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デニス・ホー極度の緊張下で行われた香港のオンラインコンサート

阿古智子東京大学 総合文化研究科 教授

 9月12日、日曜日の夜、私のコンピューターの画面には汗を流し、鋭い眼光を放ちながら、しっとりと歌う女性が映っている。香港の歌手、デニス・ホー(何韻詩)だ。

 ホーは今月9日から12日に香港芸術センターでコンサートを行う予定だった。しかし、開催8日前になって芸術センターから通知を受け取り、「公共の秩序や公共の安全が脅かされる場合」には会場予約を取り消すとの契約条項に基づく措置として、予約がキャンセルされた。ほぼ準備が整っていた開催直前の突然の取り消しでは損害も大きいだろう。芸術センターは賠償請求を受け付けないという。

 香港からは最近も連日、活動家の逮捕や民間組織の解散といったニュースが入ってくる。音楽と社会運動の場で共に活動してきたホーの友人、歌手のアンソニー・ウォン(黃耀明)は8月初め、廉政公署(汚職捜査機関)に突如逮捕された。なんと、2018年の立法会議員補欠選挙で候補者だったアウ・ノックヒン(區諾軒)主催のイベントで歌ったことが、「選挙条例(詐欺および違法行為)」に抵触するからだという。当局は3年も前のことを今頃持ち出し、ウォンとアウに罪を着せようとしたのだ。この時は18ヶ月の謹慎処分で済んだのだが、今後は「国家安全」を主張する魔の手が芸術界にも伸びるのではないかと衝撃が走った。

 「会場がなくても、ステージがないわけではないわ」ホーはコンサートの会場が使えなくてもあきらめなかった。すぐに、ライブ動画配信でコンサートを開催すると告知した。そしてコンサート当日の9月12日、21時の開始時間が来たが、私の画面にはエラーが出続けた。当局からまた、なんらかの介入があったのか。オンラインのイベントでさえ妨害されるのか。他の人たちもエラーで入れないようだ。ネット上は「アクセスできない」と焦る声で溢れた。主催者が「落ち着いて。辛抱強く待っていてください」と発信すると、「待っているわ」「頑張って」「香港人はあなたが大好きよ」といったコメントが次々に流れた。10分ほど経ち、画面を更新するとコンサートページの画像に切り替わって音楽が流れた。そして、ホーが登場した。

 最初の歌は「青木ヶ原の三日目」(在青木原的第三天)。北京語の歌だ。彼女が歌うのは広東語の歌が中心だが、北京語の歌もたくさん出しており、中国大陸のファンも少なくない。当然、中国でコンサートはできないのだが。

「体を引きずるようにここに来た。

 沈黙だけ、沈黙しかない。

 1日経っても答えが出ない。

 何が私をひるませるのか。何が私を混乱させるのか。

 何かが胸につっかえている。欲しいものがあるのに言おうとしない。

 泣きながら地球に来た。

 生きるために、生活しかないから。

 2日経ち、地球は死を慰める」

 ホーは続いて、『光栄の家』『砂』『太平洋に出る』『天使の藍』『The Sun in Me』などを歌った。コンサートのクライマックスでは、アンソニー・ウォン(黃耀明)がゲストで登場し、二人で『問我』(私に聞いて)を歌った。これは、先述の選挙条例違反で呼び出された裁判所から出てきたウォンが、待ち受けていた記者たちの前で歌った歌だ。

「百の正しいことをしても千の過ちを犯しても、結果は真正面から受け入れる。

 世界の全てに向き合っているのだから、何も怖くはない。

 全身全霊でほんとうの自分を守るだけだ」

 後に、ウォンはこの時の真意について「自らの過ちを表したかったからだ。結果は真正面から受け入れる」と述べている。

 今回、オンラインコンサートを開くために、ホーと彼女のチームは、どれほどの圧力を感じ、リスクを想定した上で準備を進めたのだろう。ホーはこのように述べている。

「このコンサートでは、万難を排して、チームが音楽を提供するのに適した場所を探す必要があった。だから、とても暑いでしょ(汗を拭きながら)。エアコンがないのよ。でも、そんなこと重要ではないわ。正規のステージなんかよりよっぽど、この偉業を覚えているでしょう。どんな風にみんなに感謝すればいいのかしら。私が唯一できること、それもしっかりとやっていけることは、歌い続けることです」

 コンサートの最中に、当局が踏み込む可能性だってあったかもしれない。会場を貸す業者にもリスクはある。どこで、誰がどんな風に集まっているのか、当局は常に監視を続けている。身の回りにいる誰に情報をリークされるかわからない。今、香港の人たちはおびえながら暮らしている。ありのままの自らを表現したくても、できない。常に恐怖に苛まれているからだ。エアコンのない小さなスペースで、暗闇の中に浮かび上がるように、涙を流しながら歌うホーを見ながら、私も涙が止まらなかった。コンサートを見ていた香港の、世界中の多くの人たちが、同じ思いだったのではないか。今まで体験したことのないほど一体感を感じたオンラインコンサートだった。

東京大学 総合文化研究科 教授

1971年大阪府生まれ。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。大阪外国語大学、名古屋大学大学院を経て、香港大学教育学系Ph.D(博士)取得。在中国日本大使館専門調査員、早稲田大学准教授などを経て、2013年より現職。主な著書に『貧者を喰らう国―中国格差社会からの警告』(新潮選書)、『超大国中国のゆくえ―勃興する民』(新保敦子と共著、東京大学出版会)、『香港 あなたはどこへ向かうのか』(出版舎ジグ)など。

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