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猫が逆さに落ちても足から降りられる秘密を解明した300年の物理学史

秋山文野サイエンスライター/翻訳者(宇宙開発)
(写真:アフロ)

江戸初期に活躍した柔術の大家、関口氏心(関口柔心)の逸話に、「猫が屋根の上で眠り込んで転がり落ち、空中でひらりと身を翻して足から降り立った様子を見て“受け身”を考案した」というものがある。関口氏心は自ら屋根の上に登って転がり落ちる修行を続け、受け身の技を完成させたという。

『Falling Felines and Fundamental Physics』Gregory J. Gbur著、Yale University Press、2019年10月
『Falling Felines and Fundamental Physics』Gregory J. Gbur著、Yale University Press、2019年10月

17世紀の日本では武士が猫に学んでいたわけだが、当時の欧州では科学者たちが「猫が逆さに落ちても足から降りられる秘密」を解明しようとしていた。物理学者グレッグ・バー博士の著書『Falling Felines and Fundamental Physics』は、300年にわたり「Cat Righting Reflex(猫の立ち直り反射)」という猫の姿勢反転技を研究した歴史を追った本だ。19世紀末、写真撮影という技術を手にして研究は飛躍的に進み、20世紀前半についにある物理モデルが提唱される。物理学者、生理学者、写真家、数学者が次々と登場する本書には、宇宙飛行士が猫に教えを請うた1960年代のNASAの研究についても触れられている。

※2020年5月23日 著者Gregory J. Gbur博士の名前をより発音に即したカナ表記に改めました。

写真発明以前

17世紀フランスの哲学者デカルトは、『世界論』を執筆中に「動物は魂を持っているか」という問いを確かめるため猫を窓から放り投げ、恐怖を表すかどうか試していたという。同時代のフランスの数学者ペアレントは、水の中での物体の動きに関する論文を発表し落下する猫を「浮力を受ける球」に見立ててその動作を解明しようとした。しかし空気中での浮力は猫に対しては小さすぎ、姿勢を反転させる補助にはならないことからこの説は間違っているといえる。

19世紀の物理学者ジェームズ・クラーク・マクスウェルはケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで研究するかたわら、猫を逆さに落とす実験を繰り返したという。マクスウェル自身は猫の姿勢反転技の理論について文献を残していないが、教え子で英海軍の医師だったウィリアム・ゴードン・ステーブルスが1875年に猫の生態に関する著書を出版。ペアレントの著書を参考に、猫は落下中に重心を移動させて姿勢を反転させていると考察した。猫の姿勢反転を物理的に解明しようとした初期の文献だが、これも決定的な説明にはならなかった。

道具を手にして

19世紀初頭まで、動物の動きを知るには肉眼でよく見て観察する以外に方法がなく、猫が落下する様子は速すぎて見えないという大きなハードルがあった。だが19世紀前半に写真というツールが発明され、動物の観察に変革がおきる。

フランスの発明家ジョセフ・ニセフォール・ニエプスによる「ヘリオグラフ」は、瀝青(天然アスファルト)に光を当てると硬化する性質を利用した初期の写真技術だ。白鑞の金属板に瀝青を塗った感光材料を作り、カメラ・オブスキュラ(暗箱)を通した風景を記録するというもので、ついに目で見たものを像に写し取ることが可能になる。ただし、1826年に撮影された現存する最も古いヘリオグラフは1回の撮影に8時間を要した。その後、ルイ・ダゲールが感光材料にヨウ化銀を使って改良した「ダゲレオタイプ」を考案し、露光時間をヘリオグラフの数時間から数分へと短縮した。

高速撮影と猫

急速に発展し、科学の分野で使われるようになった写真技術を動物の観察に結びつけたのがアメリカで活躍した写真家エドワード・マイブリッジだ。マイブリッジは、鉄道王リーランド・スタンフォードの依頼を受け、スタンフォードが所有する競走馬オクシデント号の走り方を解明する撮影に挑む。マイブリッジはカメラの露光タイミングをコントロールできる機械式シャッターを考案しており、スタンフォードの支援でこれを電気式に改良して、馬が走り抜けていくと細いワイヤーを切断してシャッターを自動的に切るようにした。こうしたカメラを12台並べ、1878年に世界で初めて馬が走る様子を連続撮影することに成功した。

マイブリッジの連続写真は科学雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」などに掲載され、世界中で大変な評判になった。欧州でこれを目にして衝撃を受けたのがフランスの生理学者エティエンヌ・ジュール・マレーだ。脈拍計などを考案した発明家でもあるマレーは、動物の動きをデータ化し解明することに情熱を注いでおり、マイブリッジに熱烈な手紙を書き送って教えを請うた。

マイブリッジの連続写真は複数のカメラを使うため、馬のように大きな動物では有効だが、マレーが望んでいた鳥やウサギ、猫のような小さな動物を連続撮影することは難しい。そこでマレーは、1882年に「写真銃」と呼ばれる回転式装置を備えたカメラを製作し、フィルムストリップを使って連続写真を撮影する技術を確立した。さらにこのカメラを改良し、「クロノグラフィー」と名付けた。1888年、ジョージ・イーストマンがイーストマン・コダックを創業し柔軟な紙製ロールフィルムを発売。クロノグラフィーの問題点だったフィルムローディングが高速になり、より精度のよい高速撮影が可能になった。

エティエンヌ・ジュール・マレーが1894年に撮影した落下する猫。『Photographs of a Tumbling Cat』より。画像出典:Wikimedia Commons
エティエンヌ・ジュール・マレーが1894年に撮影した落下する猫。『Photographs of a Tumbling Cat』より。画像出典:Wikimedia Commons

こうして1894年、マレーはクロノグラフィーによって逆さに落とされた猫が足から着地する様子を撮影し、フランス科学アカデミーで発表する(ネイチャー誌に掲載された論文が公開されている)。この写真は大変な論争を巻き起こした。猫が角運動量保存の法則という物理法則に反しているように思われたからだ。

マレーの連続写真では、猫は落とされて最初の3コマでは体を回転させていないのに、空中で急激に姿勢を反転させて足から降り立っている。体を回転させる力はいったいどこから来たのか? 写真というツールが現れる前ならば、「どこかのタイミングで壁を蹴っているんだ」で片付けることもできた。マレーの写真は、見えないところでヒモか何かを使って猫を操作しているのではないかという疑いもかけられた。

パリ天文台台長だった天文学者のシャルル=ウジェーヌ・ドローネーは「何らかの支点なしに猫が体を反転させられるわけがない」と自書で指摘した。ドローネーの「支点説」は1894年までフランスの学会では主流だった。

しかし、マレーの写真で猫が体を回転させるときに、壁を蹴るといったごまかしを使っているわけではないこともすぐ立証された。イタリアの数学者ジュゼッペ・ペアノは、猫が尻尾をプロペラのようにぐるぐる回転させて体をひねる力を生み出しているという奇説を提案する。実際には猫の尻尾の回転で生み出せる力は体の向きを変えるには小さすぎる。しかし尻尾プロペラ説は意外に反証が難しく、20世紀後半の1989年に尻尾のない猫でもちゃんと姿勢を反転させて足から降りられることが写真によって立証されるまでその影響を残した。

20世紀に入ると、「タック・アンド・ターン(畳み込み・反転)」モデルという説が提唱される。前足、後ろ足を交互に体に引き付けたり伸ばしたりすることで、上半身と下半身の回転を制御しつつ、前後ろ交互に反転させて最後には4本の足を下にした姿勢へ変更するというものだ。ただし、タック・アンド・ターン説は猫の体全体が一本の棒のように落ちていくという前提で考えられており、姿勢を反転させるために猫は180度以上に首を回転させなくてはならないという欠点があった。写真とは整合せず、欠点を改良したモデルが必要とされるようになった。

オランダ人生理学者のラドメイカーとター・ブラークは1935年に猫の反射に関する研究成果を発表し、より洗練された「ベンド・アンド・ツイスト」モデルと呼ばれる、上半身と下半身を別々にひねって慣性モーメントをコントロールしているという説を考案した。猫の体を2つの円柱がつながった形状として考え、上半身と下半身を腰のところでV字に曲げてそれぞれを回転させるというものだ。現在ではこの説が猫の立ち直り反射の基本的なモデルとして広く受け入れられている。

「ベンド・アンド・ツイスト」のモデル図。Gregory J. Gbur著『Falling Felines and Fundamental Physics』より。イラスト:サラ・アディ
「ベンド・アンド・ツイスト」のモデル図。Gregory J. Gbur著『Falling Felines and Fundamental Physics』より。イラスト:サラ・アディ

1960年代、有人宇宙開発を進めていたアメリカは猫の姿勢反転術を宇宙で応用しようと考えた。無重力状態で宇宙飛行士が器具や小型のスラスタなどを使わずに、自分の体の動きだけで体の向きを変える9種類の技が考案された。技の名前は「キャット・リフレックス」「ベンド・アンド・ツイスト」など猫から学んだ名前がつけられている。

1969年にT・R・ケーン、M・P・シャーが発表した落下する猫の解析画像。『A dynamical explanation of the falling cat phenomenon』より。
1969年にT・R・ケーン、M・P・シャーが発表した落下する猫の解析画像。『A dynamical explanation of the falling cat phenomenon』より。

研究はさらに高度になり、NASAの資金を受けたスタンフォード大学のケーンとシャーの2人の研究者は、落下する猫の写真にモデル図を重ねて解析を行った。このモデル図のおかげで猫の動きを人間に応用することが可能になり、1968年に宇宙服を着たトランポリン選手が空中で体の向きを変えてみせたデモンストレーション写真がグラフ誌「ライフ」を飾っている。

デカルトの時代、あるいは関口氏心の時代から300年かけて、ついに科学者は猫が逆さに落とされても足から降りられる秘密を解明することができるようになった。国際宇宙ステーションに滞在する宇宙飛行士も微小重力環境で猫と同様に姿勢を変える技を使っており、人類は猫に助けられて宇宙に挑んでいる。

サイエンスライター/翻訳者(宇宙開発)

1990年代からパソコン雑誌の編集・ライターを経てサイエンスライターへ。ロケット/人工衛星プロジェクトから宇宙探査、宇宙政策、宇宙ビジネス、NewSpace事情、宇宙開発史まで。著書に電子書籍『「はやぶさ」7年60億kmのミッション完全解説』、訳書に『ロケットガールの誕生 コンピューターになった女性たち』ほか。2023年4月より文部科学省 宇宙開発利用部会臨時委員。

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