なぜ、「Why」を見失ってはいけないのか。ひとりのメディア人として思うこと

インターネットの普及により、ポータル、コミュニケーション、ソーシャル、CGM、さらにはキュレーション、バイラルなど新しい形のネットメディアが次々と生まれている。一言でメディアといっても、その定義はますます曖昧なものになり、ニーズや価値観の細分化が進む中で、メディアのあり方そのものが問われはじめている。

メディアに携わる者は、誰のために何をつくり、発信していけばよいのか。どうすればマネタイズできるのか。果たして、その答えを導き出せているのかーーそういう私自身、ひとりのメディア人として苦悩の日々を送っている。本稿では、当事者の目線で思うこと、心構えについて書こうと思う。

■ 「PV至上主義」の弊害

まず、ひとつめの苦悩として、ネットメディアの媒体価値を測る「PV」がある。PVは当然多い方がよく、その数値は「セッション×回遊」で決まるから、どれだけ多くの人が訪れ、どれだけ多くのページを見てくれるかが課題となる。SEOコンサルティングといったビジネスが成り立つのもそのためである。

言うまでもないことだが、なぜPVを伸ばさなければならないかといえば、ひとつは自分たちがやっていることを知ってもらい、役立ててもらうため、もうひとつはサイトに来てもらい、何らかの形でお金儲けをするためである。事業会社は、このようにして公共性と収益性を担保することを前提にメディアを運営する。当たり前の話だ。

しかし、実際はこのバランスが危うくなってきている。つまりは、「PV至上主義」が幅をきかせている。なぜ、PV至上主義になるかといえば、単純に1PVあたりいくらという、PVに連動したビジネスモデルで事業が成り立っているからだ。もっとも、ネットワーク広告を入れたところで、ほとんどのサイトは1PVあたりの売上は0.1円から0.5円くらいのものだから、数千万、数億のPVがない限り、それだけでマネタイズするのは難しい。

それでもメディアが乱立しているのは、なぜだろうか。そこに大きなビジネスチャンスがあるから? テクノロジーやデバイスの進化で新しい表現やコンテンツを生み出せるようになったから? それもある。だが、実際のところはもっとネガティブな理由が大きい。「他に儲かる仕組みを作れていない」からだ。

多少乱暴な言い方だが、苦し紛れにメディアを立ち上げるケースがほとんどなのである。インターネット上でビジネスを展開していたものの、これまでのやり方が通用しなくなり、既存のビジネスモデルが縮小し、このままではまずいと手を打つ、そういう流れが圧倒的に多い。中には、既存サービスを補完するものとしてメディア化し、集客エンジンとして機能する場合もあるが、大抵はPVを稼ぐためのコストや人的リソースを割くだけの成果が得られず、マネタイズできないままクローズすることになってしまう。

数年前から、立ち上げ間もない小規模なメディアでは、コンテンツをRSS配信して外部からの流入を増やす施策が常態化し、「ヤフトピ」(Yahoo! Japanトップのトピックス欄のこと。取り上げられると爆発的な流入が期待できる)を狙って記事を配信するといった状況が見られるようになり、ここにいち早く目をつけたキュレーション、バイラルといった、コンテンツを制作して自社メディアに集客するモデルとは別の視点を持ったメディアが、ある意味では必然的に生まれてきた。

自社でコンテンツを作ることなく、他社から調達し、まとめて配信して、ユーザーのニーズを満たす。一見すると新しいビジネスモデルが出来上がったように思えるが、PVに連動したインターネット広告事業という点では何ら変わりはない。また、コンテンツの配信先が増えたことで、既存メディアに生き残りの道が見えたとも言えるが、むしろPV至上主義を先鋭化させてしまっている。

元々は、世のため人のために情報を提供することを大義名分としていたはずが、いつしか何を伝えるかではなく、どうやってPVをつくるかが先行し、とにかく消費させること、1ページでも多く見させることに躍起になる。これが、PV至上主義の弊害である。

いずれにせよ、集客という手段が目的になっている感があるのは否めないだろう。「PVが多い=ニーズを満たしている」という単純化された公式により、ターゲットユーザーはおざなりにされ、公共性は失われつつあるのだ。

■ メディアにおける「公共性」とは?

2つ目の苦悩が、この「公共性」である。そもそも公共性とは、一言でいえば「特定の階層・階級・組織といった個別の利害を離れて、社会全体の利益に貢献すること」であり、その意味では、情報の発信、販売・広告・事業などを含めた全ての活動において公共性を追求すべきものであると言える。

しかし、実際のところ、このような公共性のコアとなる理念は、後回しどころか意識さえされていないように思える。というのも、たとえば、ネット上で人気を集めている記事や動画を紹介し、SNSで拡散させる「バイラルメディア」が急速に増えているが、新しいモデルとして注目される一方で、メディア運営者としての良識を疑われる行為が散見される。具体的には、他メディアや個人のブログ等のコンテンツをほぼ丸ごと無断で使用し、自社のコンテンツとして配信するといった行為だ。

もちろん、組織的にそれを良しとするような悪質な業者は一部で、実際は著作権や引用のルールに関して知識がないことが多い。ただ、悪気がないからいいというわけではなく、「知らない」「ユーザーは気にしないし別にいいんじゃない?」という状況こそ危険なのである。新聞や出版はもとより、インターネットメディアにおいても当然のルールを知らないままメディアを運営している、これはIT企業がメディアをはじめる際に起こりがちな、構造的な問題だ。

なぜこういうことが起きるのかといえば、理由はいたってシンプルである。メディア運営経験者や、訓練された編集者やライターがいないからだ。もしくは、いるにはいるが、社内外の未経験者の数が多く、教育が行き届いていないままサービスがどんどん大きくなり、より一層目が届かなくなっているか、である。そして、そのようなメディアがSNSやアプリをうまく使い、多くのユーザーを集め、数千万単位のPVを叩き出している現実がある。短期間で成長して買収されるケースが増えていることもあり、このモデルを採用して参入するIT企業は後を絶たない。

思いや大義はあるけれど収益性が期待できない「ホワイト」も、パクリも辞さず、ユーザビリティを度外視しマネタイズに走る「ブラック」も賞味期限が短いのはわかりやすい。しかし、実際は「グレー」なメディアがしのぎを削り合っていて、これ自体は致し方ない部分もある。「ユーザーのために!」とは思っていても言うは易しで、やはりメディアの「中の人」はついつい手段が目的となってしまうことがある。事業会社である限り収益性なしに語ることはできないし、社内におけるPV目標を達成するために、本質から外れたことを行うようになってしまう。他人事のように書いている私自身も、ここに陥る危険性と常に向き合っている。

金儲けのために「消費させる」コンテンツを配信し続ける、これは極端に言えば、「誰かのため」ではなく「誰でもいい」ということになる。そもそもメディアとは、どれだけ規模が大きくなろうと、元々は特定のニーズや課題があり、そこにカテゴライズされる想定ターゲットがいて、その人たちに向けて独自に編集された情報を届けるものである。やっていくうちに形を変えていくということはあるが、少なくともスタート時点ではそうでなければ、メディアをやろうと思わないはずだ。

とはいえ、何が正しくて何が間違っているかを判断するのは難しい。白か黒かの話は泥沼のメタゲームに陥るし、成功・失敗は結果論でしかない。情報の発信の仕方、受け方が変わり続けている中では、なおさらメディアとはこういうものだ、こうすればいいと断言できなくなってしまう。

今まさに、メディアの公共性が問われている。しかし一方で、新興メディアは従来の常識とは違う視点で多くのユーザーを集め、旧態依然としたメディアよりもPVやマネタイズという点で成功している事実がある。メディアはそのあり方を変えていく必要があるのだろうか。そうなると、今後メディアは何を拠り所にすればいいのか。多くの人に見られるものをつくればそれで良くて、オリジナルのコンテンツであるかどうかに意味はないのだろうか。ここにも苦悩がある。

■ 結局は「コンテンツの力」が試される

PV至上主義、公共性、そしてもうひとつ、メディア運営者を悩ませるのが「コンテンツ」である。まず、こういうものをつくろうとしっかり決めたとしても、良質なコンテンツをつくり続けるのはスキルも体力も必要となる。その意味では、新興ネットメディアは不利である。テレビ、新聞、出版などの業界には、鍛えられたプロの作り手を数多く抱えている。自社オリジナルのコンテンツをつくるという観点では、質・量ともに敵わない相手だ。

ただ、先述の通り、PV至上主義の中で「質」を問うのは難しい。PV=ニーズと捉えれば、見られれば見られるほど価値のあるコンテンツということになるし、いくらモノづくりのプロが時間とお金を費やしてコンテンツを作ったとしても、見られなければ、売れなければ意味がないと言えてしまう。そして、そのような状況下では、とにかく愚直に良いコンテンツを作り続けるのは、“逆張り”の経営ということになる。

ここ数年、ネット界隈ではテレビや新聞、出版などを「オワコン」などと揶揄する風潮が強くなった。確かに、スマホを中心に持ち運びできるデバイスが増え、ディスプレイが多様化することで、場所や時間を限定するテレビは、人々の生活に則った形ではないと言える。また、新聞に関しても、毎日配達する強力な流通を持っているが、同じく今や自宅で新聞を読むことが日課になる世の中ではないため、同じモデルで新規の購読者を獲得が非常に困難であることは間違いない。出版に関しても多分にもれず、様々な外的要因による慢性的な不況に入っており、一世を風靡した雑誌が休刊・廃刊になることも日常風景と化している。

しかし、だからと言って、これらをコンテンツの質の話と混同してはいけない。あくまでビジネスの話であり、純粋に、生活スタイルや価値観、情報の収集方法が多様化したためニーズに応えられず、不況に陥っているという話なのだ。コストを抑えつつ質を担保する努力をしているのにもかかわらず、売りが立たない。これまでのように多くの人のもとに自分たちのコンテンツを届けられない。問題は質にあるのではなく、コンテンツの質で勝負できないことにあるのだ。

では、一方インターネットメディアは安泰なのかといえば、まったくもってそんなことはない。これは先述の通りである。PV至上主義が蔓延すると、コンテンツはPVを稼ぐためのものになり、コンテンツをつくる体力がない会社は、コンテンツを借りてきて、人を集めるしかない。見せ方やアルゴリズム、思想は違うかもしれないが、ニュースキュレーションがやっていることは大差ないし、メディア側もそれらの中でコンテンツを配信し、流入を増やすことに躍起になる。

メディアが増えれば増えるほど情報は増え、ひとつのコンテンツが見られる可能性が低くなるから、配信先は多いほうがいい。それでもスマホの画面で閲覧することや接する時間の短さを考えれば、さらっと読める内容、文字数がいい。タイトルはとにかくキャッチーに。こういう流れが出来上がるが、本当に世の中のニーズがそうなっているからそれでいい、ということになるだろうか。

このように、ある意味では必然的な流れそのものを否定しているわけではなく、ここで問いたいのはあくまで、ユーザーは置いてきぼりになっていないだろうか、一人でも多くの人に伝えたいことをつくり、それを広げる手段としてではなく、広げることを目的にしてコンテンツを作っていないだろうか、ということである。ニーズの掘り起こしや新しい価値観や瑞々しい視点の提供、つまりは何らかの発見や気づき、感情の揺さぶりを生み出すことを目指すことなく、漫然とコンテンツを垂れ流してはいないだろうか、と言い換えることもできるだろう。

独自のコンセプトや使命感を持ったメディアが、オリジナルのコンテンツを作らなければそもそも成り立たないのに、PVを生み出すモデル頼みになるというのは、完全に本末転倒なわけで、コストをかけて作った者負け、いかに効率的にPVを稼ぐコンテンツを作るかがキモ、という風潮に拍車をかけてしまう。

ただ、言うまでもなく、PVに依存せず課金モデル等で成功しているサービスやメディアもある。これはつまり、ユーザーに提供するコンテンツや体験が魅力的だということであり、消費されるだけでなく、しっかりと使われている証拠でもある。よく使われるサービスやメディアは必然的にPVも高くなるが、それは結果論でしかなく、PVを稼ぐためにコンテンツやサービスを作ってはいない。名ばかりのUI/UX改善でユーザーを無駄に回遊させようとしたりもしない。

実力のある会社は、コンテンツに力があれば、PVは後から付いてくると知っている。だからこそ、集客手段として広告やマーケティング、ブランディングにお金を使う。一方、コンテンツに自信がないメディアはそれができない。スモールスタートだから予算がないという事情もあるが、それ以前に人を集めさえすればどうにでもできる状況がないから、できないのである。

どれだけ多くの人に届けられたかという結果や、その指標としてのPVは重要ではあるが、それよりもまず大切なのは、各々が目指すものに沿ったコンテンツをつくることである。そこをやりきることなくマネタイズの話に終始するのであれば、それはもうメディアである必要はないだろう。意味があることをしている、社会性や公共性があることを前提としている、だからこそ、良質なコンテンツを作ることにこだわる必要がある。メディアであるということは、つまりそういうことだ。

では、メディアに携わる者には何が求められるのだろうか。最後に、メディア人として忘れてはならないものについて書こう。

■ メディア人こそ、「Why」を忘れてはならない

サイモン・シネックの「ゴールデンサークル」の話をご存知だろうか。彼がTEDでリーダーシップについて語る中で、「Whyから始めよう」という言葉が出てくるのだが、これこそメディア運営に携わる人間が心がけなくてはならないことだと思うのだ。

かいつまんで言うと、ある行動が「Why(なぜ、何のために)」から始まっていれば、「How(どうやって)」、「What(何を)」は自然と決まる、という話なのだが、メディアの立ち上げ、運用に際して当てはまるところが多い。もちろん、あらゆるメディアがはじめからコアである「Why」がないわけではない。志高くサービスコンセプトを打ち出し、懸命にコンテンツをつくり、ユーザビリティを追求したサイトを設計し…と取り組んでいたが、思うようにいかず、どんどんずれていってしまうことがほとんどだろう。

「Why」から始めていても、いつしかそのWhyを問うことよりも、HowやWhatの話ばかりになる。これはオールドメディアもネットメディアも変わらぬ課題であり、理想と現実のギャップに対する焦りが、信念を曇らせる。信念を体現することが理想だとはいえ、良質なコンテンツを作り続けることは、間違いなく骨が折れる。しかも、仮にイメージ通りのものが作れたとしても、事業として成り立たなければ続けられないし、別の方法で事業として成り立ったとしても、メディアとしての「Why」がなければただのお金を生み出すツールに過ぎない。つまり、メディアをつくるのは難しいのだ。

でも、だからこそ、やる意味がある。1PVでも、1円でも多く、ではなく、1人でも多くの人のために役立ちたい、使ってもらいたいが先になければ、そこに「Why」はない。読む人に何かを得てもらおうと思って本気で記事を書いていますか? 自分で読みたい、シェアしたいと思わないようなものを拡散させようとしていませんか? そのUI改修はPV目標に達していてもやりますか? ユーザーにとって役立ち、使いやすくなるためのものですか? 釣り記事みたいなものを量産してクリックさせて何になるんですか?…と日々問い続けるしかない。

そんなキレイゴトでメディア運営が成り立つものかと言われるかもしれない。ただ、キレイゴトをやりきってこそ公共性は生まれ、消費されるだけの情報から、意味のあるコンテンツへと昇華させることができるのではないだろうか。もちろん、評価するのは受け手であり、それは操作できるものではない。時代は変わり、ニーズは多様化し、デバイスも進化している。しかし、それでもやはり成功も失敗も結果論でしかないのであれば、Whyから始めるべきだろう。

メディア人たるもの、「Why」を忘れるなかれーー

Whyを見失えば、目指すものからは遠ざかり、結果的に事業としても成功しない。そう信じられなければ、とてもじゃないがメディアはやれない、そう思うのだ。