見せる。沙羅がつくるを選ぶかどうかはわからない。しかし、大切なのは結果ではなく、彼自身が何かを欲し、行動することだ。もう失いたくないと願うことであり、自分には資格がないと諦めることではない。

向かうべき場所と帰るべき場所を、もう一度彼自身の手で手に入れなくてはならない。それこそが、つくるの巡礼であり、未来であるからだ。

■ 村上春樹の作風はどのように変わってきているのか

最後に、少し村上作品の変化について触れよう。以前、『1Q84』における物語との向き合い方について書いたが、本作も村上文学の最大の特徴でもある「僕」ではなく、語り部は一歩下がったところから「多崎つくる」という主人公と、彼を取り巻く様々な人物や出来事を描いている。

つまり、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に関しては、天才的なストーリーテラーとしての手腕が発揮されることなく、よりプラクティカルで、ある意味においては凡庸な物語が提供されている。

これに関しては、20~30年前に書かれたものを捕まえて、あの頃の作品と比べると小粒だ、才能が枯渇した、作家として後退したなどとしたり顔で批評せず、単純に毎度新しい実験をしている、という前提で考えるのが得策だろう。作者も読者も歳を取り変わっていくし、世界もまた大きなうねりの中で形を変えていくのだから。

これまで村上春樹は、基本的に一人称(僕)で物語を描いてきたわけだが、『1Q84』から本格的に三人称で書くようになった。今後もこの流れが続くかは定かではないが、「僕」という自意識から脱却し、現実的な世界と向き合い、他者と交わり、生活し、家族を築こうとする「普通の人」の有り様が明確に描かれている。

このことを前提にして苦言を呈するなら、より徹底して三人称で書いてほしいということになる。多崎つくるには拭いきれない“僕的なもの”が宿っているし、語り部であるところの村上春樹もまた、物語の中でつくるが自意識から脱却するように、彼を突き放してほしかった。語り部から見たつくると、つくる自身の心象を丁寧に書き分けることで、よりシンプルに登場人物に共感し、自分事にすることができるからだ。

村上春樹の小説に“アレルギー”がある方の主な理由に、自意識の強い「僕」と、彼のセリフまわしとセックスシーンへの違和感がある。自分はいたってつまらない人間と評価し、「わからないな」「あるいはそうかもしれない」などと言いながらも、女性に不自由せず簡単に女性たちと寝てしまう。しかも、そこに現実的な駆け引きや素人らしい感情の揺れ動きの描写がない。コミュ症なのにハードボイルドって、なんだよそれという具合に。

いち村上ファンとしては、「そこはまぁご愛嬌ということで」とお茶を濁したいところではあるが、確かに、そのシーンが必要なのだとしても、セックスし過ぎだろとツッコミたくなることは数え切れないほどあり、食傷気味になることさえあることは否めない。セックスのない村上作品など、栗きんとんのないおせちみたいなものかもしれないが、勝手ながら「僕的なものがセックスをしない」小説を読んでみたい。

そして、それはむしろ村上春樹が書くからこそ意味を持つのだ、という予感がある。そんな物語と向き合うことができるかわからないが、日々を生きながら次回作を楽しみに待とうと思う。