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伊達公子に錦織圭――歴代テニス選手が足を運んだ、マンハッタン島の中の温かく優しい『日本』

内田暁フリーランスライター
(写真:アフロ)

 2013年6月。100余年の歴史を誇るウインブルドン選手権で、一つの新たな記録が生まれた。

 当時42歳の伊達公子が2回戦で快勝し、"ウインブルドン史上最年長の3回戦進出者"の肩書を得たのである。

 その新記録樹立者に、試合直後に歩み寄り談笑を交わす初老の女性の姿があった。当時67歳のその女性こそ、“旧記録”の保持者であるバージニア・ウェード。1977年にウインブルドンを制した、英国史上最高の女子選手と讃えられるレジェンドである。

 テニスの聖地で実現した、新旧レジェンドの心温まる交流。その光景に胸を打たれた地元記者が、会見で伊達に「バージニア・ウェードからは何と声を掛けられたのですか?」と問うた。

 「ミスター・クラオカは元気にしている?……と」

 伊達は笑顔で、そう答える。

 質問した英国記者は、恐らく首を傾げたことだろう。

 一方で、その場に居た日本の記者の何人かは、ミスター・クラオカの存在の大きさを改めて実感したはずだ。

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 その場所は8月を迎えると常に、多くのテニスプレーヤーで溢れかえっていた。

 ニューヨークシティ、マンハッタン区の中心地とも言える52番通り。シンプルに「Nippon」と書かれた看板に、静かな矜持と自信が滲む。

 この地で50年以上根を張る店には、1990年代は伊達公子や松岡修造らが毎日のように足を運び、最近では錦織圭も「ニューヨークで一番好きな場所」にあげるほど通い詰めた。

 レストラン日本。

 そこは正に、日本のテニスプレーヤーたちの憩いの地だった。

 ミスター・クラオカ――倉岡伸欣氏――は、このレストラン日本の創業者である。1963年に同店をオープンし、2018年1月に86歳で他界するまで、こだわりの食材を用いた日本食をニューヨークで提供し続けた。

 要人が参席するパーティや会合等のケータリングを担当し、多くの著名人からも愛された日本食屋のオーナーが、テニスの世界にコミットするようになったのは1980年の頃。まだ顔に幼さを残す10代の日本人女子選手たちが、ニューヨークを訪れたのが契機だったという。本人にテニスとの接点はほとんど無いながらも、世界に挑むべくニューヨークに乗り込んできた若き日本人の姿に、彼は胸を打たれたのだろう。選手が全米オープン等のためニューヨークを訪れるたび、倉岡氏は料理を振る舞い、お弁当なども手渡したという。

 さらにそのサポートはニューヨークに留まらず、ウインブルドンの時期には料理人を連れてロンドンまで足を運び、会場近くに一軒家を借りて選手たちのお腹を満たした。やがて倉岡氏の噂は海外の選手たちにも広まり、マルチナ・ナブラチロワら健康志向の強いプレーヤーたちが「我も!」と求めるようになる。冒頭で触れたバージニア・ウェードも、そのような日本食ファンの一人だった。

■選手の危機に手を差し伸べてくれたオーナー夫妻■

 「愛が16歳でウインブルドン・ジュニアに出た時にも、倉岡さんには可愛がって頂きました」。

 30年近く前の日を懐かしそうに振り返るのは、杉山愛さんの母親でありコーチでもあった、杉山芙沙子さんである。倉岡氏の“ウインブルドン出張”は、本店の繁盛により90年代に入ると途絶えるが、その分もと言わんばかりにニューヨークでは常に温かく迎えてくれたという。

 「選手には半額で提供して下さった。試合が遅くなってもお店を開けて待ってて下さり、『大丈夫、大丈夫。なんでも良いでしょ?』と言ってまかない食を作ってくれたり。会場にも毎日のように足を運んで、奥さまと一緒に応援して下さって」。

 そのような日々は、杉山が引退する2009年まで続いたという。

写真前列中央が現役時代の森上亜希子。右は同じく元選手の佐伯美穂、左は中村藍子。後列右が倉岡氏、左が婦人の妻の璋子さん。写真提供:森上亜希子
写真前列中央が現役時代の森上亜希子。右は同じく元選手の佐伯美穂、左は中村藍子。後列右が倉岡氏、左が婦人の妻の璋子さん。写真提供:森上亜希子

 「USオープンの予選に出た頃から、先輩や関係者から『日本の選手が代々お世話になっている場所』として紹介して頂き、そこからは、ほぼ毎日通っていました」。

 2000年代にグランドスラムやWTAツアーで活躍した森上亜希子も、この店に単なるレストラン以上の思い入れを抱く一人だ。その付き合いは10年以上に及ぶが、最も忘れがたいのは2003年夏――ニューヨークが大規模停電、いわゆる“ブラックアウト”に襲われた時である。

 「あの年に私は、USオープンの直前にブロンクスで開催されるITF5万ドルの大会に出ていたんです。ちょうど会場に居る時にブラックアウトになり、信号も止まったので車も走れなくて」。

 ブロンクス区はマンハッタン島の北に位置し、一時期は治安の悪いエリアとしても知られていた。当時森上は、マンハッタンの宿泊先から会場まで送迎バスで通っていたが、その頼みの綱すら停止してしまう。マンハッタンまでの唯一の移動手段……それは、歩くことだ。

 「日が落ちて暗くなったら危ないから! 出発するなら今だ!!」

 大会スタッフに促され、選手やコーチら総勢20人ほどで、ラケットバックなどの大荷物を背負って一路マンハッタンを目指す。スマートフォンはおろか、インターネットも今ほど普及しておらず、Google mapは存在すらしていない時代。頼りは町中のところどころに立つ、「Manhattan→」のようにざっくりと方向を指し示す看板くらいなものである。

 果たしてどこで何が起きているのか? いつ復旧するのか?

 それらの情報もなく、あらゆる機能が停止した町中をさまよいながら、森上がひたすらに目指したのは、ブロンクスの会場から約11km離れたレストラン日本だった。

 「あそこに行けば……レストラン日本までたどり着けば、きっとなんとかなる」。 

 暗闇の中に唯一灯る光を求めるかのように、森上は8月中旬の酷暑のなか、2時間以上歩き続けた。レストラン日本に着いたのは、営業開始時間よりも少し早い夕刻。それでも倉岡夫妻は、「うわー、大変だったね、大変だったね!」と汗だくの森上を抱きしめるように迎え入れ、冷たい飲み物と食べるものを出してくれたという。

 「あの危機的な状況で、あんなにも良くして頂いた。どんな時でも、『あそこにたどり着けば、きっとなんとかなる』と思わせてくれる存在でした……倉岡さんご夫妻もレストランも」。

 森上が抱いたこの思いは、多くの日本人選手たちが共有してきた安穏だろう。

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 そのように、多くの人々にとっての思い出の地であるレストラン日本が、現在一連のコロナ禍により、存続の危機に陥っているという。現社長は、倉岡夫妻が築いてきた歴史と伝統、そして憩いの場と人の縁を守ろうと、クラウドファンディングでの支援を募いはじめた。

 ファンドの寄付者一覧(一部閲覧可能)には、テニス選手をはじめ著名人たちの名も並ぶ。

 そのリストには、『Virginia Wade』(バージニア・ウェード)の文字もあった。

 

フリーランスライター

編集プロダクション勤務を経て、2004年にフリーランスのライターに。ロサンゼルス在住時代に、テニスや総合格闘技、アメリカンフットボール等の取材を開始。2008年に帰国後はテニスを中心に取材し、テニス専門誌『スマッシュ』や、『スポーツナビ』『スポルティーバ』等のネット媒体に寄稿。その他、科学情報の取材/執筆も行う。近著に、錦織圭の幼少期から2015年全米OPまでの足跡をつづった『錦織圭 リターンゲーム:世界に挑む9387日の軌跡』(学研プラス)や、アスリートのパフォーマンスを神経科学(脳科学)の見地から分析する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)がある。

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